第四話 蝶の遊ぶ籠

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 蓋を開けた容れものを、何だ何だと見つめてみる。肉色をしたかたまりが丸箱にぎっしりと詰まっている。器自体は大きくない。せいぜいがところ、汁椀くらいのものだろう。 (何コレ。生肉? 何かに食わせるのかしら。──まさか、蝶に?)  しげしげと眺めながら思った、とたんだった。かたまりが崩れ、細い溝が走った。わかれた筋それぞれがにゅるりとうごめく。  ぞわり、生理的嫌悪が背筋を這った。さしもの伊都も身をひいた。與一は世にも楽しげに声を立てる。 「みみずの親戚、とでもしておきんしょう。ツバメの仔に食わせておやりなんし」  丸箱に蓋をして、藍色の風呂敷につつみ、きつく締める。 「さ、これなら逃げんせんぇ」  見る間に風呂敷のてっぺんに結び目の花が咲いた。お使い包みにされた丸箱を手渡され、伊都は嫌々ながらも両手で受けとる。 「丸箸より角箸を。この虫は三日と保ちんせん。また三日後にご用意いたしんしょう」 「世話をかける。金はあれでは足りぬだろう。いかほどだ」  若旦那の問いかけに、與一はニタァっと上の歯先を見せた。 「じゅうぶんでありんす。……ただし、三日後もそのあとも、この嬢ちゃんを使いによこしておくんなまし」 「こいつはまだ『蝶』ではない」 「存じておりんすとも。わちきはこの店を人へ知られたくありんせん。ぼっちゃんはわちきとの仲をお父上に知られたくはない。あのあやめどのの娘御なればこそ、でありんす」  與一が口にした名に、若旦那を見上げる。だが、口を割る気はないらしい。與一が補う。 「昔、一度だけいらしたことがありんす。ちょうど、嬢ちゃんくらいの年ごろに」  あのころは別の場所に住んでいんしたねぇ。  眼鏡の奥の目は、思いを馳せるように天窓のあたりにさまよう。かっくん、と首をうしろへ倒して、木机に腰をあずける。  感情の抜けた──否、いままででいちばん人間くさい顔で、與一はつぶやく。 「たいそううつくしい蝶で。苛烈で、我儘で。金にあかせて手に入れてしまえば」  ことばを切り、腑抜けた表情をあらためる。細めた目で伊都を見据える。 「嬢ちゃんの父親はわちきだったかも?」 「んなワケあるか、阿呆」  面食らった伊都にもの言う隙を与えず、若旦那がばさりと切り捨てる。いたわりにしか聞こえない声音だった。 「ぼっちゃんは、相変わらずおやさしい」  與一は手をのばす。まるで我が子か弟にするようにくしゃりと若旦那の髪をもてあそぶ。  いささか乱暴な『いいこいいこ』に、若旦那は抵抗を諦めたらしい。甘んじている。 「万人へやさしくては、好いた娘ひとり救えんせん。蝶を生かしたければ、鳥を飢えさせるよりないのでありんす。我を通せば、他人の我が曲がりんす。天の(ことわり)は揺るぎんせん」  底抜けの笑顔からつむがれる廓ことばは、語尾が浮いている。これまでと同じとは思えぬ真摯な物言いに、若旦那は理不尽にたしなめられた子どものように、反発をのぞかせる。  與一は言わせない。 「ひとを好くことは、他人サマと分け隔てることでありんす。見失っては、なりんせん」  高く乾いた音がして、與一の手がのけられた。触ってくれるな、挙げた手が拒絶する。  うつむいた顔は、與一には見えぬだろう。だが、背の低い伊都には見える。痛みをこらえるように、薄いくちびるが引き結ばれる。  彼の痛みが、伊都の胸にも別の痛みを生む。伊都の知らぬ女がいて、その女を思っての痛みが、若旦那にいまもこんな顔をさせるのだ。 (万人にやさしくして、何がいけないの。博愛の何が悪いの。気が晴れるならいいのよ)  若旦那が望むのが伊都の力を使った人助けだとして、どうして否むことができようか。  なるほど、若旦那から見れば、伊都は罪滅ぼしの道具だろう。けれども、伊都だって文句を垂れながらも、だれかの命がこれでながらえるならば、満足だ。双方が満たされるのならば、何をたしなめられることがあろうか。  黙りこくる小娘の内心など、ふたりは思いやりもしない。伊都は完全に蚊帳の外だ。  さきに沈黙を破ったのは、若旦那だった。 「言われなくともそうするさ。嫌がられても、構うものか」  発された声は與一への返答というより、自分に言い聞かせることばのようだった。若旦那は顔をあげ、伊都を外へとうながす。 「三日後、伊都をよこす」 「ええ、お待ちしていんす」  応える與一の微笑みは、いままででいちばん自然だった。  ──伊都をよこす。  口のなかで何度も転がして、こそばゆい気持ちになった。  鶏肋を、と言わなかったのは、呼びかけではなく、與一へ示すためのことばだからだろう。それでも、伊都は満ち足りてしまう。  湊楼への道のりは重苦しい空気に包まれている。若旦那は歩調こそ行きより緩んでいるものの、だんまりを決め込んでいる。静かな道行きも悪くないが、さすがにそれでは物足りなくなって、伊都は会話の端緒をさがす。 「ねぇ、若旦那。與一さんて、おいくつ?」  疑問を口にすると、若旦那は肩越しに伊都を見やる。前へ視線を戻して、思案している。 「五つ上だから。なんだ、もう三十路か」 (母がいま二十六。あたしと同じ年齢で出会ったとしたら、十三と十七か)  では、そのとき、若旦那は十二歳か。 「母さんと似ているって、ほんとう?」  若旦那は鼻をならした。答える必要もないと言いたそうに口をひらく。 「よくよく見れば、いや、見れば見るほど似ていない。湊楼のあやめは、永真では知られたものだ。鶏肋なんぞとは似ても似つかん」 「なっ、なによ、その言い種! ……あッ」  かみついた伊都がつんのめる。荷を抱きしめてこわばったからだを、若旦那は軽々と片腕で支え、さらに腕から荷を奪いとった。 「ツバメに食わせてやる前に、地面に食わせては世話ないな」  いつもの軽口。だが、嫌みがない。さらりと言い放って、若旦那は先へ行ってしまう。その素っ気なさがなんだか、不安を煽った。 「若旦那!」  呼びとめる。道行くひとがふりかえるほどの声が出た。数歩行きすぎ、若旦那も足をとめる。くるりと、かかとを支点にふりかえる。 「若旦那、あのっ。……あ、ありがとう!」  わからなくなりながらも、思いつくままに腹に力をこめて叫ぶ。若旦那は破顔した。一瞬のことだ。すぐにふだんの、ひとを小馬鹿にしたような顔つきになる。 「それが大声で言わねばならんことか、鶏肋娘。おまえが転ぶのはいつものことだろう」 「いまのも、エサのことも全部!」  若旦那は案の定、こちらの言う礼など意にも介さず、ふん、とふたたび歩きはじめる。  往路とは違い、若旦那を見失うことなく着いていく。ゆったりとした歩みと抑えられた歩幅に、否が応にもこころの緒が綻んでいく。  だめ、ほどけてはいけない。ぐっと引きよせて閉じ込めようとするのに、弾けてしまいそうになる。いまさらどうにもならない。  伊都はふところから手ぬぐいを取りだし、顔に、そ、と当てがう。頬の熱が布地をとおして指先に伝わる。きっと、頬は真っ赤だ。 (恥ずかしいなあ、もう……)  湊楼に帰り着くまで、伊都はうつむきがちに歩きながら、幾度も幾度も顔をぬぐった。
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