最終話 伊都と死に神

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最終話 伊都と死に神

 床に眠る母は人形のようだった。  若旦那の手によって別棟に移されて、すでに一週間が経つ。妓楼の敷地内の別棟には現在、母をふくめて三人の娼妓が籠められていた。本来は風邪などの病に倒れた娼妓の一時的な隔離場所として建てられたものである。精密な検査の結果が出るまでに時間がかかると聞いて、せめてもの処置だった。  母はと言えば、ここ数日、だんだんに日中、眠たそうにすることが増えた。目をひらいていても、とろんとしているばかりで、話しかけても応答がないこともある。  そばにいることを許されて、伊都はひまさえあれば駆けつけて、母の床の脇へと腰かけているようになった。  湊楼はこの界隈では大きな妓楼だ。茅野やあやめ、三人の娼妓を失ってなお、さしたる痛手も被らずに惰性でまわりつづけている。だが、ここ一週間でいささか寂しくなってしまったとは感じる。  数が減ったのは店に出る娼妓だけではない。なじみの娼妓が居なくなり、離れた客も多い。  日差しは夏に傾き、窓辺は白くまぶしい。寝台に直接、日が注がないようにと気遣っていると、寝返りをうつ気配があった。 「伊都? いるの?」  かけられた声に冷たい手を握り、かるくゆさぶる。母は目をひらき、華やかに微笑んだ。 「いやねえ、ひねもす寝ていなければならないなんて。熱がなければ起きているのに」  身を乗りだした伊都の頬を母のてのひらがすべった。伊都の右手をいとおしむように撫でて、引きよせてほおずりする。 「あのね、伊都。隠していたことがあるの」  うなずくと、母はまっすぐ伊都に視線をむけて、おもむろに口をひらいた。 「あなたはね、大旦那さまの子なの」  受けとめかねた。口が渇いていく。 「それって、」  ことばが続かない。戸惑っている伊都の頭を、母は憐れむように撫でる。 「これは、ご内儀と大旦那さましか知らないこと。将睦(まさちか)さんは知らないでしょうね。  妓楼ではね、娼妓は子を生まないものよ。わたしのときは父親がわかっていたから、生ませてもらえただけ。ご内儀には将睦さんしか子がなかったから、男の子が生まれたら引き取られる手はずだったの」  自分が大旦那の娘? 面と向かって言われても、いまひとつぴんとこない。耳慣れぬ『将睦』という名も、現実感がない。 (つまり、若旦那とあたしは、異母兄妹?)  混乱している間にも、母は言いつのる。 「年季だってそう。妓楼に十年も十五年もいるものではないわ。あなたはわたしばかり見てきたから、外のことを知らずに来たのよ」  ごめんね、伊都。わたしの年季は、明けることがなかったかもしれない。いつ明けるのか、わたしだって知らなかった!  二度目だった。母は泣いていた。  伊都はどこか醒めた気持ちで、透きとおるように白い肌を流れていく涙を見ていた。憧れて、敬愛ばかり抱いていた母の存在が、こころのうちから消えていくようだった。友禅の花模様と信じていたものが、汚いシミであることに気がついてしまったかのように、自分のからだがここにあることすら嫌悪する。 「母さん。あたしのこと、嫌い?」  母は目を見開いて、大仰に首を横にふる。 「まさか! そんなことあるものですか」 「──でも、あたしの父親は嫌いでしょう」  もはや、質問ではなかった。意地悪な言いようだと、自分でも思った。  母は懸命に微笑みをつくろうとしたのだろう。だが、表情はこわばったままだった。 「そうね。憎まなかったと言ったら、嘘になるわ。そのせいで、将睦さんには申し訳ないことをしたと思っています。  あの方は虫が好きでね、幼い時分から研究者を志していたわ。わたしも娼妓になる前はよく連れまわされていたものよ。将睦さんにとって、わたしは新しくできた姉のようだったのでしょう。ほんとうに無邪気に慕ってくれた。それをね、わたしが台無しにしたの。  腹が立って、つい口にしてしまった。『あなたも、ひとを閉じこめるのがお好きなのね。お父さまとそっくりだこと』って」  伊都は想起した。  戸棚のむこうへ隠された虫取り網。フクが遊ぶ螺鈿細工の虫カゴ。遠い目で語り合う若旦那と與一。あれらを母は知っているのだ。 「幼かった。ひとことで他人の人生が歪んでしまうだなんて、思わなかったのよ」  絶えずたたえられていた母の微笑みのわけが、いまにして、わかるような気がした。  母も、幸福でなければならなかったのだ。若旦那の人生をあっさりと踏みにじってしまった罪悪感に耐えるため、伊都を腕に抱いて、常に笑っていなければならなかった。  伊都は母から手を離した。膝のうえでこぶしを握り、息をととのえる。  目の前に右手をかざしたことで、母も娘の意図がわかったらしい。不安そうにしたが、伊都の一挙手一投足を黙って目で追っている。 (ねえ。あたしいま、母さんを助けたい?)  自問自答したが、わからなかった。そのことに自分で衝撃を受けた。小刻みに震える声で、伊都は懇願する。 「母さん。生きたいって、言って」 「……生きたい」  一歩さがれば聞こえなくなりそうだった。 「もっと、大きな声で」  首を左右に振って、母はうつむく。  伊都は嗚咽した。右手をさしだす。てのひらをひらいたまま突きだす。娘につられたのか、鏡うつしのように、母も左手をあげた。  母と伊都のてのひらは、同じ大きさだった。まるでひとりの両手のようにぴたりと合わさって、たがいに泣き笑う。いつのまに、自分は大人になってしまったのだろう?  伊都の目に涙がたまっていく。雫が頬をこぼれていくより、その瞬間は早く訪れた。  合わせた指先が切り裂かれていく。端から、伊都ははじけ飛ぶ。後れ毛が風を受けて揺れる。突風がふいた。まとめていた髪がほどけて、うしろになびく。  目は一度も閉じなかった。奥歯をかみしめて、声ももらさなかった。まばゆいひかりが母との境目から生じ、幾筋も鋭く両目を貫いていく。世界がまっしろになる。伊都のからだは強烈な痛みとともに何度もばらける。  母の腹から大きな熱のうねりが這いでた。畳を伝い、伊都の膝に乗り、襟元にしがみつく。うねりが這う先から、からだはまばたきのうちに融け、煤になる。  のぼってくる!  頬を伝った涙が、じゅ、音をたてて蒸発する。その音とともに伊都もまた、閃光と熱のなかに消えうせた。
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