第六話 與一の見世

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 與一から借りた着物を風呂敷に包んで、胸に抱く。ひとりきりで人力車に揺られていく。このあいだ腕のなかで見たものとも、昼間に歩いてむかったものとも、今日の景色は違って見えた。その理由を、伊都も知っている。  母の鏡台から、こっそり紅をもらってきた。おしろいも刷かず、小指の先に乗るだけ紅を取って、下唇にすうっとひいた。上唇をすりあわせてのばし、鏡のなかの姿をみとめる。苦笑するほかなかった。  紅ひとつでうつくしくなれたらいいものを。案の定、やせっぽちの娘が背伸びをしたようにしか見えなかった。  月のものが来たからといって、からだは急には大人びてくれない。顔立ちにも幼さが目立つ伊都には、まだ紅は似合わなかった。  拭ってしまうのが惜しくてそのままにしてきたが、いまさらながら恥ずかしさを覚えていた。手元にはもらったばかりの手ぬぐいしかない。しみになってはと思うと、安易に手ぬぐいで拭いとることもできなかった。  どうしようかと迷っているうちに、人力車は野毛にたどりついていた。ここでしばらく待っていてくれるように言いつけ、若旦那からもらった銭を見よう見まねで握らせる。  車をおりて、あたりを見まわし、伊都は少なからず安堵した。あんまり違ってみえるので、別の場所についたかと思っていたのだ。  もう三度目だ、さすがにここは見慣れた場所である。坂のうえから長屋の戸口の並びを見つめ、濃紫ののれんがかかった間口を探す。 (──あれえ?)  目当ての間口はどこにも見あたらなかった。何度も見返して、眉根をよせる。  おかしい。ないはずはないのだ。よもや、今日は與一が留守をしているのだろうか。  無駄足を覚悟して、坂を下りていく。記憶をたどりながら数をかぞえ、板戸を叩く。 「ごめんくださいませ!」  呼びかけに応じる声はない。だが、弱りきって戸の前にたたずんでいると、どたどたどたっと家のなかを駆けてくる音が聞こえた。  ……蹴つまずいた。書物の崩れる音まで響いて、伊都は思わず笑いをもらす。  ようよう戸口にたどりついた與一が顔をのぞかせる。あいさつもそこそこに笑っている伊都をみて怪訝な顔をしたが、そこは勘の良い男である。すぐにこちらの用件に思いいたったようで、すばやくなかへとって返した。 「こちらでありんしょう」  手渡された小包にうなずいて、伊都も提げてきた風呂敷包みを解いた。立ったままでのやりとりに恐縮しつつも、洗い立ての着物を礼とともにさしだす。 「ああ、ずいぶんきれいになりんしたなぁ。お気遣いいただきんしたようで」  言いながら、一歩外へ出た與一の格好に、伊都は心底おどろいた。  いつもの垢じみた着物はどこへやったのか、今日の與一は洋装だった。それも、おそろしく似合っている。着こなしていると表現したほうが正しいだろう。のみならず、丸めがねを外し、長髪も櫛を入れてしっかりとまとめてあるせいか、精悍に見えた。 「どこかへお出かけなんですか」  たずねかけた伊都に、與一はいつもどおりの微笑みをうかべる。 「ええ、ちょいと港まで行って参りんす。いいときにいらした。あと半刻でも遅ければ、行き違いになったことでありんしょう。港で見つかったときにはわちきが確認をしてこいと、ぼっちゃんのお頼みなのでありんす」 「確認?」  くりかえした伊都に「はい」と、なんでもないような風情で與一はうなずく。 「茅野らしき女が揚がったそうで。この陽気でありんす。ご面相では無理でありんしょうが、服装ならばわかりんす」 「──え」  目を見ひらいて凍りついた伊都のさまに、與一のほうが面食らったようだった。 「何も、聞いておいででは?」  やってしまった。ちらりと目のなかをかすめた表情が、雄弁に與一の内心を告げている。 「おとといでありんしょうか。ぼっちゃんがいらして、女が揚がったら、ここに連絡がくるようにしたと仰ったのでありんす」  さきごろ、一報があった。そう言ってから、與一は言いにくそうに続けた。 「書状を持っているそうでありんす。茅野と湊楼の名の入った通行手形だと」  耳にしたとたん、目の前が暗くなった。  伊都はくずおれて、與一の足元に手をついた。息が苦しくなる。右手で何度も、力いっぱい地面を叩いた。たくさんわめいたと思う。何と口にしたか、はっきりとは覚えていない。  そのうちに車夫が呼ばれ、男ふたりがかりで無理やり人力車に積まれた。  我に返ったときには、車は走りだしていた。  身を乗りだして、與一を目でさがす。見えない。焦って、伊都は叫んだ。 「降ろして! ここで止まって頂戴。あたし、港へ行かなけりゃならないの」  車夫は伊都のことばを無視する。聞こえているだろうに、注文を聞く気はないのだ。 「厭っ……。港へ、そうよ、港へ行って頂戴よ。謝らなきゃ、茅野姐さんに謝って、それで、もういっぺんあたし」 (もういっぺん、何をするの? 謝って、何になるの?)  茅野が死んだ。萬市のあとを追って、海に入った。 「う、ぁ、ああああ──」  ひとめもはばからず、大声をあげる。あふれた涙が口に入る。苦みにむせかえる。紅が溶けたのだ。  伊都はかんしゃくを起こして、くちびるを右手の甲で拭った。ぬぐい取られた紅を払い落とすように、左手で幾度も甲を打ち据える。  横濱遊郭大門が目に入った。即座に、伊都は人力車から飛びおりていた。投げ捨てるように運賃を払い、小包をかかえて大門へ飛びこむ。通行手形を求める声にも応じずに一路、通りを走り抜ける。  湊楼へ飛びこんで、草履を脱ぎ捨てる。母屋の部屋へ廊下を駆けていき、目指す部屋のなか、ふりかえった人影に迷わず飛びつく。  しがみつき、背をこぶしで殴りつける。 「どうして! 知ってたんでしょう? なんで教えてくれなかったのッ」  泣きながら何度もなじった。茅野姐さん、茅野姐さんッ、叫んで、泣き崩れ、殴る手をとめた。床にへたりこんで、腕にすがりつく。胸に頭をふせて、身を離す。  頭上から降りてきた低い声は、厳しかった。 「何を知っている。何があった」  問われても応えられない。嗚咽し、喘いでばかりの伊都の頬を軽く張り、人影──若旦那は正気を取りもどさせた。  伊都はたいして痛くもない頬を手で押さえ、あらたな涙をにじませる。顔をゆがませ、とつとつとした語りで三日前のできごとを、さきほど與一から聞いた事実を話しはじめた。  伝えおわるのに、長い時間は要らなかった。 「そうか」  こたえた声は短かった。座りこんでしまっている伊都に目線をあわせ、自分も腰を降ろした。抱きよせて、背をなでる。 「目を離さなければよかった……!」  首を振る伊都に若旦那は悔恨をにじませる。 「知っていた。茅野の弟が病気であることも、おまえの力にうすうす気づいたことも。客を助けたあとに、教えろとしつこく強請(ねだ)られた。  茅野の通行手形を書いたのは、俺だ。こんなことになるとは思わずに出入りを許してやっていた。茅野には前借り金など、もう無いんだ。あいつは弟妹たちのために、実入りのいい働き口を探していただけで」  気が抜けて乾いた笑い声が室内に響いた。 「伊都、おまえが気に病むことはない。あいつらを殺したのは俺だ。全部が全部、俺が為したことだ」  らしくない言動に、顔をあげる。  片手で顔を押さえ、若旦那は高笑いしていた。疲れ切ったようすで、背をそらして床に手をつく。うつろな目で天井を見あげ、彼は笑いの残ったままの表情で、口を開いた。 「萬市は、結核だろう」  伊都は瞠目する。うまく聞きとれなかった。 「労咳(ろうがい)と言ったほうがわかりやすいか?」  手足がかたかたと振戦する。伊都はふたたび若旦那に目を移す。 「帰ってきたのを見て、肝が冷えた。紅を喀血と見間違えた。伊都まで発症したかと」 (……伊都まで?) 「どういう、こと?」  厭な予感がじわり、じわりと胸のうちを占めていく。怖い。聞きたくない。思いながらも、詳細を問わずにはいられない。  若旦那は伊都をまなざす。薄いくちびるがゆっくりと開かれる。紡がれる音が一拍ずつズレて聞こえた。 「あやめが倒れた」 (ああ、神さま! どうして!)  伊都はぱたりと床にうちふした。やわらかな絨毯のうえに額をつけて、てのひらで顔を覆う。いやいやをする。 「まだ、医師に診せている段階だ。病名はわからないが、可能性はある。他の娼妓にも、幾人か似たような症状が出ている。夏風邪だと思って放っておいたと抜かしやがった。  茅野が媒介したんだ。茅野自身も谷戸へ赴くことがあった。あの土地は伝染病の巣窟だ。妓楼の近くまで弟がやってくることもあった。茅野自身も罹患していたに違いあるまい。海に身を投げずとも、長くなかった」  そんなこと、慰めにもならない。何の救いにもならない。  若旦那は小さく笑いながら、つぶやいた。 「湊楼は、これで仕舞いだ。俺が潰してやるまでもなかった」  表情なんて、確かめる必要はなかった。低い声はひそめられ、細かにふるえている。 「死なせるつもりなんて、これっぽちもなかったんだ。救世軍を知っているか。廃娼運動を知っているか。国が娼妓に関する規則を整備している。いまに女を金で縛ることなどなくなる。廃業してよいようになる。  みなが当面暮らしていけるだけの金を工面して、廓の外へと出してやるつもりでいた。……なのにッ」  こころざしは、届かなかった。半ばにして、道は途絶えてしまったのだ。  若旦那は慟哭する。驚いたのだろう、フクが羽根をばたつかせて騒いでいる。  伊都はゆるゆると面をあげた。身を起こして、若旦那ににじりよる。膝立ちになって、手をのばした。首を抱きしめてやる。林檎の蜜のにおいがした。いつもの甘いかおりのする固い黒髪に頬をよせ、指で毛先を梳く。  しばらく、そうしていた。  ようすをたしかめようと、少しだけからだを離す。目があった。吸いこまれるように、濡れた瞳を見つめる。 「伊都」  いかないでくれ。ささやかれて、動けなくなる。とらわれて、目が離せなくなる。  ふれあったのは、ほんのひとときだった。  吐息がかかる距離で、若旦那は自嘲するようにくしゃっと笑った。 「いつのまにか、おまえを選んでいた。大勢を助けるつもりで戻ったというのに。そのうえ、どうだ。おまえひとりも救えなかった。俺の手には負えなかった」  若旦那は自分から離れていった。あぐらをかいて、うずくまる。  それから五分もなかったと思う。 「若旦那さま、お医者さまがお話をしたいと仰っています」  部屋の外からかけられた声に、伊都は覚悟を決め、若旦那とともに立ちあがった。
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