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「よそゆきは着るな。振袖なんぞ、もってのほかだ」
玄関での若旦那のひとことで、大あわてで着物を取り替えに部屋へ戻った。母に手伝ってもらって、急ぎ、選び直す。
茶や山吹の地味なものは一気に秋や冬めいてしまう。みっともない。
いまは六月、まだおきにいりのおとなびた黒の絽には早い。単衣だ。それに、夏の色は外してはいけない。白く蔦や花模様を抜いた浅葱の単衣を纏う。髪飾りももとのよそゆきに合わせてしまった。髪型を崩さぬようにひきぬいて、白の花にさしかえる。
装いなおした伊都をみて、依然、若旦那は不満げだったが、あきらめたのだろう。きびすを返す。追いかける背に「いっていらっしゃいませ!」と、そろった声がかかる。
「──!」
ふりかえる。見習い仲間の娘がふたり、だれが見ているでもないのに頭をさげている。大旦那や若旦那が出かけるときは、ああして見送りに出るのが常だ。
背にささるわずかな棘を感じて、伊都はうつむく。若旦那の遠ざかるのを小走りに追う。
理由をごまかして、仕事を代わってもらう約束をとりつけた。若旦那と遊郭の外へ出かけるなんて、口が裂けても言えなかったのに。
ふたりは、自分とは違う。家族に売られて湊楼にやってきた身だ。ほんとうの理由を言ったらどうなるか、わからない伊都ではない。見習いのふたりだけになら、まだいいのだ。これが姐さん連中に知れたら!
見通しが甘かった。若旦那が正面から出かけることくらい、予測すべきだった。娘同士のつきあいを言わずに理解するひとではない。言ってどうにかしてくれるひとでもない。
うっかりと涙ぐみそうになっているところへ、やっと横へ並んだ若旦那が口を開く。
「鶏肋、子どもは得意か」
「いくつくらい?」
「数えで三つ」
むすりとしたようすに合点がいく。あまのじゃくになるころだ。何を言ってもいやいやとむずかって、母親でさえ手を焼く。
(子守でも頼まれたのかしら)
意外な気がして顔をあげた伊都を睨み、若旦那は港方面へ足を向けた。
他の妓楼で、娘たちが『楼主の言うことは絶対だ』と理解するのは、いつごろだろう。
湊楼で生まれ、数え十三まで育った。大旦那や若旦那に逆らってはならないことは、骨身に染みている。身体を痛めつけられるわけではない。面と向かったいやがらせでこころがすり減るわけでもない。ただ、不遇になる。
正月にもらえる新しい着物の質が違ってくる。初めて登楼した客に勧められることがなくなる。良い評判がたつたび、こっそりと打ち消され、他の娼妓のうわさに塗り替えられる。ほんのすこうし、安く売られて、前借金を返すまでに日がかかるようになる。
伊都は娼妓『あやめ』の娘として生まれた。母のほんとうの名は知らない。出自も知らない。表では『あやめ姐さん』と呼ぶ。
箸を持つしぐさ、廊下を渡る所作。あやめはどれをとっても、しゅっとして気持ちのよい動きをする。育ちがよかったのだと人は言う。真偽のほどは定かではないが、姐さんがたが耳打ちあっていたのを聞いたことがある。もとは他鄕で落ちぶれた士族の令嬢だという。そう言われてみれば、かすかにことばに訛りのあるように思われる。
(……むごい)
十かそこらで横濱へ来て、伊都と同じくらいの年に初潮を迎えて客をとるようになり、十五歳ではからずも孕んで、子を産んだ。だれの子ともしれない娘。だが、自分を買った男の娘であるのは確実なのだ。
どうして自分にむかって微笑んでいられるのか、伊都はやっぱりわからない。憎まれて当然と思うが、母の笑顔は崩れることがない。
(違う。こないだ、はじめて泣くのを見た)
だまりこくっていたのを何と考えたか、若旦那が声をかけてくる。
「衛生や清潔という語を知っているか」
「清潔は知ってる。清浄潔白の略よね、手習いで何度も書かされたわ」
右方から豪奢な箱馬車が来る。腕に制されて、隣を振りあおぐ。若旦那の横顔は険しい。
「一度で憶えろ、二度は言わない」
はじめに言いおき、若旦那は口を切った。
「知ってのとおり、横濱は港町、どこもかしこも埋立て地で、井戸を掘れば塩水ばかりだ。国の主導で外人がやってきて、水道を作った。上水道と下水道。おまえがうまれたころだ。横濱には、いち早く近代的な水道の素地ができあがったが、いかんせん規模が小さい」
若旦那はせわしく足を運ぶ。置いていかれそうになるたび、ことばはとぎれる。その間に伊都は知識を整理する。
──これくらいもわからないか、鶏肋。
せせら笑う声が聞こえるようで、意地になって耳をそばだてる。
「水屋という職がある」
聞き返しそうになって、直前で飲みこむ。
「おまえは湊楼の水場しか見たことがないだろう。廓門の外、こうした市街はひどい。際限なくひとは増えるが、水は足らない。いまだって市は水道の拡張工事をしているが、この人口をまかなえるかどうか怪しいものだ」
「『みずや』は、水道の届かないひとへ?」
若旦那は肩越しに伊都を見おろした。
「なあ、鶏肋坊主よ。世の中には未だ、一週間も同じ衣服を着続ける奴がある。石鹸で衣類を清潔にし、水場で茶碗や箸を洗う習慣のない輩が大勢いるんだぞ。信じられるか?」
首を振ると、若旦那は笑った。
「娼妓ってのはな、案外『いいお暮らしをなさってる』ものなんだ。毎日湯殿でからだを洗い、きれいなべべを着て、うつくしく化粧して、飯も三度三度いただいて、客にも土産や貢ぎ物をもらう。魂を切り売りするのだから、当然そうでなければ、割に合うまいさ」
最後のほうは言い捨てて、若旦那は一軒の民家の門を入っていく。『鳥見』の名がある。大きな平屋だ。飛び石が母屋まで続く。大股でわたって、十歩も行ったろうか。引き戸を開けて、若旦那は声もかけずに玄関に足を踏み入れる。
目でうながされ、伊都は「ごめんくださいませ!」と、若旦那のかわりに大声を出した。
引き戸に手をかけ、半身を隠すようにしていたが、だれもこない。どうも、屋敷内が騒がしい。来客どころではないのだろう。声は遠いので、奥座敷のあたりか。
覚悟を決め、敷居をまたぐ。若旦那はすでに履き物まで脱いでいる。と、奥から女中が顔を見せた。しかし、呼びかけに応じたわけではなさそうだ。伊都たちの前を横切ろうとして、こちらに気がついて足をとめた。
茶の矢絣に紺の前掛け、袖はたすきがけにし、髪を手ぬぐいで覆って。両腕には山ほどのさらしが積まれている。一筋流れた汗が、つ、と日に焼けた丸い顎にそって垂れ落ちる。
「久良岐様……」
つぶやいた女中に一瞥をくれ、若旦那は伊都の手首をとり、上がりがまちに引きあげる。
「孝和は?」
低く問われ、女中は「奥に……」と言いかけたが、ハッとして、引きとめるように若旦那の前に回った。
「退け」
「いけません、久良岐様。今日は立て込んでおります。お通しできません」
若旦那は不機嫌そうに鼻にしわをよせ、女中の手元からさらしを数枚とると、一枚を伊都の鼻先へ突きつける。
「な、何よ?」
異様な雰囲気に問い返すと、若旦那はさらしを三角に折り、伊都の鼻と口とをふさいだ。布の両端を首の後ろで結ぶ。せっかく結った髪が崩れたのではと、そればかり気になる。
「久良岐様、本日はお引き取りください!」
頭をさげる女中をものともせず、若旦那は自分もさらしで口元を覆った。
「鶏肋、こんな布っきれ一枚あったところで、気休めだ。怖くなったら逃げていい」
「逃げるって──?」
若旦那は答えてはくれなかった。かわりに、脇で頭を下げ続ける女中に言い放つ。
「子どもと接するときはせめて口を覆え。伝染病が相手なら、消毒と隔離が基本だろう。結果、どんな病であれ、早いうちに避病院に移すべきだ。さもなければ、家が潰れるぞ」
避病院。響きに、伊都は凍りつく。母や姐さんがたの口から、たびたび聞くことばだ。
妓楼に籠もりきりの娼妓がおそれるのは、火事と病だ。かつて港崎遊郭を襲った豚屋火事、次の吉原遊郭も火災で失った。昔のことだ。いまの真金町の廓には、いずれの火事を経験した者もないだろう。だが、どれだけの数の娼妓が煙に巻かれ、焼け死んだことか!
病も、恐ろしい。花柳病ばかりではない。最後に横濱でコレラが流行したのは、伊都が八つのころのことだ。あの夏を忘れるもんかと、実家の弟妹を亡くした姐さんは話が出るたび、くちびるを噛みしめる。
もしも、この家に伝染病の患者がいたなら。その病を持ち帰ってしまったなら。
女中をふりきって、若旦那は廊下を進む。震える膝を叱りとばして、伊都はキッと前を見て、その背を追った。
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