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第六話 與一の見世
(──痛い)
腹の鈍痛とてのひらの知覚した熱で、遠ざかっていた意識が呼び戻される。ハッとして、両手に包んでいた器を取り落としそうになる。
器に湛えられた茶は、薄暗がりに黄金色にひかっている。緑茶ではない。うすく淹れた煎茶? それにしては、面妖なかおりがした。
(ここは、どこだろう)
部屋の隅の炉の火は消えかけているが、かけられた鉄瓶からは絶えず湯気が吹き出していた。じめっとした空気が室内に満ちる。ここに、ほかにひとはない。
入り口のない部屋だった。二畳ほどで狭くるしい。四方に板が張られており、炉とは反対の隅にさきほどの雪洞提灯が置かれている。
大きな窓はない。炉の真上にあたる天井のきわに、ちょうど舞扇子くらいの幅の小窓があいていた。白木の格子がはめられている。あかりとりか換気のためのものなのだろう。残念だが、高い位置のため、伊都ではむこうがのぞけない。もうすこし広い部屋ならば、うしろへ下がれば見えそうなものだが、この狭さではどうにもならない。踏み台となりそうなものも特になかった。
「もし。與一、さん?」
伊都はちいさく呼びかける。応えはない。声が届くほど近くにはいないようだ。
迷って、湯飲みをわきへ置く。ひっかけないように気をつけて立ちあがり、壁にふれてまわる。仕掛け戸があるのではないかと思った。きっと、どこかへ把手を隠してあるのだ。
両手をついて切れ目を探す。羽目板が外れて把手が現われるのではないかと、それらしき高さばかり探ったが、何ひとつ見あたらない。伊都はイライラして、息をついた。
炉とは反対の隅によりかかって座り込み、濡れていたはずの衣服が乾いていることに気がついた。否、これは、着てきたものとは違う。男物の浴衣だ。ずいぶんとお端折りをとって、ようよう着ているのである。
追い打ちをかけられた気分だった。
(まさか、與一さんが?)
頭を押さえて、視線を投げる。鉄瓶の湯気はうっすらとして、消えかけている。
「ああ、もう!」
八つ当たりだとはわかっていた。足許を叩く。畳では手応えがない。もひとつついでに板壁にもこぶしを振るった。
がこん。あるまじき手応えがあった。返り見た壁は奥へ沈む。かろうじて潜れそうだ。もう一押しして、思いついて横へ滑らせる。
開いた! 嬉々として顔をつきだして、そこで、動きがとまった。
部屋の中心に、與一がいた。
昼間見た部屋だ。机のうえにあぐらをかいて、與一は闇へ右手をのばす。彼のいる部屋には灯りがなかった。伊都のいる部屋のほうが明るいくらいだ。彼のすがたは仄白く浮かびあがっている。天窓からの月明かりが肌の色をうしなわせている。
肩より挙げた腕を着物の袖が滑り、二の腕があらわになる。筋肉のない細い腕をかかげて、與一は遠く視線をなげかける。
「おいで」
声はいまにも消え入りそうだった。手に何か捧げ持っていることがわかる。海綿か木綿のような白いかたまりだ。
そこから、液体がこぼれた。とろみのあるひかりが腕を伝い、與一へ戻っていこうとする。與一は気にしない。微笑みさえうかべて、もう一度、くちびるを動かした。
伊都は、闇のなかに何がいるのかわかっていた。暗闇がじわりとのびて、與一のてのひらを飲み込む。綿のうえにとどまって、静かに静かに羽ばたいている。
カラスアゲハだ。青い後翅が闇夜にも、ちらちらと光った。
陶然とした表情だった。與一はいとおしむように見上げ、しばらくおいてから、じりじりと腕をおろしていった。風も起きないくらいにゆっくりとした動作でからだをねじる。
左手で傍へ引きよせた竹カゴのなかへ、綿とともにカラスアゲハを入れた。蓋をしてから、おもむろにこちらをふりかえる。
「無粋なことでありんすぇ。宵の逢瀬に邪魔が入るなど、めったにないのに」
恐縮した伊都の存在もどこ吹く風。ぺろり。舌を出して與一は腕をなめ、首をかしげる。
「薄すぎたかぇ?」
「それは何ですか」
興味を引かれた伊都にいたずらっぽく笑んで、與一は腕をつきだしてよこすす。舐めろというのだろうか。さすがにその気はないが、匂いでも嗅いでみるかと、草履を目でさがす。たずねる前に先読みして與一が言った。
「お会いしたときにはもうお履きでいんせんしたよ?」
走る途中で脱げていたのか。こころあたりがありすぎた。ぬかるみに幾度、足をとられたことか。きっと泥だらけであったのだろう足は、いまみればきれいに拭われている。そこまでとなると、恥ずかしさも峠を越えた。まったく頭がさがる思いである。
考え込んでいると、與一はさらに笑った。
「勘違いしないでくんなまし。わちきが脱がしたわけではございんせん」
嬢ちゃんがご自分でなさいんした。言って、自分の草履を伊都のほうへ放ってよこす。
昼間もかいだ甘い匂いが履き古した草履とともに届いた。林檎に似たにおいだ。
與一の大きな草履をつっかけ、木机に近寄る。さしだされていた腕に顔を近づける。さきほどのにおいが強くなった。
「りんごの蜂蜜でありんす。青森の友人に譲ってもらいんした」
幼い子どものように得意げにして、腕についたぶんをすべて舐めとってしまう。
「この子らにやるときは、何倍にも薄く水でゆるめてやりんす。濃く甘い蜜は、毒でありんすからぇ」
毒。そう口にするときにいっそう楽しそうに目を細め、與一は指先で籠のふちを愛でる。
蜂蜜のような滋養のあるものがなぜ毒なのだろう。まるで狂言だ。
納得がいかなかったが、わかったふりをしていると、與一は身をひねり、身の陰になっていたところから蓋の開いた瓶をとった。ささっていた短めの茶杓で、中身をすくい取ってみせる。蜜だ。夜目にも粘りが見てとれた。
くるりくるりと器用に茶杓を操って垂れ落ちるしずくを巻き取り、ひょいとさしだしてよこす。反射的に口を開いた伊都の顎を下からぐっと、てのひらでささえて仰向かせ、與一は茶杓の先を下にむけ、小さく振るった。
とろッとおりてくるしずくを、舌で受けとめさせられる。口内にふくむ間もなかった。上を向いていたせいで、ついそのまま嚥下してしまい、痛いくらいの甘味にむせかえる。
「ほら、……ね? 毒でありんしょう」
涙ぐんでくずおれた伊都をよそに、與一は茶杓の先を口にくわえ、瓶のふたをとじた。
「三十日も生きれば、長いほう。うつくしいものはすぐに壊れてしまうもの。深く愛してやらねば、気が済まぬものでありんす」
與一は伊都をほうって裸足で床へ下りると、隣室へむかった。ごそごそとにじり入って、雪洞提灯をとってくる。
「外でお待ちになりなんし」
言って、伊都のかたわらに提灯を置く。
「『帰れ』?」
いっこうに変わらぬ笑顔で、彼は静かにかぶりをふった。
「乞食谷戸へおいででありんしたのは、たがいに内証でありんす。わちきは迷子を拾っただけでありんすぇ」
「──知っていたの?」
問うた伊都に不気味なくらいに笑みを深め、與一は口元に指をそえる。
「駆けていく茅野と嬢ちゃんを見んした。奇遇なことと、声をかけたけれど、逃げられてしまいんした」
提灯を手にとると、はかったように外で音がする。伊都は立ち上がり、戸に手をかけた。
「さァ、迎えが来んしたぇ。お行きなんし」
伊都の背を押し、與一は身を翻す。隣室へ潜り込み、手を振ったが、うまく引き戸が閉められないらしい。カタ、コトと引き戸がはまりきらずにゆれている。当然だ。内側には把手ひとつなかった。倒れたままの引き戸はつかみどころのない一枚板なのである。
どうやら、この戸のむこうにいる人物から身を隠したいらしい。助けてもらった恩もある。かくれんぼの手助けをしてやろうかともよぎったが、よしておいた。さっきの蜂蜜で、いまだに喉が焼けている。お返しだと思った。恩返しは、また後日にすればよい。
思ったより立て付けの悪い戸だった。カラリとはいかない。せっかく拾った提灯だが、足許へいったん置き、渾身の力で戸を引いた。
ぱぁん、激しい音が立って、自らなしたことながら、身をすくめる。濃紫ののれんのむこうは、月明かりもさやかに晴れ渡っている。
だれもいない。伊都は戸口に立ったまま困惑する。音がするのに?
視線をうごかしてやっと、坂のうえから男が走り下りてきたのがわかった。靴音が響いていたのだ。のれんで顔はみえないが、洋装の足許におののく。
(どうして……)
戸から手を離し、伊都はあとずさった。山吹色が脳裏をよぎる。手が飛び込んでくる。逃げ道はすでに閉ざされている。手首を取られ、熱い体温に驚く。汗さえにじんだてのひらが伊都の手首をつかんで、強くひきよせた。
汗のにおいと、林檎の蜜のにおいがした。きつくかき抱かれて、もがくこともできない。指すら封じられて動かなかった。
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