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『お姫さま』。同じことばをさきほど、茅野自身の口から聞いたばかりだった。
伊都は腰をあげた。茅野の肩を後ろから抱き、からだを起こしてやる。こころの痛みで、指先がぴりぴりとしびれる。
茅野は、口ではああ言ったけれど、お姫さまになんか、なりたくなかったはずだ。家族といっしょにいられれば、きっと満足だった。
きれいな着物、三度三度の食事、やわらかいふとん。化粧して髪結いして、かしづかれて。それはほんとうにお姫さまのようだったろうか……?
違う。幼い茅野は親に売られたのだ。何も知らぬまま、男どもに思うままにされたのだ。自分はすてきなお姫さまになったのだと、思い出を美化しなければならないほど、みじめで辛くて厭な経験だったはずだ。少なくとも伊都にはそう思えた。
萬市のため、サヤのため、市祐のため、職を失った両親のため。自分の手が家族の暮らしを助けているのだという自負がなければ、笑顔でなんかいられない。
たとえば、朝起きて、茅野はまぶたの裏に思い描いたかもしれない。食事のたびに、カヤ姉ちゃ、ありがとうと弟妹が自分のことを思い出す。カヤのおかげで暮らせるのよと、ことあるごとに弟妹に言い聞かせる両親。
みんなの負担になりたいとは思わない。だが、家族のこころの端に感謝とともに刻まれる自分を、なぜ想像してはいけないのか。茅野は、強くあらねばならなかった。
両親は、茅野だけでなく弟妹まで見捨てた。茅野がからだを売った金で遊び惚けていた。
気持ちを殺して湊楼で客にむかって微笑んでいた茅野を、萬市はお姫さまだと言うのだ。せめて弟にはわかってほしかったと、叫びが聞こえるようで、伊都は目をつぶる。
すべてが矛盾している。
なるほど、茅野は姉御肌できっぷがいい。弱いものを庇って、相手に楯突くこともある。だからと言って、だれからも手をさしのべられずに、だれがひとりで生きられるものか。
ひとを助けたいと思うのは、ほんとうは、だれより助けてほしいということだ。みじめな自分を必死にお姫さまだと思いこもうとしていたのに、外側から重ねて、お姫さまだと評される絶望とは、そんなにも余所様にはわかりにくい感情だろうか。
ふつ、と、胸の奥で沸き立つものがあった。
伊都は茅野を引き立たせて、自分は萬市に一歩、近づいた。顔を覆う布など、役には立たなかった。臭気にのどがひくっと鳴った。吐き気を無理やりに押さえ込んで、口で息をする。目のあたりをにらんで、胸をはる。
「あたし、あなたなんて、助けたくない」
宣言に腰をおろしたままの茅野がふりあおぐ。お伊都、つぶやいて、袖口をつかまれる。伊都はわざとそれを無視する。
「勘違いしないで。病気の痕のせいではないわ。あなたが、茅野姐さんのことをちっともわかっちゃあいないからよ」
もう一歩。茅野の手は力なく離れる。つまさきが寝床にふれるところまで行き、さっと膝を折り、腰をかがめる。目は外さない。
「身売りって軽く言うけどね、あなたきっと、『減るもんでなし』って思ってるでしょ。だから簡単に言うんだ。年季がそろそろ明けるから、ですって? 奇麗なお姫さまですって? ……冗談もたいがいになさいよ。からだなんてものじゃないわよ、姐さんがたは、魂を切り売りするのよ。止めさせるなら、今すぐに止めさせなさいよっ」
右手を伸ばす。半身起こした萬市の襟元をつかむ。布地を握ると、奥歯がふるえた。
「あたしね、三月前まであなたとおんなじだった。みんながあんまり明るく笑って暮らしていたから、減るものでもないと思ってたわ。
でも、違った。あたしの母さんは茅野姐さんと同じ玄人よ。いままで十三年生きてきて、泣いてるのなんか見たことなかった。けどね、あたしが身を売れば早く自由になれるねと言ったら、母さん、泣いたの。
──あたし、自分が許せなかった」
伊都は萬市の襟首をつかんだまま、みずからの二の腕に顔を伏せた。
「ごめんね、母さんに会ったこともないのに、こんなこと言ってもわからないよね。でもね、あたしの知っている茅野姐さんも、めったに泣くひとではないの。あなた、いま、傷つけたんだわ。ひどくひどく、傷つけたのよ」
涙声ではあった。語調も弱かった。だが、自分をなじる伊都から、萬市は顔をそらした。
「あなたのためなんかじゃない。茅野姐さんのためよ。治るかどうかも、やってみないとわからない」
やっと萬市を解放して、伊都は自分の右手をみつめる。できるだろうか。このところ、立て続けだ。不安はある。だが、機会はきっと、今晩しかないのだ。
(やるしか、ないよね)
自問自答して、小さくうなずく。その視界の端に白く映るものがあった。
ゆるりと顔を上げ、伊都はふりかえる。苫屋のなかに目が慣れていなければ、おそらく見逃してしまっていただろう。
あの青年だった。夏の夜には山吹のジャケットは暑苦しい。低い天井にも背を屈めず、鳥打ち帽の頭をつかえるままにしている。いや、違った。帽子は天井にめりこんでいる。
話しかけようとして、伊都は思いとどまる。視線の先で腕組みをして、青年はいかにも不快そうに息をついた。
(だめよ。あれは、いないの。あたし、何にも見ていないったら)
視界に映らぬように、目を伏せる。右手に意識を集中する。ふだんならば、すぐにも熱が集まってくるものだが、今日は出足が遅いようだった。気持ちのせいかもしれない。切り替えがうまくいかなかったのだ、きっと。
(助けるわ。助けるのよ。茅野姐さんのためだもの、こんなやつのためじゃない)
こころのなかでもくりかえして、伊都は右手のひらを地に向け、すうっと奥へのばした。
萬市のいるほうへ。手探りで彼の肩先にふれ、腹のほうへと宙に手を滑らせる。
(いつも、こんなだったかしら)
いぶかしくなる。伊都は薄目をひらく。眉が自然に寄った。沈黙が痛い。混乱してくる。
どうしてうまくいかない? ぺたんと、なにげなくてのひらを萬市の腹へと下ろした瞬間の感覚は、筆舌に尽くしがたいものだった。
乾木が割れる音がした。布越しに萬市の腹に置いた指がちぎれて、弾け飛んだ。
「っぁ、ああああぁぁ────ッ!!」
絶叫し、胸に抱き込む。荒くなる息に、意識が薄れる。「お伊都ッ?」茅野が肩を抱く。寄りかかり、指先の激痛にもうろうとする。
胸元に押しつけていた指をこわごわ確かめ、伊都はふぇっ? と、腑抜けた声を漏らした。
五指は、なんともなかった。火箸でのヤケドに似た痛みを感じたというのに、指には赤みひとつ残っていない。幻覚? だとしたら、なんて鮮明な幻覚だろう。
伊都はてのひらと甲とをくるりくるりと幾度か返して、じっと傷を探した。暗いせいだ、見えないだけなのだ、きっと。思いこもうとしたが、いくら頭をひねっても、負傷の原因は考えつかなかった。
肩を抱いてくれる茅野の視線を間近に感じて、伊都は焦った。
(いけない。痛みなんて、どうでもいいではないの。早く済ませなきゃ)
もう一度だ。次はできる。うなずいたときだった。
のどの奥で笑う声がした。男だ。まさか市祐が笑っているのかと、睨んでやろうとふりかえり、伊都はたいそう後悔した。
口元にこぶしをあて、背をかがめて、さもおかしそうに肩をふるわせる姿が、いやがおうにも目に入った。
洋装の美青年は、腹をかかえて笑っていた。耳につく笑い声にいらいらする。つい長々と見つめてしまっていたら、青年は目尻を拭うついでのように伊都のほうを見た。視線に気がついて、小莫迦にしたような見下しきった表情になる。壁際から近づいてきて、萬市の足許へと陣取る。
(まただ。あの黒いのを切る気なんだわ!)
させるものかと、伊都は決意する。しかし、今朝方の中年男のときには、黒い絽布にハサミを入れる直前でさえぎることができたものだが、今度もうまくいくものだろうか。
てのひらにはあのときや欧太郎のときのような熱はいっこうににじまない。焦ったせいかもしれない。落ち着けばいいのだ。慎重に、ゆっくり、自分のこころのままに。
萬市は微動だにしない。その腹にふれようと手を近づけていく。ちり、指先が焦げるような感覚が再来する。こんな痛みははじめてだ。ひとそれぞれ、なのだろうか。
どうにも慣れることができないが、思い切って伊都がてのひらを押しつけてみたのと、洋装の青年が萬市の足から絽布を探しあてたのとは、ほぼ同時だった。
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