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與一から借りた着物を風呂敷に包んで、胸に抱く。ひとりきりで人力車に揺られていく。このあいだ腕のなかで見たものとも、昼間に歩いてむかったものとも、今日の景色は違って見えた。その理由を、伊都も知っている。
母の鏡台から、こっそり紅をもらってきた。おしろいも刷かず、小指の先に乗るだけ紅を取って、下唇にすうっとひいた。上唇をすりあわせてのばし、鏡のなかの姿をみとめる。苦笑するほかなかった。
紅ひとつでうつくしくなれたらいいものを。案の定、やせっぽちの娘が背伸びをしたようにしか見えなかった。
月のものが来たからといって、からだは急には大人びてくれない。顔立ちにも幼さが目立つ伊都には、まだ紅は似合わなかった。
拭ってしまうのが惜しくてそのままにしてきたが、いまさらながら恥ずかしさを覚えていた。手元にはもらったばかりの手ぬぐいしかない。しみになってはと思うと、安易に手ぬぐいで拭いとることもできなかった。
どうしようかと迷っているうちに、人力車は野毛にたどりついていた。ここでしばらく待っていてくれるように言いつけ、若旦那からもらった銭を見よう見まねで握らせる。
車をおりて、あたりを見まわし、伊都は少なからず安堵した。あんまり違ってみえるので、別の場所についたかと思っていたのだ。
もう三度目だ、さすがにここは見慣れた場所である。坂のうえから長屋の戸口の並びを見つめ、濃紫ののれんがかかった間口を探す。
(──あれえ?)
目当ての間口はどこにも見あたらなかった。何度も見返して、眉根をよせる。
おかしい。ないはずはないのだ。よもや、今日は與一が留守をしているのだろうか。
無駄足を覚悟して、坂を下りていく。記憶をたどりながら数をかぞえ、板戸を叩く。
「ごめんくださいませ!」
呼びかけに応じる声はない。だが、弱りきって戸の前にたたずんでいると、どたどたどたっと家のなかを駆けてくる音が聞こえた。
……蹴つまずいた。書物の崩れる音まで響いて、伊都は思わず笑いをもらす。
ようよう戸口にたどりついた與一が顔をのぞかせる。あいさつもそこそこに笑っている伊都をみて怪訝な顔をしたが、そこは勘の良い男である。すぐにこちらの用件に思いいたったようで、すばやくなかへとって返した。
「こちらでありんしょう」
手渡された小包にうなずいて、伊都も提げてきた風呂敷包みを解いた。立ったままでのやりとりに恐縮しつつも、洗い立ての着物を礼とともにさしだす。
「ああ、ずいぶんきれいになりんしたなぁ。お気遣いいただきんしたようで」
言いながら、一歩外へ出た與一の格好に、伊都は心底おどろいた。
いつもの垢じみた着物はどこへやったのか、今日の與一は洋装だった。それも、おそろしく似合っている。着こなしていると表現したほうが正しいだろう。のみならず、丸めがねを外し、長髪も櫛を入れてしっかりとまとめてあるせいか、精悍に見えた。
「どこかへお出かけなんですか」
たずねかけた伊都に、與一はいつもどおりの微笑みをうかべる。
「ええ、ちょいと港まで行って参りんす。いいときにいらした。あと半刻でも遅ければ、行き違いになったことでありんしょう。港で見つかったときにはわちきが確認をしてこいと、ぼっちゃんのお頼みなのでありんす」
「確認?」
くりかえした伊都に「はい」と、なんでもないような風情で與一はうなずく。
「茅野らしき女が揚がったそうで。この陽気でありんす。ご面相では無理でありんしょうが、服装ならばわかりんす」
「──え」
目を見ひらいて凍りついた伊都のさまに、與一のほうが面食らったようだった。
「何も、聞いておいででは?」
やってしまった。ちらりと目のなかをかすめた表情が、雄弁に與一の内心を告げている。
「おとといでありんしょうか。ぼっちゃんがいらして、女が揚がったら、ここに連絡がくるようにしたと仰ったのでありんす」
さきごろ、一報があった。そう言ってから、與一は言いにくそうに続けた。
「書状を持っているそうでありんす。茅野と湊楼の名の入った通行手形だと」
耳にしたとたん、目の前が暗くなった。
伊都はくずおれて、與一の足元に手をついた。息が苦しくなる。右手で何度も、力いっぱい地面を叩いた。たくさんわめいたと思う。何と口にしたか、はっきりとは覚えていない。
そのうちに車夫が呼ばれ、男ふたりがかりで無理やり人力車に積まれた。
我に返ったときには、車は走りだしていた。
身を乗りだして、與一を目でさがす。見えない。焦って、伊都は叫んだ。
「降ろして! ここで止まって頂戴。あたし、港へ行かなけりゃならないの」
車夫は伊都のことばを無視する。聞こえているだろうに、注文を聞く気はないのだ。
「厭っ……。港へ、そうよ、港へ行って頂戴よ。謝らなきゃ、茅野姐さんに謝って、それで、もういっぺんあたし」
(もういっぺん、何をするの? 謝って、何になるの?)
茅野が死んだ。萬市のあとを追って、海に入った。
「う、ぁ、ああああ──」
ひとめもはばからず、大声をあげる。あふれた涙が口に入る。苦みにむせかえる。紅が溶けたのだ。
伊都はかんしゃくを起こして、くちびるを右手の甲で拭った。ぬぐい取られた紅を払い落とすように、左手で幾度も甲を打ち据える。
横濱遊郭大門が目に入った。即座に、伊都は人力車から飛びおりていた。投げ捨てるように運賃を払い、小包をかかえて大門へ飛びこむ。通行手形を求める声にも応じずに一路、通りを走り抜ける。
湊楼へ飛びこんで、草履を脱ぎ捨てる。母屋の部屋へ廊下を駆けていき、目指す部屋のなか、ふりかえった人影に迷わず飛びつく。
しがみつき、背をこぶしで殴りつける。
「どうして! 知ってたんでしょう? なんで教えてくれなかったのッ」
泣きながら何度もなじった。茅野姐さん、茅野姐さんッ、叫んで、泣き崩れ、殴る手をとめた。床にへたりこんで、腕にすがりつく。胸に頭をふせて、身を離す。
頭上から降りてきた低い声は、厳しかった。
「何を知っている。何があった」
問われても応えられない。嗚咽し、喘いでばかりの伊都の頬を軽く張り、人影──若旦那は正気を取りもどさせた。
伊都はたいして痛くもない頬を手で押さえ、あらたな涙をにじませる。顔をゆがませ、とつとつとした語りで三日前のできごとを、さきほど與一から聞いた事実を話しはじめた。
伝えおわるのに、長い時間は要らなかった。
「そうか」
こたえた声は短かった。座りこんでしまっている伊都に目線をあわせ、自分も腰を降ろした。抱きよせて、背をなでる。
「目を離さなければよかった……!」
首を振る伊都に若旦那は悔恨をにじませる。
「知っていた。茅野の弟が病気であることも、おまえの力にうすうす気づいたことも。客を助けたあとに、教えろとしつこく強請られた。
茅野の通行手形を書いたのは、俺だ。こんなことになるとは思わずに出入りを許してやっていた。茅野には前借り金など、もう無いんだ。あいつは弟妹たちのために、実入りのいい働き口を探していただけで」
気が抜けて乾いた笑い声が室内に響いた。
「伊都、おまえが気に病むことはない。あいつらを殺したのは俺だ。全部が全部、俺が為したことだ」
らしくない言動に、顔をあげる。
片手で顔を押さえ、若旦那は高笑いしていた。疲れ切ったようすで、背をそらして床に手をつく。うつろな目で天井を見あげ、彼は笑いの残ったままの表情で、口を開いた。
「萬市は、結核だろう」
伊都は瞠目する。うまく聞きとれなかった。
「労咳と言ったほうがわかりやすいか?」
手足がかたかたと振戦する。伊都はふたたび若旦那に目を移す。
「帰ってきたのを見て、肝が冷えた。紅を喀血と見間違えた。伊都まで発症したかと」
(……伊都まで?)
「どういう、こと?」
厭な予感がじわり、じわりと胸のうちを占めていく。怖い。聞きたくない。思いながらも、詳細を問わずにはいられない。
若旦那は伊都をまなざす。薄いくちびるがゆっくりと開かれる。紡がれる音が一拍ずつズレて聞こえた。
「あやめが倒れた」
(ああ、神さま! どうして!)
伊都はぱたりと床にうちふした。やわらかな絨毯のうえに額をつけて、てのひらで顔を覆う。いやいやをする。
「まだ、医師に診せている段階だ。病名はわからないが、可能性はある。他の娼妓にも、幾人か似たような症状が出ている。夏風邪だと思って放っておいたと抜かしやがった。
茅野が媒介したんだ。茅野自身も谷戸へ赴くことがあった。あの土地は伝染病の巣窟だ。妓楼の近くまで弟がやってくることもあった。茅野自身も罹患していたに違いあるまい。海に身を投げずとも、長くなかった」
そんなこと、慰めにもならない。何の救いにもならない。
若旦那は小さく笑いながら、つぶやいた。
「湊楼は、これで仕舞いだ。俺が潰してやるまでもなかった」
表情なんて、確かめる必要はなかった。低い声はひそめられ、細かにふるえている。
「死なせるつもりなんて、これっぽちもなかったんだ。救世軍を知っているか。廃娼運動を知っているか。国が娼妓に関する規則を整備している。いまに女を金で縛ることなどなくなる。廃業してよいようになる。
みなが当面暮らしていけるだけの金を工面して、廓の外へと出してやるつもりでいた。……なのにッ」
こころざしは、届かなかった。半ばにして、道は途絶えてしまったのだ。
若旦那は慟哭する。驚いたのだろう、フクが羽根をばたつかせて騒いでいる。
伊都はゆるゆると面をあげた。身を起こして、若旦那ににじりよる。膝立ちになって、手をのばした。首を抱きしめてやる。林檎の蜜のにおいがした。いつもの甘いかおりのする固い黒髪に頬をよせ、指で毛先を梳く。
しばらく、そうしていた。
ようすをたしかめようと、少しだけからだを離す。目があった。吸いこまれるように、濡れた瞳を見つめる。
「伊都」
いかないでくれ。ささやかれて、動けなくなる。とらわれて、目が離せなくなる。
ふれあったのは、ほんのひとときだった。
吐息がかかる距離で、若旦那は自嘲するようにくしゃっと笑った。
「いつのまにか、おまえを選んでいた。大勢を助けるつもりで戻ったというのに。そのうえ、どうだ。おまえひとりも救えなかった。俺の手には負えなかった」
若旦那は自分から離れていった。あぐらをかいて、うずくまる。
それから五分もなかったと思う。
「若旦那さま、お医者さまがお話をしたいと仰っています」
部屋の外からかけられた声に、伊都は覚悟を決め、若旦那とともに立ちあがった。
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