第二話 異能の娘

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 ぴちゃん……  水音で目が覚めた。飛び起きると、額から生ぬるいものが落ちた。濡れた、てぬぐい? (そうだ、あたし、倒れて)  額がすうすうする。指でたどって、顔をあげ、伊都は目をみはった。 (なんなの、この部屋──?)  見慣れない部屋だ。薄紅色の壁。丸机の上には洋燈(ランプ)がある。洋箪笥は猫足で、この床も地面から遠かった。寝台というやつだ。  高い位置にあるのが不安だが、床面は板張りに絨毯が敷いてある。素足で降りてよいか悩んで、傍の布製のつっかけを履いてみた。  着ているものは変わらない。乱れもない。確かめて、ほっとする。  床からあがると、甘くまるい香りがゆらめいた。熟したりんごを煮詰めたような。女性が身につけてもいいが、これはむしろ。 (男のひとがつけるほうがいいわね。素人さんには甘ったるすぎる)  あまりにも、蠱惑的だった。夜の香だ。  と、ここまで考えて、伊都はつい笑った。そういえば、自分も『素人さん』だ。母がこちらの世界に身を置くせいだろうか、うっかりと自分まで玄人あつかいしてしまって困る。  部屋にただよう香りが男性に似合うと思ったとたんに、頭が冴えた。  ここは若旦那の私室だ。間違いない。帰還から二ヶ月。よくぞ集めたものである。洋装好きの男のことだ。高価な舶来の調度を集めても、壁を薄紅色に塗っても、驚きはない。 (八年も横濱を離れてたんだ。東京と欧州への洋行とを繰り返してたって言うしね。銭がありあまってるのね、おぼっちゃまは)  胸がむかついた。つっかけを脱ぎ捨てる。よりにもよって若旦那に助けられたうえで、奴の部屋で休んでしまっただなんて。  おかみさんに知られたら、ことだ。見つかる前にさっさと立ち去るに限ると、部屋の戸に手をかける。  否、かけようとした。 「ひゃぁっ」  目の前から戸が消える。なぜ? 思う間に、ひとりでに開いた戸の外へ飛び出していた。 「熱烈な歓迎じゃないか、鶏肋(トリガラ)坊主」 「だっ、だれが歓迎するもんかっ!」  飛び離れて、ぎゃんぎゃんとかみつくのを、人影──若旦那は鼻で笑った。 「おまえには目ん玉もついてないのか。それもそうか、ただの骨っきれだしなあ?」 「何を……」  なおも言いかえそうとした伊都の眼前に、ぐいっとつきだされたものがあった。  竹の籠、ひと抱えもある。おがくずを敷いた床に、件のツバメの雛がうずもれていた。  うつらうつらと舟までこいでいる。巣から落ちて怪我をしたのは、羽根の付け根だったらしい。器用に手当したあとがみられた。  伊都の礼を制し、若旦那は口を開いた。 「おまえ、こいつに何をしたんだ」  呼吸がとまる。  視線だけはそらすまじと、面をあげる。 「何も」  答えると、若旦那はうろんな表情になった。 「それだけ溜めておいて、『何も』ということはないはずだ」 「何もないったら」 「敬語の使いかたがなっていない」 「そもそも使ってない」  たがいに、動くのはくちびるだけだった。道で行き合った犬同士がにらみあうようだ。動いたら負け、先に吠えたら負け。吠えるのは小さくて弱いほうだ。ぎぎぎっと、奥歯をかみしめる。顔には出さない。 「あやめは知っているのか?」 「だから、何のことよ」  しらばっくれながら、耳にした母の源氏名にどきっとする。よほど、『母さんは関係ない!』と叫びたかった。  知っているに決まっている。右手を袖に隠すように教えたのは、母だ。  あきらめてくれたのだろうか。若旦那は、はっと短く息を吐き、だまって目を外し、後ろ手に戸を閉めた。部屋の奥へ入り、丸机のうえに持っていた鳥籠を据えた。  伊都が脱ぎ散らかしたつっかけをつまさきに引っかけて、大股に二歩、窓辺によって、みだれたままの寝台に腰をおろした。  自分の残した跡をなぞられたことに気をとられる。寝台を整えれば良かった。つっかけも、そろえて脱ぐくらい、わけなかったのに。  後悔して、やっと自分の立場を再確認する。 (──そうか。若旦那の部屋、ってことは)  くらくらした。あれは若旦那の寝台、若旦那の履き物だ。伊都を自室まで抱いて帰り、床に寝かせ、額に濡らしたふきんをあて、おまけに雛の面倒まで見たのか、この男は。  予想外の姿に頬の熱があがる。伊都は我が胸にこぶしをよせた。 (よせよせあたし! こいつの術中に見事にハマってるじゃないの)  思わず見おろした若旦那はくつろいで、かたわらに立つ伊都の視線など気にも留めない。こちらも見ずにあっさりと言いはなった。 「――鶏肋、昼あけとけ。出かけるぞ」 (あいびきのお誘い?)  ……のワケはなかった。若旦那のことばに艶めいた響きはない。内心の冴えない冗談をなかったことにして、伊都も冷たく切り返す。 「あたし、真金町から出られないよ?」  娼妓ではないとはいえ、妓楼の下働きの娘は娼妓見習いだ。手形なしには、遊郭の大門を抜けられない。事実、伊都はうまれてこのかた、永真遊郭の外には出たことがない。  だが、若旦那はなんでもないことのように言い捨ててのけた。 「出られるさ。俺がつれていくからな」 「あたしだって、ココに買われた身だわ。逃げだすかもしれないよ?」  要らない。そう言われた気がして、不本意にも強気に言いかえすのを、若旦那は鼻で笑った。さすがに少々、かちんとくる。 「そりゃ、直接に金を積まれて売られてきたわけじゃないわ。でも、ココで生まれてココで育った! 大枚はたいて芸事も習わせたのに、大旦那様がそんなに簡単に表へなんて」 「出すだろうな」  くちびるがふるえた。思ってもみなかった。 「思いあがるなよ、鶏肋。おまえひとり消えたところで、湊楼(うち)は痛くもかゆくもない。十三にもなって初潮もむかえていない痩せっぽちのちびなんぞ、養い損だ。娘らしさはどこへ置いてきた。あやめの(はら)のなかか?」  頭に血がのぼる。恥ずかしさからだった。  自分ばかりだ。寝台のこと、つっかけのこと、抱きついてしまったこと。この口の悪い男は、これっぽちも伊都を女とは見ていない。 (言いたい。ぶちまけてしまいたい!)  胸に渦巻くことばを音にしてしまったら、母が悲しむだろう。それだけは避けたかった。  握りしめていた両のこぶしをとき、前へ重ねる。胸に残る息を吐きつくし、少しだけ吸う。背筋をのばし、ぴんと気をはる。夜に客を出迎え、階上に案内するときのようにほほえみ、腰からからだを折って頭を下げる。  たたきこまれたしぐさだ。造作もない。  つまさきに目をあてて、内心を悟られぬようにした。ひとつだけ数え、身を起こす。 「お伴いたします」  そのことばに若旦那は満足げにうなずいた。
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