第六話 與一の見世

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「何をされた」  身を離して低く問われ、伊都は首をふる。何も、何もされていない。だが、あまりの恐怖に声がでなかった。両肩をつかまれた。上から下まで目がなぞっていった。  男物の着物だとわかったのだろう。みるみる顔色が変わる。  肩から手が外れた。伊都は腰が抜けてへたりこんだ。靴音高く奥へむかう背を見て、止めなければと思った。腰が立たない。 「若旦那、待って! ……だめッ」  這いよったが、間に合わなかった。引き戸が破られる。襟首をつかんで與一を引きずりだした。床に積まれた書籍の山が崩れる。書籍のうえに放り出され、與一がうめいた。のしかかる、こぶしが振るわれる。  丸眼鏡がとんだ。伊都の膝元へあたって、床へ落ちる。一拍遅れて、伊都は若旦那を睨みすえた。 「助けられたの! 迷子になって、助けてもらったのよッ」  室内に響いた叫びに、ぱたりと、腕は下ろされた。 「どういうことだ」  與一に馬乗りになり、彼の顔を見おろしたまま、若旦那は口をひらいた。問うた先は、與一ではなく伊都のようだった。 「蝶々を。カラスアゲハを、もう一度見たくなって、それで」  とっさの嘘はうまくなかった。これでは、まるで與一に会いたくて湊楼を抜け出したと言ったようなものである。  若旦那の気配が鋭くなったのを感じた。伊都はしどろもどろになりながら、続くことばを探す。 (なんて繋げば、與一さんに類が及ばない? 茅野姐さんとのことを隠し通せる?)  口を閉ざしてしまっても、若旦那は待ってくれる。伊都は答えを求めて、カラスアゲハの籠を見つめた。  天窓の灯りから外れた場所に置かれた籠のなかは見えない。内側に息づくうつくしい蝶はこころのなかで昼間の像をむすぶ。思い出と言うには、鮮明すぎた。耳元で感じた体温までよみがえってきてしまい、頬が熱くなってうつむく。  くくくっと、喉の奥で笑う声がした。  それ以外の表情を知らないかのようだった。殴られて、口の端が切れてもなお、與一は笑っている。さすがに息苦しそうにはしているが、それも殊更こたえたふうではない。若旦那の癇にさわりはしないかと、気を揉む。  きっと、それは彼なりの助け船だった。 「嬢ちゃんは、なぜカラスアゲハをお気に召しんしたのかぇ」  たずねかけられて、どうして悩まなかったのか。後から考えても、伊都にはわからない。 「楽しそうだったんだもの」  すかさず口からこぼれたことばに、自分でとまどう。與一はさらに高らかに声をたてた。 「だれが?」  その問いかけのこたえは、もうだれも欲してはいなかった。  若旦那が面を上げ、伊都を見つめる。虚を突かれた表情だった。 「これはこれは……。大失態とも大成功とも。試合に負けて、賭けには勝ちんしたなぁ」  ほくほくしたようすで言う與一に、長い嘆息のあとで伊都は声をかける。 「いったい何をしたの」 「なぁに、泥だらけの嬢ちゃんの着物をぼっちゃんに届けさせたまででありんす」  ただただ、得意げである。若旦那は與一の腹から下り、脱力するように腰をおろした。 「くそ……ッ。血までつけて寄越しやがって、趣味が悪いにも程があるだろう!」 「『俺は、てっきり破瓜の血かと』」  與一の口真似にも、若旦那は殴るそぶりだけで応じた。顔に垂れかかる長めの前髪をかきあげて、くやしそうに與一をなじる。 「お前の血か。指先に刃をあてたのか? 針先でできる量じゃなかったぞ」  若旦那の発言に、與一は笑みを消し去った。めずらしいものを見たと言いたげだ。何をおっしゃる、つぶやいて、寝ころんだまま、伊都を目で示す。 「正真正銘、嬢ちゃんの血でありんす」  言わんとするところを察さなかったのは、やはり若旦那だけだった。伊都は羞恥で顔を半分、両手で覆った。顔を隠したまま、ちらりと目をむける。視線が合って、きまりが悪くなって手を取りはらう。  言いように迷ったのを、與一が横からさらって口にした。 「あれは、月の経水(めぐり)でありんす」  與一さん! 直截的な物言いに悲鳴じみた声をあげる。泡を食ってふりかえると、むべなるかな、若旦那は呆然と伊都を見ていた。  薄いくちびるがひそりとうごめく。滑り出た声はかさついていた。 「鶏肋(トリガラ)。──どうして隠していた」  こんなときにも『鶏肋』なのか。伊都は目の奥に涙がたまるのを感じた。 (どうして隠していた、ですって?)  なぜわからないのか、理解できなかった。  伊都はあやめの娘なのだ。初潮を迎えた娘をどうあつかってきたかは、楼主がいちばんよく知っているだろうに。  気に障ったのは、そればかりではない。さっき、怒り狂っていた男と同一人物とも思えない言い種ではないだろうか。  伊都を女としてあつかう輩がいることを懸念していながら、若旦那みずからは「そうは思わなかった」のだ。  口惜しさよりも、恥ずかしさや怒りが先に立った。 「……あなたなんか、だいっきらいだわ、莫迦旦那。どうせ逃げたとでも思っているのでしょ? おあいにくさま、あたし、売られるのなんて、ちっとも怖くない」  怖いのは、母を傷つけてしまうことだけだ。  盛大にかみついたつもりだったが、伊都の強気の発言も、若旦那には響かないようだ。 「そんなに穀潰しがお厭なら、明日にでもあたしをたたき売ればいい。母さんの前借り金がそれで減るなら、本望だわ」 「だれがそんなことをするものか」  語気は強かった。面食らった伊都の腕をとり、力まかせに腰を抱きよせる。腹に頭が当たっている。身に覆いかぶさるかたちになった伊都をなおも離さず、若旦那はくりかえす。 「だれが売るものか」  すがりつく若旦那の頭を撫でてやりたくなった。のばしかけた伊都の指を、いつの間にか起きあがった與一が押さえる。  なぜ? 問うことはできなかった。真面目な顔つきだったからだ。 「わちきも混ぜておくんなまし」  與一はふざけたようすで若旦那の腰にうしろからぴっとりと抱きついて、うるさがる彼の耳元で何事かをささやく。じきに、伊都の腰に巻きついていた腕がゆるんだ。  若旦那は乱れた髪をかき上げる。こちらを見上げる鼻筋の通ったこと。大きな目は雪洞提灯の薄明かりにつやめき、伊都の視線を絡めとる。開いたくちびるさえ、なまめかしい。  だが、当人にそのつもりはないようだった。いつもの口ぶりで呼びかけてくる。違ったのは、呼びかけに続くことばだった。
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