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あの熱を呼びよせようと、伊都は目を伏せた。ふだんなら熱はまず、周囲から這うように集まってくる。膝や足から伊都の中に入り込み、勢いをつけて背をのぼり、増幅されて肩をすべりおりていく。
爆発するのは、ものたりないときだと思う。爆発して、なかのものをまき散らし、反動ですべてを吸いこんでしまう。
伊都はふうぅっと、深呼吸する。力を呼び込むように、自分を空っぽにするつもりで息を吐ききる。何かをつかもうと足掻いていたのを、今度は萬市が嗤った。
「諦めたら? できないんだろ? ……カヤ姉ちゃ、もういい。こいつ、金取るんだろ? どうせイカサマ師だ。病気なんて見た目じゃ治ったかどうかわからないもんな」
萬市のことばはてのひらを伝わり、腕に直接に響いてくる。まぶたを閉じたまま、伊都はしらっとやりすごした。
動揺していた。いままで何も言わずじっと協力してくれていたのだろう。早々に見切りをつけられたのだ。だが、動じる必要などない。イカサマではないし、金品も差し出されたって受けとらないつもりだ。
茅野は、何も言わない。それがいちばんこたえた。
目の縁に涙がにじむ。まばたきをしたら流れてしまうだろう。いよいよ目も開けられず、伊都は羞恥心で縮こまった。死にたいような心地がする。大見得を切ったのに、治せないだなんて、見返してやれないだなんて、そんなことあるだろうか!
しゃく。しゃくしゃく、しゃき……ん。
耳を掠めていった衣擦れと金属音に、伊都は面をあげた。涙が伝ったが、気にならなかった。萬市の足許へふりむいて、凍りつく。
「あ、れぇ──?」
すっとんきょうな声をあげたのは、伊都ではなかった。見えているのだ。萬市は青年をじろじろと見つめたあと、警戒心もあらわに問いかけた。
「だれだよ、いつのまにそこへ? その黒いのって、」
最後まで、尋ねることはできなかった。萬市はとうとつに咳き込んだ。
(まさか、ひどくなっているの? どうしよう、治せるはずだったのに)
おそらく、あれのせいだ。見ないふりなど、とうに忘れていた。伊都は洋装の青年を、その手元を凝視していた。
青年は無言で絽布をきりとっていく。ゆったりと、大店の売り子が布をあつかうときのようにもったいぶりながら、着々と布を裁っていく。苦しそうな咳がやまない。
ただ、薄っぺらな黒い布。いったいあれは何なのだろう? 青年同様、常人の目には見えないもののはずだが、萬市には見えた。
(まさか萬市も、あたしと同じ側へ来てしまったってこと?)
厭な想像が頭から離れない。伊都が母や若旦那から隔てられてしまったように、萬市もまた、茅野たちとは違うものを見ている。
──自分と、同じものを。
伊都は血が引くのを感じ、動けなくなった。萬市の腹から手を外すこともできない。
「お願い、よして!」
語調こそ強かったが、くちびるからこぼれた声は小さかった。
うしろの茅野に聞こえたかどうか。それでも、萬市は聞き漏らさなかった。咳き込みながらも、合間にたずねてくる。
「あいつは、だれ?」
「あたし、知らない! 知るものですか!」
ひそめた声で答えて、伊都は心中で必死に祈った。
(お願い、神さま、仏さま、だれでもいいわ! このひとをどこへもやらないで。茅野姐さんの傍から離さないで。このひとが支えのはずなの。いなくなっては、困るの)
胸に浮かんだのは、大鷲神社の境内だった。もう滅多に足を運ばないのに。正月くらいのものだというのに。
伊都は想起する。幼いころに見上げた雄壮とした屋根。記憶のなかの社殿が負う空は、いつも茜色だ。永真遊郭唯一のお社は、酉の市の喧噪を見守り、泣きむせぶ娼妓を慰める。すべて、あるがままに受けとめてくれる。
左手が膝のうえで、こぶしを握る。肩がふるえる。いや、ふるえていたのは喉だ。ほんとうは叫んでしまいたかった。
(助けてください、おとり様……!)
こころのなかで、声をひきしぼる。その、さなかのことだった。
緒が切れた。支えが消えた。伊都はかくりと前のめりになり、萬市の腹とみずからの手の甲とに額を打ちつけた。
謝ろうと開いたくちびるが一瞬で焼きついた。激痛にことばにならない悲鳴がもれる。
「────────!?」
何かが伊都のなかに入りこんできた。無理やり口をこじ開けて、喉奥まで押し通って、胃へ流し込まれていく。煮えた油だ。伊都は何度もむせかえる。くちびるでは煮えていると思うのに、喉まで入ると熱さなど存在しない。むしろ、冷たい。
感覚が失われているのに、からだの内側が痛い。喉のなかの皮という皮が根こそぎはがれていきそうだ。吐き戻そうとしたが、流れてくる勢いが強すぎてうまくいかない。
萬市から離れ、しばらく身悶えていたが、洋装の青年が目に映り、根性で身を起こす。
はたして、青年の手にハサミはなかった。あるのは、黒い絽布だけだ。
(えっ? あれって)
伊都は萬市の足許と青年の手元とを見比べた。黒い布を巻き取りながら、青年は相好を崩し、おもしろがるように口をひらいた。
「何度も何度も懲りぬことだ。自分が何をしているか、わかっているか?」
(何って、萬市を助けようと……)
痛む喉のせいで声がでない。それでも目を移してみて、伊都はかたわらの少年のようすにぎょっとした。萬市のからだは小刻みにゆれている。白目をむいている。腕がはねる。打ち上げられた魚のようにとけいれんを続ける。ひきつれる間隔がだんだんに遠くなる。
絽布を隠しに仕舞い、芝居の役者のように大きく手を広げ、青年は伊都に近づいてきた。
「おかげで布も手に入った。礼と言ってはなんだが、忠告をやろう」
青年はこれまでに反して饒舌だった。近づいてきたと思ったが、違うようだ。単に伊都が彼の通り道にいるだけらしい。通りがけに青年は身をかがめ、伊都に耳打った。
「いま一度母に会いたければ、逃げろ」
目を見開いて、肩越しにふりかえる。青年は見向きもせずに早足で壁へ融ける。すり抜けたのか。この世ならぬ姿にぞっとする暇もなかった。
見返っていた背のむこうで、地に伏す音が聞こえた。伊都はうしろを確かめもしなかった。力の限り地を蹴って、つったっていた市祐の腹を両手でわざと突き飛ばす。茅野とサヤが倒れた弟たちに気を取られた隙をついて、あばらやを駆け出す。
左右どちらに行けばいいのか。湊楼に帰るにどこを曲がるべきなのか。そもそも、湊楼に帰還することが最善の策だろうか?
伊都はやみくもに走った。ひとにぶつかっても謝りもしないでやりすごした。角をいくつ曲がるかなど、考えなかった。もしかしたら、ぐるぐると同じ場所を回ったこともあったかもしれない。
景色はどこまでも茶色と灰色ばかり、そうでなければ真っ暗闇で、地面も壁も定かではなかった。完全に方向を見失いながらも、どうにか舗装された街路に出たときには、枯れきった喉がごうごうと酷い音を立てていた。
止まったとたんに汗が噴き出し、顔がほてる。着物も髪の毛もじっとりと濡れ、肌に貼りついている。伊都は汗でぬめる腕でこめかみを拭い、首にさがった手ぬぐいに気がついた。茅野から借りたままの手ぬぐいだった。
小さな路地へ入る。丸井戸を見つけて飛びつき、無我夢中でつるべを引き揚げる。ここまで汗だくならばと、見た目も気にせずに一度、二度と着物のまま水を引きかぶった。三度目は揚げた水に手を入れてすくい、喉を潤す。喉が冷えていく。くりかえすうち、腹までひんやりとした。体温が急激にさめる。
一息つく。近くの家の壁に背を預け、ずるずると腰を下ろす。
膝がふるえていた。疲ればかりが原因ではないのは、伊都もよくわかっている。
だらりと垂らしていた腕に力をいれ、喉をてのひらでさする。
(あたし、あのとき、何を飲んだ?)
煮えた油と思ったものの実体がつかめない。萬市のからだから漏れてきた何かが伊都の胃の腑へ吸い込まれていったのだ。
意図したことではなかった。熱くて苦しかった。腕には疲労感が残っている。
入り込んできただけだと思ったが、いつもの熱ではない何かが手から離れた感触もあった。かすかだったので、喉の痛みに気を取られてしまって、ほんとうのことかよくわからなかったのだ。
(……気のせいだわ。だって、萬市は)
そのさきを思いだすまいと、むかいの家の屋根を見上げる。決定的なことばは胸の奥にしまいこむ。
伊都は膝を抱えた。うつむくと、映像は脳裏に流れてきてしまう。追いやろうと顔をあげ、右手の路地の先を見て、むこうを行く人影をみつけた。男のようだが、やけに細身だ。
なつかしい雪洞手燭が白くゆれている。手元だけが明るく照らされ、影が落ちている。目を奪われているうちに、伊都はいくつかの断片を想起していた。
洋装の青年の手にしていた黒い絽布。確かめた萬市の足許。そして──
萬市には、影がなかった。
伊都は顔をもどして、つまさきを凝視する。縁取る影を何度も目でなぞり、たしかめる。
右手から、手燭が近づいてくる。闇に慣れていた目には、小さな灯りさえまぶしい。ひかりをうけて、左にするすると伸びていく影に安心する。安心したはしから、己を恥じた。
目を、疑ったのだ。ないわけがない。
青年を見て、目線を戻したときにはもとどおり、萬市のからだの下には薄い影がくっついていた。
(見間違いよ、ぜんぶ。決まってる!)
嘘だなんて思えなかった。手ぬぐいの香りが否定している。雪洞手燭が目の前まで来た。そうして、そこでぴたりと止まる。
「あれ? 嬢ちゃんではありんせんか」
降ってきたことばに、伊都は思わず声をあげて泣いていた。
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