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第二話 異能の娘
だれかに呼ばれた。
伊都は顔をあげ、声の主をさがす。間口から、まっくらな店の玄関をのぞく。奥に続く廊下にも人影はない。おさなくかん高い声。姐さんたち、まして母でもない。
では、通りか? からだの動きにつられて竹箒の先がじゃっじゃと路地をはく。下駄履きの足の甲までくすぐってしまい、擦り傷に顔をしかめる。あたりには門掃きをしている顔見知りはいるが、みな年配だ。しかし、声は大きくても三つくらいの幼子のものだった。
探しあぐねたところにまた声がかかる。
耳に届く声ではない。胸に直接ひびく音に、視線をおとした。丹念に路地に目を配る。
(どこにいるの。出といで、怖くないから)
左手を膝において腰をかがめる。ひとつき前は野良猫だった。そのまえは隣家の老犬。三度目ともなれば、怖くもない。犬も猫もしゃべるのだ。他のひとが気がつかないだけ。
軒の下だった。裂けよとばかりにくちばしを開け、数羽のツバメの雛が叫んでいる。
――おなか減ったよう!
――母ちゃんまだかな?
――父ちゃんまだかな?
巣の中のかまびすしい声に微笑む。しかし、こころのもやは晴れない。似ているが、こんなに元気いっぱいではない。息も絶え絶えに、いのちを削って助けを呼んでいるのだ。
余所だ。きびすを返しかけたつまさきに、ふわりと何かがふれた。
見下ろして、伊都は息をのんだ。それは、首を一所懸命に伸ばし、小さなくちばしでかりかりと伊都の足をひっかいた。やわらかい羽毛。やがて疲れたのか嘆息するようにぴぃと鳴いて、下駄のつまさきで顎を休める。
やっと、口からことばがもれた。
「おまえ、踏んでしまうじゃないの!」
声が震えた。竹箒を道に投げやる。石畳に転がって箒が、かあん、と派手な音を立てる。
巣から落ちたのだ。てのひらにひろいあげた雛は小刻みにからだを揺らしている。薄いまぶたを閉じ、羽根を逆立てている。
伊都は泣きそうになった。
見上げた巣では、兄弟たちが騒いでいる。一羽が落ちたことに気づくようすはない。しかしまあ、あんなに高いところから! おとなの男が手をのばし、背伸びをして、それでも届かないかもしれない。よくぞ生きていた。
いとおしくなって、頬を寄せる。少し湿った羽毛の先に肌でふれ、右手を近づける。
いつもは着物の袖に入れている指をのぞかせる。あんまり隠していたものだから、左手に比べて肌が白い。空気がひゃっとした。
早打ちをしていた雛の鼓動が緩やかになった。間遠に、というべきか。落ちたときに怪我したのか、湿り気には血も混じっている。
「苦しいね。でも、がんばりなね」
話しかけると、まぶたが開く。
からだのなかを熱いものが流れた。胸から首筋へのぼり、肩へたどり、腕を降りて、指先へ。そうして、熱くなった右手の指で雛にふれた。首を撫でてやる。冬の風に耐えるときのように、雛がふっくらと羽根をふくらませる。身を寄せてくる。熱が指だけでなく、伊都のからだの表面を膜のように覆っていく。
(いまだ、出て行く……)
意識が閉ざされていく。頭が働かなくなって、とろんとする。かくん、首が倒れる。雛をつぶさないようにしなけりゃ。思い、腕を必死にむこうへと伸ばす。そこが限界だった。全身の力が抜けて、伊都は路地に転がった。
気持ちのよいまどろみ。腕も足も重たい。だが、雛の重みはてのひらのうえに感じる。伊都にとっては、いつものことだった。
(どうしよう。あたしじゃ巣に戻せないや)
頼むなら、だれだろう。大旦那はもうお年だし、ツバメの巣を取り払うかもしれない。若旦那は土下座したってやってくれないだろう。やはり、男衆のだれかに頼もうか。母の着付けを終えたら、それとなく言ってみよう。
朝日がまぶしい。だれにも踏まれませんように! 路地に転がったまま、軽率を反省する。何もいま、ここでなくとも良かった。部屋に戻っていれば安心だったのに。知り合いは伊都に気づかずに家に入ってしまったのか。
(しかたない。助けたかったんだもの)
思ったとき、顔に影がかかった。
「おまえ、何をしている」
低い声が耳を通って、胸にひびく。からだは依然として動かない。目もあかない。
(だれだっけ、この声……)
思考は自分の尾を追う犬のよう。ぐるぐるとおなじところばかりをめぐっている。
「まさか死んでいるわけじゃないだろうな」
焦ったふうはない。淡々と問われる。伊都には答えようがない。声だって出ないのだ。
「おい、起きろ、"鶏肋"」
(若旦那!)
帰着点を見つけて、思考がひと段落する。と、同時に言いかえしたくて、うずうずする。かがみこむ気配があって、前触れもことわりもなしに背中と膝裏に手がふれた。布越しとはいえ、熱い男の手の感触にぞくっとする。
(だぁれが鶏肋よッ、バカ旦那! 助平! 離せったら、女ったらし!)
思いつくままに罵倒語をならべたてているうちにからだが浮いた。抱き起こされたのだ。伊都は心中で悲鳴をあげた。身が持ちあがるにつれ、腕がたれさがる。雛が乗ったままのてのひらが、ひっくりかえりそうになった。
からだじゅうの力をかきあつめて、伊都はなんとか、のどから声をしぼりだした。
「ひ・な」
「雛? ──ああ、これか」
その声を聞いたのが、最後だった。無理にことばを発したことで、残る体力と気力を使い果たしたらしい。伊都の意識はふっつりと途絶えた。ただ、腹に載せられた自分の腕と、雛の重みだけはしっかりと感じていた。
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