第六話 與一の見世

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 月のもののせいだろうか。昼さなかだと言うのにからだは全体に重苦しく、意識は底に沈んでいる。まばたきすら億劫だ。  膝のうえでフクを遊ばせ、伊都は惚ける。ひととき、うたたねをしていたかもしれない。それくらいの時間の余裕はあっただろう。  部屋は暑い。じっとりとした空気が満ちている。窓をあけたいところだが、伊都がこの若旦那の部屋を訪れていることは、楼内にも知られてはならないことだ。 (若旦那にも、会いたくない)  フクを母の部屋へ連れかえることも考えた。だが、『ここで世話をしろ』と命令されたのだ。反発すれば直接、若旦那と話をせざるを得なくなるだろう。それすら、厭だった。  ふわふわと暖かい熱源は、伊都の手首に軽くかじりつく。だいじょうぶ? 聞かれた気がして、だいじょうぶだよ、こたえて、首まわりを指で掻いてやる。  ここちよさそうに半分まぶたをとじて、フクは座りこむ。こんもりと丸く羽根のふくらんだからだに首をうずめ、ゆさぶられるままになっている。 「ごめんね、あとすこしで帰らなきゃ。若旦那が帰って来ちゃう」  この三日というもの、若旦那の行動は型にはまったように同じだった。  朝、湊楼が眠りにつくと同時に夜の手配をしてから仮眠をとり、昼に身支度を調えて出かけていく。帰宅は四時きっかり。夜の営業にそなえて、こまごまと香車に言いつけて、自らはしばらく部屋にこもる。早めの夕食をとり、店側に出てきて、そのまま夜を越す。  意図的に部屋に居ない時間をつくってくれているのだろうか。初日はそう思った。  違う。伊都がいままで気にしていなかったのだと思い直した。一週間前も、ひとつき前も、若旦那は同じように動いていたのかもしれない。ただここ数日が変化に富んでいただけで、おそらくこれが彼の日常だったのだ。  伊都はわざとらしく空いている昼から四時の時間帯に若旦那の自室を訪れ、フクの世話をするようになった。  春先に出会ったときからフクを助けるまで、話すことなど特になかった。ときおりすれ違い、『鶏肋』とからかわれ、──それだけ。  目が醒めるようだった。生活の外にあった存在が、いつしか中心を占めている。伊都の生活の中心にぽっかりと風穴をあけ、存在を、否、不在を知らしめている。  すぴゅう。すきま風のような寝息をもらして、フクはうずくまる。撫でていた指を外すと、薄くまぶたをひらいたが、眠気には勝てないようだった。  遊び疲れてしまったのだろう。間遠になるまばたきにひそやかに笑って、伊都はカゴの戸をあけた。おがくずのなかに戻してやり、平和そうな寝姿を眺める。  あとすこし、このまま見ていたい。置き時計が四時まではまだ三十分あると告げている。あと片付けをして、カゴのそばに膝立ちになる。見つめられていることもしらずに、フクは太平楽で眠っている。  すぷ、すぴゅぴゅう。鼻がつまっているのかと思うほど、面白い音をたてて眠る小鳥に、伊都は喉の奥で、声なく笑った。 (かわいいなぁ。ずうっと、そばにいてくれればいいのにね)  かなわない願いだと知っていた。毎年、湊楼の軒先に巣をつくるツバメたちは、ひとつきもたたずに巣立っていく。フクも、あと十日も経てば、おとなのツバメになっていなくなってしまう運命なのだ。 「ケガもそろそろ良さそうだし、飛ぶ練習もしなきゃねえ」  話しかけ、はたとエサについて思いいたった。與一にもらった虫はさきほど、フクがきれいに平らげた。伊都が考えていたよりは早かったが、思い返してみれば、與一は『三日後にまた取りに来い』と言っていたはずだ。 (──そうだ。また、真金町の外へ出なきゃならないんだ)  自由に行って帰って来れればよいのだが、伊都には大門の通行手形がない。 (また、若旦那についてきてもらう? それとも、一筆したためてもらおうか)  この件に関しては大旦那の知るところではない。どちらのやり方を選ぶにしても、若旦那に声をかけねばならない。考えあぐねていると、背のむこうで引き戸が開いた。  肩がびくっとはねた。鼓動が耳に響く。ふりかえることができなくなって、目だけで時計を確認する。  まだ、四時にはならない。掃除か何かに入った者に見つかってしまったのか。  観念して、ぱっとふりかえる。その姿を目にして、ぐっと喉にことばがつかえた。 「……若旦那」  しぼりだした声に数秒間、若旦那は仁王立ちになっていた。しかし、次の瞬間には何ごともなかったかのような顔で、外出用の身支度を解きはじめる。  寝台に上着を放りだし、両手でしゅるりとタイをほどいていく。 「茅野がいなくなった。三日前からだ」 「知っています」  にべもない返答も、若旦那は気にしない。彼が続けて言った内容に、伊都は吐く息がふるえるのを感じた。 「ここ数日、ずっと行き先を探している。足抜けならば、よもや大門は通るまいと思いこんで、門衛には訊かずにいたんだが、それが裏目に出た。どうやら話によると、三日前の夕刻、茅野と妹が大門を通ったらしい」  目を上げる。若旦那は背をむけたまま、シャツを脱ぐ。肌があらわになる。着流しを羽織ったところで、思いだしたように上着の内側に手を入れ、隠しから紙包みを取りだした。  こちらを流し見て、放ってよこす。包みはやわらかく胸にあたって床に落ちた。拾いあげて、目で問いかける。視線はあわない。 (開けろってこと?)  紙を破らぬように、静かに折りをひらく。目に入った色味に、伊都はほうっと見蕩れた。 「わ……ぁ」  白地に桃色が散っていた。手前の端から斜めむこうへ濃淡をつけながら、桃の花が舞っている。風を示すように、浅葱色の波が細く幾本か染め抜かれている。  両手で広げる。床に置くのがしのびなくて、かかげて何度も絵柄をたしかめる。手ぬぐいだった。こんなきれいな柄の入った品など、日用には使ったことがない。もったいなくて、おとっときになりそうだ。 「先日、汚してしまったろう。遣る」 「ありがとう。……ありがとうございます、大事にします」  崩れかけたことばをたてなおす。若旦那は着替えを終えて、ゆるりとからだの向きをかえた。黙って伊都の前にかがみこみ、手元から手ぬぐいを奪う。 「えっ?」  行く先を察することもできなかった。若旦那は手ぬぐいごしに伊都の頬にふれた。額からこめかみへ、顎をたどり、首筋を袷まで。伊都は若旦那の指の熱を追って、息をとめた。感触に意識をこらして、目をふせる。  顔の左右、同じようにして、若旦那は汗に湿った手ぬぐいを伊都の手に握らせた。 「大事になんてしなくていい。ふだん使いにしてくれ」  言い捨てて、夜の準備のためだろう、立ちあがる。部屋の戸口へむかう道すがら、空の器が目についたらしい。再度、ふりかえる。 「車を呼んでおく。手形も書いてやるから、與一のところへ行ってこい」  部屋を出て行く背を最後まで見送ってから、伊都はうつむいた。もらったばかりの手ぬぐいを胸に抱きしめ、まぶたをふせる。  目を開けていたって、どうせ泣き笑いしかできない。このうえ涙まで吸わせるまいと、上をむいて、じっとこらえる。手ぬぐいを小さく折りたたみ、ふところにしまって、伊都もまた、部屋をあとにする。  ふところの手ぬぐいはわずかに温もっている。林檎の蜜の香りと、自分の汗のにおいとが混じる。ほのかに甘い移り香はすこしのあいだだけ漂って、やがて、初夏のさわやかな風に乗って、そっと消えていった。
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