第五話 影を断つ

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 永真遊郭は黄昏に色づいていた。  店々の軒に下がる提灯が、ほんとうに用をなすのはこれからだ。そよ風に橙のともしびをちらつかせ、提灯は店に宵を誘い込む。夜深くなるのを待ちかねて、多くの人影が提灯を頼りに店に踏みいっていく。  伊都は勤めを放り出してきた。十中八九叱られるのなら、腹も据わろうというものだ。せいぜい茅野につきあうつもりだった。  それゆえか、気楽な道行きだった。たとえ見つかっても、罰までは受けまい。湊楼では、売れっ子の茅野の発言は強い。  茅野はきっぷがよく、いつもからりとして、風通しの良いひとだと、伊都は思う。  伊都の先導をしながら、茅野は猫のようにするりするりと人並みをかいくぐる。どこか行きたいところでもあるような足取りだった。  化粧っけのない頬をさらして、小走りもせず、隠れもせずに大通りを堂々と歩く。行き違う男がふりかえる。彼らの横顔を見上げてどきどきしつつも、伊都も脇をすり抜ける。  遊郭大門は開放的な昼間のようすとは、違った様相を呈している。頑強そうな門衛がふたり、ひとりたりとも女は外へ逃がすまいと、目をひからせている。 「姐さん。無理です、正面からなんて」  袖を引いて言う伊都に、茅野は片目をつぶってみせた。何度も引き留めるのを余所に、堂々と大門へ近づいていく。 「おい、女。どこへ行く」  あと一歩というところで、当然のように左方の門衛が上段から声をかけたのを、年配の右方が肩をつかんで止めた。 「莫迦やろう、湊楼の茅野だぞ!」  押さえきれなかったささやき声は、伊都の耳にもしっかりと届いた。案の定だ。なんてこと! 思って、顔を覆いたくなったが、茅野は実に平然としたものである。同様に、右方の門衛も、どこか慣れているようだ。  何事かと見ていると、茅野はおもむろにふところへ手を入れた。取りだされたのは、小さく折りたたまれた半紙一枚きりである。だが、伊都は目を大きく見はった。 (──もしかして、これって)  大旦那か若旦那の手による品だ。半紙には達筆で数行の文章が書かれている。朱色もあざやかに湊楼の割印も入っていた。茅野はその書状をひょいと左方へとつきつけて見せる。  伊都は書状の内容を盗み見て、ひそやかにこくりと喉を鳴らした。  勘に間違いがなければ、それは通行手形(きって)だ。永真遊郭の娼妓は、横濱遊郭大門を越えること叶わない。通常ならば、だ。楼主の発行する通行手形があれば、このとおりではない。  実際に目にするのは、はじめてだった。うわさには聞いたことがあったが、そんなもの存在するわけがないと、嘘だと思っていた。廓の娼妓は、肉親の死に目にもあえぬもの。知っているからこそ、自分が外に出られることさえ信じがたかったというのに。 「さ、お通しよ。ね?」  さっきのお返しとばかりに顎を上げ、茅野は高飛車に言い放つ。胸をはり、腰に片手をあて、文句があるかと言わんばかりの態度の彼女に、左方の門衛は憎々しげに舌打ちした。「通れ」言って、あごで外を示してよこす。  むこうっ気の強い茅野のことだ。そのしぐさも癇に障ったらしいが、時間が惜しかったのだろう。鼻をならすだけにとどめ、そそくさと大門を通りぬけようとした。  そのときだ。左方の声が背にかけられた。 「……待て。いまの書状にゃ、このちびのことは書いてなかったぞ」  大門は抜けている。逃げてもよかったが、ことを荒立てたくはない。たちどまってふりかえる。若い門衛は鬼の首をとったように得意げにしている。  茅野は左方に背をむけたまま、小声で男を罵り、ゆっくりと見返った。お客にするようにあでやかな微笑みを浮かべる。 「書いてあるわよ、よく御覧よ。娼妓『茅野』の下、『妹』と書いてあったろうに。もう一度見せてやりましょうか」 「よし見せてもらおうじゃないか」  言って意気込んだ左方を、年かさの右方がからだで止めにかかった。 「そう食ってかかるな、ほんとうのことだ。俺が確かめたから、嘘じゃない。──ここはいいから、気にせずに行ってやれ」  後半は茅野に声をかけ、右方はおとなしくなった若者を解放し、中へとむきなおる。 「しかし!」 「良いんだ」  言い切られて押さえ込まれて、左方は不満たらたらのようすである。  茅野は黙って右方に目礼し、伊都をうながして大門を離れた。じゅうぶんに永真から離れたところで、ようやく伊都は口に開いた。 「姐さん、どちらへいくんです?」  問いたいことはたくさんある。  なぜ通行手形を持っているのか。あの右方の門衛のようすでは、以前にも大門を通ったことがあるのだろう。それなのに、ひとに知られずに済んでいるのはなぜなのか。  みなまでは問えずにいると、茅野はこちらへ流し目をくれた。 「ねェ、お伊都。──今朝の、あんたがやったんだよね」  質問には答えがなく、問いを返される。いや、念を押されたというのが正しいか。  どう答えたものかと迷った数秒をとらえて、むこうをむいたまま、茅野はたたみかける。 「若旦那もあやめも何ひとつ吐かなかったし、ひとつ本人に聞こうと思ったの。あいつらを疑うのはよしてやってよ?」  周囲の熱気にやられたか、今夜の茅野は口数がふだんより多かった。伊都が聞く前に自分から口を開く。 「弟が病がちでね、ひねもす床についてる。あたしが十のころにうまれたの。いま、お伊都とおないどし」  病。そう聞いただけで、まだ言わぬ先がわかってしまった。  瞠目すると、歩きながら、茅野がちらりとふりむいた。肩越しに目があった。ぼんやりとした笑みを浮かべて、手をのばしてくる。脇へおろしていた左手首をつかまれて、伊都はびくりと立ちどまった。  茅野は、何も言わない。手を引いて、無理に歩かせる。 「謝らないからね。許せとも言わない。萬市(まんいち)の──弟の薬や包帯には山ほど金が要って、あたしの稼ぎじゃ、とんとんなんだ。日々食って、生き延びるための薬を買うんで、せいいっぱいだって」  はははっ、声だけ高く笑って、夜空を仰いで、どこかへと歩く。前を行く背は、ゆらいで見えた。 「あたしさぁ、お姫さまに生まれたかったよ。そしたら、萬市がいくら病気したって、ありあまる金で治せる。毎日、飯に困らずに湊楼できれいなべべ着せてもらって男どもに褒めそやされて、あたしの稼いだ金で萬市が助かってると思ってた。お姫さまになったつもりでいたんだ。あやめの出自を知って、ざまぁなかった。ほんもののお姫さまが落ちぶれてやって来るのが、いまあたしのいる場所なんだって」  人影が少なくなってきていた。暗がりのせいか、伊都にはもう、自分が歩いているのがどの界隈なのか判別できなかった。  歩幅が狭くなる。歩調のゆるんだ伊都に対して、茅野は知った道らしい。だんだんに足が早くなっていく。 「豚谷戸(やと)って、ご存じかい?」  答えずにいると、茅野は言いなおした。 「乞食谷戸と言ってね、むかしっから貧乏人が集まるのよ。船乗りや日雇いの荷運び人が多いかね。あたしの父ちゃんも港で働いてたけど、重たい荷に足をつぶされっちまってから、家族みんなでここに住みついた」  手をしっかりとつかまれ、ゆさぶられた。伊都より少し高い位置にある肩が上下する。茅野は勢いをつけるようにうなずいた。 「ほんとうは夜の豚谷戸なんざぁ、歩けたもんじゃないのさ。十まで過ごしたあたしだって、今夜が初めてだもん。お伊都には怖いかもわからない」  だいじょうぶ、あたしがついてる。言ったはいいが、つかまれた腕を通して、こわばりが伝わってくる。徐々に早くなる脈、汗ばんだてのひら、左右の暗がりに目を配るたび、五指は握り直される。  茅野とともに脇道を覗き、伊都は後悔した。闇に慣れた目に、奇妙な影が映った。  ――それは、餓鬼に似ていた。  小柄な伊都と同じくらいの背だった。骨と皮ばかりにやせ細った四肢にくらべて、おかしいほどに腹がふくれている。こちらに気づいたのか、太鼓腹をかかえて、『餓鬼』はガニ股で走り去る。角をまがり、いなくなる。影だけだ、顔が見えたわけでもない。  慄然とした伊都を、繋いだ指が励ます。 「しっかりおし、まだ谷戸に入ってもない」  言われて、向き直った横っ面を風が叩いていく。乱れた髪を押さえると、袖がなびいた。長い風をやりすごして見上げた空がゆれた。さわさわと、人がざわめくような音があたりじゅうに渦巻いた。  目をこらした伊都に、茅野は短く教えた。 「お山だよ。森が揺れているんだ」  なるほど、言われてみれば、葉ずれの音だ。ほっと息をぬくと、茅野はあまった手で頭を撫でてくれる。気づけば、繋いだ手は抱え込むように伊都の胸元に置かれていた。知らず知らずのうちにひきよせていたのだろう。 (あたしって、なんて臆病者なんだろ)  見上げた顔はよほどこわばっていたのだろう。茅野は撫でる手をふと止め、眉を寄せた。肩口に軽く頭を抱きよせられる。 「ほんと、あたしはお伊都になんてことをさせてんだろね。萬市と同い年だなんて、まだまだこどもじゃないのよねェ」  もうすこし、谷戸はあの森の下だから。そこまで行けば、うちもあるはず。  茅野のことばに、ひたすらにつき従う。森の下とは言ったものの、このあたりの地面にも木の根は這っている。しばしば足を取られる伊都に比べ、茅野はさすがに慣れていた。器用に根を避け、ぬかるみをまたぎ越える。  谷戸は、文字通りの谷だった。まばらな木立のなかに板を組んだだけのあばら屋が身を寄せ合っている。住人の姿は見あたらず、灯りもほとんどなかった。怒声と罵声と嬌声とが代わる代わる耳をすり抜けるが、いったいどの家からのものかもわからない。  足許の踏み荒らされた泥からは汚臭がし、屋根に干された服はすえた臭いを放っている。ぬかるみに滑って、板壁に手をつく。腐った板壁はほとびた煎餅のように音もなくむこうへ折れていく。  てのひらに残る湿りけに、伊都は泣きそうになった。恐怖よりも遥かに嫌悪がまさった。 「姐さん……」 「しっ」  鋭くたしなめられたが、遅かった。視線が刺さる。影もないのに、周囲の目を感じた。  茅野の動きは素早かった。 「お伊都、走るよ!」  言うなり、裾をからげて走り出す。片手は伊都と繋いだまま、片手で裾をまとめ、膝をあげる。走るうちに伊都もそれにならった。  むきだしの膝頭をぬるい風が打つ。裾がはだけて、ときおり腿まであらわになる。道の脇から手が伸びて、肌の露出した足を撫で上げられた。二度も、だ。それでも、走らないわけにはいかなかった。  追ってくる足音があるのなら、まだわかりやすかった。そうではないのだ。はじめの声を聞きつけた者が道に出てくる。その気配が次の者たちの関心をひく。そうして、あばら家から顔を出す者が増えた。  ちょっかいを出され、野次られるたび、前を走る茅野の手に肩をよせてすがりつく。下卑た笑いにさらされて怯え、伸びてきた腕につれていかれそうになっては振り払う。  森の下につけば、だいじょうぶ。信じ込んでしまっていたが、奥へ行くにつれ、あたりは暗くよどんでいく。  最初の一歩を誤ったのではないか。森の下、谷戸の中心へむかうのではなく、引き返すべきだったのではないのか。  不安が胸中をかすめた。そのときだった。
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