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第五話 影を断つ
店に戻った伊都を待ち受けていたのは、山と積まれた昨晩の敷布だった。
「何を毎日ほっつき歩いているんだい! 若旦那のお伴をしているからって、他の娘が肩代わりしなきゃならない謂われはないよッ」
庭先でこうるさい香車に叱りとばされ、伊都はこぶしを握り、身を縮こまらせた。
香車は客引きや、娼妓の指導など奥向きのしごとをする女だ。娼妓あがりのこの女が香車になってから、伊都はきわめて不遇である。
娼妓でいるあいだ、何かと母あやめと張り合おうとしていたのは覚えている。争いごとを嫌う母はまったく相手にしていなかったが、強者の余裕と見えたのだろう。反感を強めて、いまでは伊都すら憎たらしいようだった。
(今日の洗濯当番、あたしじゃなかった)
香車に言っても詮ないことだが、今日と昨日との当番を、明日明後日の当番と替えてもらったのだ。ほんとうならば、これは娘仲間のひとりが引き続きでかかるべき仕事である。
四の五の言う時間もないのは確かだった。現に半日経った洗濯物はたえがたい異臭を放っている。脇に立たされているだけでも辛い。しかも、香車はかんしゃく持ちで話の長い女だ。堪え忍ぶ体勢になったのがいけなかった。
そのしぐささえ、香車の癇に障ったらしい。
「聴いているの? わかっているのよね、明日には使うのだから、すべて真っ白にきれーいに洗って、乾かすんだよ! 明日の昼には、姐さんがたのお部屋に敷いてさしあげな!」
ひとりでおやりよね。語気を強め、香車は言い放つ。だが、汚臭にはたえかねたようだ。袖で鼻を覆い、そそくさと立ち去っていく。
「ふぅ……」
短く済んだお小言に安堵すると、くすくす笑う声がした。庭に面した二階の廊下からだ。
見上げるまでもないが、お望みとあらば、笑みかけてやろうか。
肩越しにふりあおぐ。やぁだ、こっち見てるぅ。言って、人影は視界の外へ逃げていく。耳をついたことばに伊都はあきれた。
(『やぁだ』は、あたしが言いたいってば)
孤立するのは、わかっていた。
当人同士にそうした意図はまるでなくとも、若旦那に近づけば、権力者への擦り寄りかえこひいきかと見られることも、理解している。
香車や娘仲間の態度をみれば、そのうえに立つ姐さんがたの考えまで透けて見えてくる。
伊都はまぶたを閉じ、しばし、こめかみを指で押しもんでから、ぱちっと目を見開いた。
気合いをいれる。袖をまくり、うしろへたすきがけに止める。はしたないが、洗濯物の量が量だ。裾もからげる。むせてしまったので、手ぬぐいで口を覆って、臭気避けにする。
大きな洗濯桶を出してきて、桶と井戸とのあいだを何往復もして水を張る。敷布を広げて、汚れの固まってしまったところをつまんで、あらかじめせっけんで洗っておく。数枚いっしょに桶に放り込み、洗濯ソーダを振りかけ、裸足で桶に入り、踏み洗いする。
水がぬるぬるする。あんまり長いこと浸かると、足の皮膚が焼けてしまう。手早く行うのが肝心だ。それにしたって、残りが何枚あるのかも考えたくない量である。
無心になる。踏むほどに、初夏の陽気がむっと迫る。首筋から汗が伝い落ちる。
手ぬぐい。思って片手で懐を探ってから、鼻と口元を覆った布地に気がつく。
(フクのごはん、ちゃんとやったかな)
考えていたから、頭上にさした影を見誤ったのだ。期待を込めてふりあおいだぶん、落胆は隠しようがなかった。相手も気づいた。苦笑いしてよこす。
「そりゃ、随分じゃないかい、お伊都?」
「茅野姐さん。ごめんなさい。考えごとをしていたものだから、つい、母かと」
嘘をついていた。伊都の言にはさほど頓着せず、茅野は腕を組む。こちらの足許をみつめ、何を納得したのか、ふんふんとうなずく。
「それ、半分およこしよ」
きれいな指が示したものに、伊都はめんくらった。茅野が指さしたのは、後方に控える洗濯物の山である。
「だっ、だめです、いけません。そんなことしたら、姐さんの肌が荒れます」
そればかりではない。伊都の立場もなお危うくなってしまう。しかし、茅野はそれすら承知しているというように呵々と笑った。
「おっもしろいねェ、お伊都は。……こちとらね、あやめみたいな生来のお姫さんじゃあないんだ。手なんざぁね、ひび割れてもカサついても、いずれは治るサ」
「でも、今晩や明晩にさわりますから」
「それをお言いなら、よく考えてごらん? 昼じゅうに敷布が洗い上がらないほうがよっぽど問題さ。洗い場も干し場もひとつっきゃないんだから、今晩の敷布はどこで洗ってどこへ干すっていうんだい?」
香車のヤツもどうかしてるんだよ。昼も過ぎになってから、お伊都ひとりに任せるだなんて、考え無しにもほどがある!
憤慨したようすで言って、茅野は部屋着の袖をまくり上げる。伊都の言いぶんにも耳をかさずに、洗い桶をもうひとつ用意した。
教えられずとも必要なものをテキパキと支度していくのをみれば、やはり手際がいい。伊都たちのような下積みの経験もあるが、本人の言うようにそればかりではないのだろう。
ついつい見惚れていると、茅野はようやっと伊都の視線に気がついたようだった。照れたように顔をそむけ、きつい調子で指摘する。
「足がお留守だよ!」
言われて、足踏みを再開する。たがいに構っていられないのはすぐにもわかった。ふたりがかりでも、ぼやぼやしては日が暮れる。
湊楼では、敷布は一晩で何度も取り替える。それこそ、客が入るたびに替えているはずだ。客や姐さんがたの浴衣も同様である。それゆえに枚数はかさむのだ。
(余所みたいに洗濯屋に頼んでくれればいいのに。なんでケチるかなぁ……?)
こころのなかでぼやいたが、楼主に逆らう命知らずではない。
詮ないことを考え考え、足を必死に動かして、日暮れ前には洗濯を終えた。
娘連中がのぞきにきて、茅野が手伝っていることを見られでもしたらと、伊都は気が気でなかったが、さいわいにして、洗い場に足を運ぶ者はなかった。
初夏の長い夕暮れが空を染めている。大通りのにぎわいが店の裏手の庭まで届く。湊楼も動きはじめている。先刻より、姐さんがたの身支度のためだろう、足音が増えた。
(そっか、見られる心配なんかなかったんだ。あの子らも自分の支度と店の支度とで大わらわだったんだから)
考えて、桶を棚へ片づけ、はたと気づいた。
伊都はぎこちなくふりかえる。茅野はひとしごと終えた開放感に、さすがに力の抜けた笑みを浮かべている。
「姐さん! 茅野姐さんっ! お支度、間に合わなくなっちゃう!」
青くなった伊都に、茅野はとぼけたように首を傾げる。からだをひねり、うーんっと伸びをする。あくびまでしてみせてから、肩に手を添え、コキコキと首をまわす。
「このまんまじゃあ、だめかねェ?」
いかにも面倒でしかたないとの言いぐさに、伊都は悲鳴をあげた。
「だめです! ぜったいに、だめ!」
悲壮な表情で、支度をと、部屋へうながす伊都を茅野は数瞬、へらりと見つめた。そうしておいてから、すっと真面目な顔になる。
「……ほんと、からかい甲斐があるわあ」
「へっ?」
間抜けな声をあげた伊都はすでに半泣きだった。なにせ、大失態だ。もとは自分の仕事ではなかったとは言え、楼内でも格上の娼妓に洗濯を手伝わせたうえ、時間も忘れてこの体たらくである。
茅野は破顔し、得意げに声を漏らした。
「身・揚・が・り。あやめはめったにないかもしれないが、休みたいときゃ、自分で花代払やいいのさ」
一度うつむいて、うなじのほつれ毛をなおしてから、茅野は顔をあげた。
何事かをたくらむようないたずらっぽい笑顔がのぞいている。
「ね、お伊都。あんた、ちょいとつきあいな。せっかくの休みだ、外へお忍びに行こう」
身構える間もない。茅野は強引に誘う。
「洗濯、手伝ってやったろう? ね、いっしょに来るだろ?」
てのひらを合わせ、楽しい思いつきに考えをめぐらせている。
「氷菓子って夜も売るのかねェ?」
こどものように好奇心にわいた瞳に、もとより逆らえる伊都ではなかった。
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