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小さな子どもが顔を見せた家があった。戸口から恐る恐るといった体で、騒がしくなった道をうかがっている。茅野の視線がそちらにむいたのがわかった。
伊都は子どもを注視する。やんちゃ坊主のような風体をしているが、線がやわらかい。女の子だろうか。まだ五つか六つか。男女の区別のない年齢とはいえ、いくぶん整った顔立ちは男の子のものではないように思えた。
茅野が叫んだ。
「おまえ、サヤかいっ?」
びくりと肩をふるわせ、女の子はすぐにうなずいた。それを見て、茅野は急に行く先を変えた。子どもの脇をすり抜け、家のなかへ飛び込む。伊都もあわててそれに続いた。
むわっとした臭気が顔を覆った。『鼻をつく』という生易しい表現で済むものではなかった。気持ち悪いと思う間もなく、胃の腑のなかのものがせりあがってくる。喉の奥から口中へ酸っぱいにおいが満ちた。
咳き込んだ伊都の手を離し、軽くたたくように背を撫でて、茅野はそばへかがみこむ。
「手ぬぐいで顔を覆いな。初めてじゃあ、耐えられるものじゃない。だいじょうぶ、萬市も、それっくらい許してくれるから」
耳元でささやかれ、伊都は涙目で従った。いわれたとおりに胸元から手ぬぐいを出そうとした。すぐさまふところへ手をさしいれて、違和感に気づく。ない。
「あれ?」
小さくつぶやいたのが聞こえたのだろう。茅野が見かねたように布を差しだしてよこす。すこし厚手の薄紫のしぼりの端布だった。
ありがたくお借りして、口許を隠す。ふわっと、胸のなかまで芳香が入りこんだ。きっと練り香を焚いてあるのだ。鼻がくすぐったくなるくらい甘ったるい素馨の匂い。この場の情景にひどく似つかわしくない香りだった。
良い香りにごまかされて、ようやく意識が保てるようになった。伊都は顔をあげ、あばら屋のなかへ視線をめぐらせる。家のなかには灯りはなかった。隙のある壁から漏れてくる外のひかりを頼りに目をこらす。
やがて暗がりにも目が慣れていき、はじめに茅野が『サヤ』と呼んだ女の子と目が合った。伊都は気がつかなかったが、どうやらずっとこちらを窺っていたものらしい。
視線が交じるようになったとたんに、サヤは身をひるがえした。狭い家のなか、奥へさがる。何者かの袖をつかんで、むこうへ隠れてしまった。目で追って、伊都はそちらをのぞきこむ。
この相手もじっと、伊都を見ていた。少年だ。伊都と同い年くらいに思われた。もしかして、彼が弟の『萬市』だろうか。警戒と好奇心がうかがえる表情だ。
傍目にはいかにも元気そうで、始終、床についているとはとても見えない。現にいまだって、ずいぶん身軽な格好をしている。膝は泥にまみれているし、サヤを後ろへかばう腕も筋肉がつき、多少がっしりとしている。外で動きまわる者の手と見える。
「お伊都、こちらへ」
手招かれた。茅野は中腰のまま移動して、少年の背へまわった。その場へしゃがみこむ。そちらには何があるのか。事態がうまく飲み込めないものの、伊都はサヤと少年に目をやりながら、じりじりと茅野のそばへ近づこうとした。それを、脇から腕にさえぎられる。
「カヤ姉ちゃ。こいつ、だれ」
少年が短く問うた。思ったとおり、少年は茅野の弟のようだ。茅野も簡潔にこたえる。
「名は伊都だ。萬市の病気を治してくれる」
返答にはいささか驚いたようだった。一瞬眉をはねあげたものの、やはり、うさんくさそうに伊都を見遣る。
「医者には見えね。俺よか年下だ、こいつ」
「あんたとは……そうね、二つ違いか。とにかく通しておやり。時間がないんだ」
「だけっどさ、」
あくまで口答えする少年に、茅野は険しい顔でぴしゃりと言った。
「おだまり。あんた、だれの御蔭でおまんま食ってるんだい? いつからそんなにお偉くおなりだ」
言われて、一気に顔色を失った少年と茅野とを、サヤはおろおろと見比べてばかりいる。
「姉さんだって、そんなしゃべくり、余所のひとみたいだ」
「市祐」
茅野が咎めるように口にした名の響きが、伊都にはいたく傷ついたようにしか聞こえなかった。しばらく、場には沈黙がおりた。
「……祐兄ちゃ、今日はそこまでにしてくれよ。せっかくカヤ姉ちゃが帰ってきたんだ」
割って入ったというには、だいぶ遅れた発言だった。くぐもったその声は、茅野のすぐ脇から聞こえた。
「伊都、さん? たぶんね、おれ臭いから、そこで良ければ、そこにいてください」
今度は多少、明瞭な発音になった。遠くにいると思って、声をはりあげたのだろう。そうまでしなくても聞こえると言っていいものかわからず、伊都は黙って少年──市祐の腕を押しのけた。
もうひとりが、やっと視界に入った。
布のかたまりだった。包帯かさらし。だが、妙な色だ。そこまで見てとって、伊都はそれがひとであることに勘づいた。
伊都の知識でも、何の病かすぐにわかった。
粘性の咳をして、萬市は起きあがった。顔を覆っていた布がはらりと剥がれて、面相があらわになる。
伊都は、驚くことさえ忘れた。知らず、呼吸をとめていた。
なかば溶け落ちた蝋のように、肌はつるりとしている。歪んだ皮膚が一部だけ頬にとどまっている。目鼻立ちはつるりとして、判然としない。暗がりのなか、左目とおぼしき窪みだけがちらりと、ひかりを反射する。
萬市は口をひらく。
「怖いでしょう。でも、これはね、もうこれ以上崩れません。これ以上治りもしません。だから、おれ、あなたの手は借りない」
布のまかれた手を眼前にかざして、日にすかすそぶりをする。宵闇には何の意味もない。役者のしぐさのようだ。
「これは病で腐ったわけじゃない。火傷したんだ。このあたりの者にも嫌われて、先日、煮え湯をかけられた」
痛みを想像し、身をすくめた伊都を、笑う吐息が聞こえた。茅野が怒りにふるえ、こぶしを握っているのが、視界の端にみえる。
「平気。熱くも痛くもないよ。あんたがたのからだとは違うから。おれのからだは特別だもの。ただ、肉が焼けるだけ。まっしろに焼けて、めくれて、煮える。痛くない」
今度ははっきりと笑う。笑い過ぎたのだろう、むせかえり、しばらく咳き込んだ。
「カヤ姉ちゃ。頼むからさ、その子をつれて帰ってよ。伝染ったら、かわいそうだもの」
「おまえ、何を言っておいでだ。それは伝染らないじゃあないか、サヤだって市祐だってあたしだって、ぴんしゃんしてる!」
言った茅野に、かぶりをふる。
「どっか病んだと思う。こないだから、咳が続くんだ。それに、熱がひかない。できれば、サヤをどっかへやってほしいんだけど、祐兄ちゃがいっかな動かなくって」
どういうことだとふりかえる茅野に、市祐は悔しそうな顔をした。
「ここへ置いてく金がない」
「金って──。多めに渡したばっかりじゃ。……まさかもう全部使っちまったのかい?」
絶句した茅野に、市祐はうつむいて、だんまりを決め込む。萬市はまた、のどで笑った。
「あいつらが持って出ていったに決まってるじゃないか! 毎月、毎月だ。届いたばかりの金を根こそぎ持っていきやがる。そのうえ、湊楼へ金の無心をしにいくんだ」
サヤがぺたりとしゃがみこんだ。周囲の気迫に押されたのだろう。声を殺して泣きだす。市祐が傍へかがみ、背を抱いて、だいじょうぶだとゆさぶってやる。
小さく泣き声が続くなか、伊都は手がふるえるのを感じた。せめて茅野にすがろうとした、そのときだった。
「──それが、親のすることかい」
低い声だった。茅野は伊都から遠ざかり、萬市に近づく。よろよろと歩いていき、崩れるように藁敷きの床へ膝をつき、痩せ細ったからだを両腕に抱えこむ。
「祐兄ちゃの稼ぎで暮らしてるんだよ、おれたち。姉ちゃはね、あいつらが遊ぶ金のために身を売ってるんだ。あいつら、働かなくても遊んで暮らせるんだ、姉ちゃのおかげで」
余裕をたたえて高く笑っていた萬市の声がふるえた。どんどんと、語尾が弱々しくなり、消えていく。
「カヤ姉ちゃ。もう、身売りなんてよしてよ。おれのためなら、なおさらだよ。そいでさ、年季はそろそろ明けるだろ? いいひと見つけて、谷戸なんか忘れて、おれたちのことなんか忘れて、しあわせに暮らすんだ。下町のおかみさん、似合うと思うなあ」
「イヤだ。年季が明けたら、みんなで暮らすの。キレイな町屋にサヤと市祐も連れて」
「無理だ。おれは町では暮らせない」
まるで、茅野が妹のようだ。優しく諭す萬市に、いやいやをする。
「あたしなんか、もうすっかり……すっかり、汚れっちまったもの。下町のおかみもなれっこない。みんなでいっしょに」
道理のわからぬ幼子のようにしがみつく茅野の腰元を、布でふくれた腕がぽんぽんと軽く叩いた。
「奇麗だよ。カヤ姉ちゃは奇麗だよ。おれ、昔っからね、こんなお姫さまみたいなひとがおれの姉貴なんだって、誇らしかったもん。病気が出るまえは、何度も何度もこっそり見に行ったんだよ。──だからね、もう帰ってきちゃダメ。おれたちみたいなお荷物のことをいつまでも考えてちゃいけない。あいつらに、食い物にされちゃいけないんだ」
強い意志をもって、萬市は言い切った。茅野の肩に手をかけ、突き飛ばすように腕を伸ばす。たいした力は入っていなかったろう。だが、茅野は脱力して地面に転げた。座り込んだまま、ぽかんと口をあけて、萬市を見つめる。瞳から、つぅっと涙が伝った。
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