第六話 與一の見世

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「おい、ト……伊都」  名を呼ばれて、からだがぴくりと動いてしまった。若旦那は伊都の反応に驚いたようだった。與一が背から離れていくのも構わず、重ねて確かめるように名を口にする。 「伊都。おまえ、何色が好みだ」  求めていた響きが甘美に過ぎて、質問の意味をのみこむのにいささか時間を要した。  好きな色。伊都は困って首をかしげる。そんなもの、考えたことがない。自分で稼ぐ身ではないのだから、服だって与えられるままに身につけている。欲しい色があったところで手には入らないのを知っている。 「好みなんて、特にないわ。でも、そうね、若草と紫以外が好き。お妙姐さんと茅野姐さんの色は、あたしには似合わない」  わざわざ旧知の姐さんがたと同じ色を身に纏おうとは、伊都には思えなかった。ふたりとも、派手な顔立ちの美人であるから、余計だ。よほどのべっぴんならば別なのだろうが、まったく自信がなかった。  思い悩む伊都をよそに、「そうでもない」さらりと言ってのけ、若旦那は思案する。黙ったまま、伊都から離れ、立ちあがった。 「呉服屋は無理だな。こんな早朝には店を開けるまい。──取ってくるか」  ひとりつぶやき、若旦那はふりかえる。與一は丸眼鏡の瑕疵を点検していたが、同意を求められて、目を細くして笑む。 「よしなんし。二度殴られるのは、さすがのわちきも御免でありんす。嬢ちゃんを連れて帰るがよろしいのではございんせんか?」 「しかし……」  渋る若旦那に呵々と笑って、與一はわかったわかったとうなずいた。 「独り占め、したいのでありんしょう」  與一は息のまじった声を漏らした。 「わちきの着物は着せておけぬと。お気持ちは痛いほどわかりんすえ、ぼっちゃん」  はっきりとは言わなかったが、自分をここへ置いていくことには反対なのだ。伊都が読み取ったことを、若旦那もまた感じ取ったらしかった。不満げに鼻を鳴らす。  與一は女のように喉の奥で軽やかに笑う。 「さァて。策を教えてしんぜんしょう」  言うなり、若旦那の上っぱりのあわせをつかんで、するりと袖を抜いてしまった。上着を無理に脱がされた若旦那は、眉をひそめる。  與一は蝶の羽ばたくように両腕を広げ、上着に大きく風をはらませる。そうして、閉じていくなかにふわ、っと伊都をくるんだ。抱きしめる寸前でよして、抜け殻のように伊都の肩に上着を残していく。  いままで身につけられていた布地のぬくもりに、伊都は身震いする。洋装の上着は織りが違うのか、裏地があるせいなのか、思っていたよりもずっと重たい。包まれるだけで満足せずに、ためしにと両腕の袖を通してみた。ぴったりと肩や腕に吸いつく感触があった。  仕立てが大きいとはいえ、身に纏うことを考えれば、和装よりもやはり、洋装は肌に布を沿わせるようにつくられている。男物の着物とは比べるまでもない。  熱い。厚着をするにはむかない陽気だ。甘い匂いに包まれて、伊都は袖を通した腕をかかげた。腕を肩より挙げなければ、袖口から手の甲が覗かない。だが、着慣れぬはずの洋装の上着は肌にしっくりとなじむ。  ふしぎだった。ぱたぱたと腕を動かし、ためつすがめつしていると、若旦那の表情がたまたま目に入った。  猫の子を見守るときのような、予想外のやんちゃをおもしろがる表情だった。  頭のうえに大きな手が乗った。てのひらの熱と撫でられる感触とに伊都は意に反して、その場から飛び退いていた。  與一はつくづく感情の見えない笑い含みの声音でいう。 「さァ、ぼっちゃん嬢ちゃん。お帰りの時間が迫っておりんすえ。そろそろ湊楼の店じまいでありんしょう?」  まさに鶴の一声。母に知られぬうちに帰らねば。伊都が考えたのと同様に、若旦那もまた、思うところがあったことだろう。  與一がさしだす提灯を断って、若旦那とふたり、帰途につくことにしたのはそれから間もないことだった。 「これだけの月夜ならば、足元がおぼつかなくなることもあるまい。それに、いますこしで夜も明ける」  言った若旦那のことばで、ようやく伊都はそのことに思いいたった。  ──足元。見つめる先、與一から借り受けた草履が並んでいる。與一は先刻から裸足のままである。きっと代わりはないのだろう。これが返さでいられるものか。  目線の動きに応えて、與一はへらっとした表情で首をすくめた。 「履いておいきなんし。わちきはこのままで構いんせん」  いまにも戸口から出て行こうとした若旦那が肩越しにふりかえった。どういうことだ? 目が問うている。逃げている途中で脱げてしまったとは、さすがに言えない。 「その……、草履を。落として、しまって」  嘘ではない。だが、これが真相かと言われると、弱い。ことばを濁した伊都を見、與一に目を向け、若旦那は諒解したようだった。  短く嘆息し、身をかがめる。どう出るのかと、身構えた足をさらわれる。あっ、と思ったときにはもう、伊都のからだは浮いていた。 「えっ、や、降ろして!」  小さく叫んだのを無視して、若旦那は伊都の膝裏に手をあてた。背にもてのひらの感触がある。身にまとうのが浴衣一枚でなくてよかった。上着があるだけ、直接に体温を感じずに済む。  身を縮こまらせるのを片腕で支えきり、若旦那は伊都の足から草履をはぎとった。無造作に床へ投げ、與一を一瞥する。 「世話になった」  あてつけるように一音ずつ発されたことばに、與一は笑いをかみ殺している。それでも、失礼なやりように伊都は申し訳なくなった。 「若旦那、降ろしてちょうだい。あたし、歩くわ。裸足が何よ、怪我をしたわけでなし」  ためいきは、静かだった。若旦那がついたものかと、あげたまなざしの先、彼もまた、いささかおどろいたふうに視線を投げている。與一は笑みこそ崩さない。だが、すこしだけ、厳しい声音で伊都を諭してよこした。 「ぬしは男あしらいを覚えなんし。……柔肌は傷のつきやすきもの。せいぜいぼっちゃんを足に使えばよいではありんせんか。ほんに、あやめどのに似て危ういこと」  若旦那は今度こそきびすを返した。聞きとがめた伊都が何ごとか問うよりも早かった。もがくうちにのれんをくぐる。  見送りに表へ出た與一がだんだんに遠ざかり、表情も見えなくなったころ、若旦那はようやく口を開いた。 「あのひとが売られてきたのは、まだからだが『女』になる前だった。俺が十かそこらのころだったはずだ。ただ奇麗なひとだとしか覚えていない」  女衒がどこで見つけてきたのか。誇り高い娘の立ち居ふるまいは、ひとめで高貴な身分と知れるものだった。湊楼につれてきた女衒自身も、他の女衒から買ったと言う。そして、その女衒もまた、別の地方の女衒から。幾度かの取引を経て流れてきたために、横濱にたどり着いたときにはもう、娘以外のだれにも、出自の詳細は伝わらなかった。  出自を示すような高価な品々は、ここに来るまでにとうに手放してしまっていた。そのうえ、娘自身もやわらかな容姿とは裏腹に芯が強く、決して生家の名を口にしようとはしなかったのである。  没落した公卿華族の令嬢ではないか。女衒のことばにも眉ひとつ動かさぬうつくしい娘に、大旦那は喜んだ。言い値で買い取り、個室を与えた。見合う着物もそろえてやった。  そこまで聞いて、『あのひと』がだれなのか、伊都はやっと悟った。からだの奥からしみ出す血の熱に身動きもできずに、若旦那の告げる過去に耳をかたむける。 「親父は下にも置かぬあつかいで娘にかしづいた。わざと、楼中の娼妓の気に障るようにしたんだろうな。叩かれていた陰口も、娘には届かないように気を配った。……あれだけは恐ろしくて見ていられなかった。俺以外にも、母や香車はさすがに気づいていたはずだ。あの男が売り物の小娘ひとりに熱をあげて、見返りも求めずに大枚をはたくわけがない」  若旦那はことばを切った。伊都はいつしか息をつめていた。目を見開き、若旦那の横顔を見上げる。意に反し、喉が高く鳴った。口のなかはすっかり乾いていた。 「案の定だった。  『女』になって、ひと月経ったころか。早朝、顔を洗いに庭に降りてきた娘は人形みたいだった。寝間着がほどけて、のぞいた肌も痣だらけで、ひどいありさまだった。  気のゆるんだところを親父が犯したんだ。客に売る前に。幾晩も幾晩もそれが続いた。皆、見て見ぬふりをしていた。  親父は娘の初見世の看板を出した。深窓の令嬢と銘打って、長いこと高く売った」  じわりじわりとにじみでてくる熱がいとわしい。ぐっとこらえながら、伊都は運ばれていく。ゆれに身を任せて、いまだすこし暗い道をみつめる。  大旦那のしたことには嫌悪をいだく。母は大旦那になど、好意を抱かなかっただろう。三倍は年の離れた男だ。どれほど口惜しく、むごい経験だったか、想像もできない。 「気位が高いのは、おまえも同じだ、伊都」  肩が跳ねた。ふりかえらずにいると、若旦那は重ねた。 「気位の高さゆえに、あやめは一度、無惨に殺されたんだ。一年も経たずにおまえを生んで、面差しが変わった。いまのあやめには、高慢さの欠片もない。あれは別の女だ。  おまえはここに来たころの母のすがたなど知らぬはずだが、何故そうも母の軌跡をなぞってしまうものか。血がそうさせるのか?」  俺には、わからない。残りはつぶやいて、声は途絶えた。  しばらく、お互いに無言だった。伊都は何も言えなかった。  若旦那の足取りはゆるみなく一定だ。揺れる足先を見つめて、風を切る彼の鼻先を視界の端におさめる。真剣に物思いにふける横顔に見とれては、さっとうつむく。そのくりかえしが、永真の大門が見えるまで続いた。 「──血が、そうさせるのだろうな」  もう一度、似たようなことを舌にのせ、若旦那は沈黙を破った。低い声で伊都に耳打つ。 「ときおり思い返すたびに血迷う。ほんとうは、親父があやめに惚れ込んでしまっての所行だったのではないかと考えてしまう。そうだとしたら、俺はあいつの気持ちがわかる。わかりすぎるくらいだ」 「あなたも母さんを好いているから?」  質問は止める間もなく、するりとくちびるをすべりでていた。真っ向から聞いてしまったことを、いまさらながらに後悔する。  歩みが止まった。息のつまるような沈黙があった。間近から見おろされている。両者の視線は交差しなかった。伊都が自分から目をそらしたからだ。 「そう、思うんだな?」  問うて、遠くに目を転じ、若旦那はふたたび歩きだす。そうか。つぶやいて、気持ちを抑えつけるように穏やかに肩を落とし、ふうっと息をぬいた。  大門を入る直前だった。 「俺は、おまえの初潮のことには感知しない。伊都──おまえが、自分で選びとることだ」  見あげても、もう、若旦那はこちらを見なかった。遠く突き放された気がした。  騒がしくなっていく通りのかわりに、ふたりは押し黙る。若旦那はまっすぐ視線を投げている。 (……痛い)  伊都は胸を押さえ、小さく小さく縮こまる。  そこから湊楼までの道のりは、思ったよりも長く遠かった。
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