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感嘆の声を漏らす伊都をみて、男性ふたりは目を見交わした。沈黙ののち、長髪の男は口に手を当てて、くくっと笑い、若旦那はそれにあきれた風情で肩をすくめた。
「鳥見與一だ。先日の孝和の、腹違いの兄だ。このとおりの奇人でな。大家に追い出されないのが不思議でたまらん」
「奇人変人などは巷に大勢あふれていんす。ちぃとばかし部屋をいじったのを、見て見ぬ振りする寛大さこそがありがたいこと」
「こ・れ・が、ちぃとばかしで済むか、阿呆。いい加減な廓ことばも止せ!」
床と木机と天井を指さした若旦那に、與一はからりとした笑みで応じる。
「なんの、土間をつぶし、畳をはがして板張りに作り替えただけ、屋根をはずさねば部屋に入らない机だっただけ、葺き替えるなら、吹き抜けにしちまえばいいと思っただけ」
最後にことばあそびまで加えてみせた與一に、伊都はうすら寒さを覚えた。なにせこの男、さきほどから、ご面相にへらへらと笑顔をはりつけたまま、およそ表情がない。
「くだんの車夫から言伝てはお聞きかえ?」
「聞いたから、ここにいる」
さようでありんしょうぇ。うなずいて、與一は木机のむこうの若旦那から視線を外した。
木机の表面をさっと片づけ、端へ腰をかける。だいぶ机からはみだしながらも器用にあぐらをかいて、首からうえをあちらへねじる。
「では、『ゆっくりお待ちなさい』。わちきもまさか、ぼっちゃんがこちへいらっしゃるとは思いんせんでありんした」
「前にも言ったろう。親父には内証にと」
「よいではありんせんか。一度好いたものを嫌うのは、容易いことではございんせん」
若旦那はこたえなかった。與一は肩をすくめ、こちらへ向き直り、ぽつりとつぶやく。
「いまだ雌伏のとき、なのでありんすえ」
若旦那には届かなかったろう。こぼれたことばを伊都だけが拾ってしまった。視線をあげた伊都を、與一はやさしく見つめる。
「頼まれごとをしたのでありんす。保たないので、うちではあつかっておりんせんで。ぼっちゃんのくだすった車夫を余所へ使いに遣りんした。お届けにあがるこころづもりで、『ゆっくりお待ちなさい』と言伝てを」
(ここは、お店なの……?)
店構えも何もあったものではない。正面から見た限りでは看板ひとつでていなかった。
(隠れ家のようなお店なのかしら)
褒められたものは売っていないのだろう。若旦那は與一が湊楼へ来るのを厭うたのだ。
一見して身なりが汚らしいのも、眼鏡などして冴えない風貌なのも、ついでにこのふざけた性格も。湊楼での若旦那のようすからは関わりあいになりそうにない人種に見えた。
不審げな伊都に口角をニィと上げ、與一はちょいちょいと手招きをした。中身を見ろというのか、かたわらの小箱を示してよこす。
伊都の肩幅より少々狭い木箱だ。箸ほどの厚みの板でできており、天と正面が空いていた。否、竹ひごが十字に渡してある。
(もしかして、これって──)
かがみこむ。顔を近づけてみるが、暗くてよく見えない。與一が察して、天窓からのひかりにあたるように木箱を動かしてくれる。
日をうけて、箱のなかの闇が揺らめいた。
細い木の枝の端にとまっているのがみえた。葉の影に隠れていたのだ。とつぜんの日を浴びて、緩やかに動きだす。羽ばたこうというのか、翅を閉じて開くをくりかえす。
黒い蝶だった。目を奪われている伊都に近づく與一を、寄ってきた若旦那がさえぎった。伊都の傍に膝をつき、蝶を指さす。
「前翅は黒一色に見えるが、後翅を見てみろ。あの細かい帯の部分は別の色だ」
伊都は若旦那にならって腰を落とし、木机にかじりつく。視線を低くし、小箱のなかを注視してみれば、蝶の後ろ翅のふちに外へ向かって、三日月模様の橙色が並んでいる。
告げると、若旦那はうなずきながらも伊都の肩をつかみ、もっとよく見ろとうながす。
「後翅は周囲だけが黒い。内側は青だ。前翅の帯も色は浅いが、同じ色が入っている」
息をつめ、目をこらす。蝶は翅をふるわせる。日を受けて、後翅の表面が青く煌めいた。金銀の砂を散らした夜空みたいに蝶は輝く。
「ほんとだぁ……」
首を廻らせると、若旦那はまだ木箱のなかの蝶を見つめていた。
「ミヤマカラスアゲハは真っ青にひかると言う。俺はこのカラスアゲハのほうが好きだ」
横顔というには、あまりに近かった。ほとんど、顔を並べていると言っていい。
若旦那は、伊都の目線には気づかない。見たこともないほど楽しそうな微笑みを浮かべ、子どものような口吻で蝶の性質を語り続ける。
抱かれている肩、置かれたてのひらの熱に意識がむかう。背はほとんど若旦那の胸に接している。顔だって、こんなに近くて。
未経験の感覚だった。助けを求めて、木机に腰かける與一を見上げる。伊都にむかってふうっと笑って、與一は「さぁさ、ぼっちゃん嬢ちゃん」と、ふたりに声をかけた。
「カラスアゲハが日にむかって飛んで、翅を痛めてしまいんす。箱を影へ、ね?」
名残惜しげにする若旦那にから箱を取りあげ、與一は意地悪そうに目を細める。
「ぼっちゃん、おわかりかえ? 手のうちの蝶が首筋まで肌を染めていんすぇ?」
言われて、ようやく若旦那は伊都を見た。よほど驚いたか、目を見開く。
「おい、鶏肋──?」
頬が熱くなった。顔を背け、視界から逃れようと肩をおしやり、伊都は立ちあがる。
膝のほこりを払う。離れた伊都を、若旦那はただ目で追う。口元はゆるんで、薄くひらかれている。何ごとか言おうとする。
伊都のあとずさりを、與一が邪魔した。林檎の蜜のにおいのする腕に包まれ、肩口に顔が近づく。耳の産毛をすすーっとなぞられた。
「あのような朴念仁など、よしなんし」
響いた低音に、背がぞくっとした。ぶわっと腕が一面に粟立つ。
伊都はとっさに左腕を目の高さまで掲げた。右手で手首を掴み、肘を曲げ、鐘突の要領で、うしろへ弓なりに振り下ろす!
「──ぐぅ」
みぞおちに受けた打撃に、與一はからだを折り曲げる。近くの木箱をいくつか抱えるように丸まって、木机のうえに横になった。涙をにじませるも、なおも笑みは崩さない。
「なるほど、娘はうつくしいモルフォのようにいつか毒を持ち、獣の骸や腐った果実を好むようになりんすぇ。なれば、わちきは娘ごよりも、ぼっちゃんのほうがよほど……」
「要らん!」
両断し、若旦那は腰をあげ、伊都の肘をつかんで與一から遠ざけた。若旦那のこともひとにらみし、左腕を掲げると、若旦那は手を離し、降参だと両のてのひらをみせた。しかし、反省の色もなく、からかいを口にする。
「男を惑わす色香もなしにムダに色気づきやがる。そのからだつきでは、顔立ちがあやめそっくりなのがもったいないというモンだ」
(えっ……?)
まさか! 自分が母に似ていようはずもない。鏡をいくら覗いても、あのうつくしい母には似ても似つかない幼い顔が映るばかりだ。
「いいえ、いいえぇ。ぼっちゃんはおわかりじゃありんせん。羽化するまえの堅いさなぎのなまめかしさを。無理にこじあけてはなりんせん。やさしく辛抱強く待ってやれば、どれほどうつくしく翅をひらくことか」
與一ははんなりと笑う。手を伸ばし、女のように細い指先で、伊都のくちびるを指さす。
「あ……」
身動きするひまもなかった。
あと一歩、ふれることはない。與一は指をつつ、っと横へ滑らせて、空気ごしに伊都のくちびるをなぞる。気圧されて立ちすくむのを見て、たしかめるように與一はつぶやく。
「ほんに愛らしい人ね」
と、外で物音がした。
與一が木机から飛び降りる。誰何もせずに戸に手をかけてから、ふりむかずにささやく。
「ご他言無用に願いんす」
若旦那はうなずき、伊都を戸口の死角へ押しこむ。自らも戸に背をむけ、伊都に身をよせた。声をあげようとするのを制され、部屋の隅へ積まれた荷のような気分で身を潜める。
戸がひらく。客の姿は若旦那のからだに隠されて見えない。與一と客とが小声でやりとりを交わす。伊都たちに対するようなふざけた廓ことばでないことは確かだった。
耳をそばだてていたのがわかったのだろう。若旦那は伊都の両耳を手でふさいだ。
──とく、ん。とく、とくとくとっとっと。
耳を覆うてのひらが脈を刻む。鼓動は次第に早まっていく。自分の心臓の音と混じりあう。目の置きどころに困り、まぶたをふせる。
伊都は我が身に手を触れる。
肩は骨張って、胸のふくらみは片手にも足りない。腰も、ふっくらとした丸みはない。
──男を惑わす色香もないのに。
色香など欲しくなかった。母が泣くなら、おとなの女になどなりたくなかったはずだ。
それなのに、なぜだろう。いまの伊都は、この身にそうした色香が欲しいと願っている。
(そんなものがあっても、客の男が惑うだけ。あたしの欲しいものなんて、手に入らない)
いつからだろう。悪感情を抱かなくなったのは。からかいに反発して、丁々発止のやりとりをくりひろげるのが楽しくなったのは。
端緒は見つからない。でも、自分の気持ちが三日前と違うのは、はっきりとわかる。
若旦那の指先が耳のうらをなぞる。髪を梳き、頭をつかまれる格好になる。吐息を聴かれるのが恥ずかしくて、呼吸をおさえる。
「もう、ようございんす」
目を開ける。耳にあてられていた手は外れていた。若旦那の熱も遠ざかっている。
「こちへ来なんし。届きんしたぇ」
與一は手のなかの容れものを掲げてみせた。
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