第二話 異能の娘

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 良く磨かれた廊下は、初夏の陽光に漆器のように輝いている。玄関をあがってすぐ、むこうにつきあたりの壁が見えた。丁字(ていじ)に行き着くまでの左右は、吹き抜けの中庭になっている。硝子戸が開け放たれており、ちょうど風がふきぬけている。左のほうが小高く地面が盛られているようだ。盛り土の丘のうえを覆って、涼やかな笹の緑が揺れる。丘のてっぺん近く、苔むしたひと抱えもある丸石のそばから、せせらぎが端を発し、廊下の床下を通り抜け、右の庭へと続いていた。  丁字を左へ折れる。あきらめたのだろう、女中はもう追ってこない。  思ったよりもずっと、奥行きのある家らしい。中庭から離れ、幾度か折れると、今度は裏庭が見えて、伊都はほうっと息をついた。  まるで、平安貴族の家のようだ。大きな池が半月を描いていた。せせらぎはここに流れこんでいるのだろうか。水音がする。  さらしの内に息がこもるほど嘆息していると、静けさを破り、男の叫び声が耳をついた。  庭に面した部屋の障子戸が開いている。男性が転がり出て、後ずさりし、縁側から落ちた。尻餅どころか背中をしたたか打って、立てぬまま、なおもむこうへ行こうとする。  その彼に、若旦那は声をかけた。 「孝和。なんてザマだ」  視線が交錯する。沈黙が場を支配した。  男性の両頬に、一気に朱がさす。耳や首まで紅くなってうつむき、立ちあがる。素足で砂地を踏みしめ、てのひらと膝、背についた土を念入りに払う。恥じたそぶりを見せ、男性──孝和は面をあげた。 「将睦(まさちか)こそ、その格好は何だ。後日にしてくれないか。また、例の店へ行くから」  旧知の仲か、はたまた東京で知り合ったのだろうか。少なくとも孝和のようすは、八年ぶりに会ったふうではなかった。  孝和は男性にしては小柄だった。母と同じくらいにみえる。上背のある若旦那と比べると、いっそうかよわげだ。縁側と庭の高低差のせいで、なおさらである。子犬がオオカミに吠えかかっているようにしか見えない。  少々おもしろがっていると、若旦那は険しい顔で孝和の言い分を切り捨てた。 「取り込み中だから何だ。──お(たえ)は?」 「頼むから今日は帰ってくれ!」 (お妙? ……まさか、この家は)  伊都は孝和の出てきた部屋をうかがった。ひとの気配が近づく。部屋から出てきたのは、儚げな若い女性だ。  山百合の花のようなひとだった。  色の白さ、ではない。そうならば、白百合と言ったろう。野の花の王が牡丹ならば、山の花の王は山百合だ。大きく白い花弁に黄金を散りばめた山百合は、気高い山の女神だ。  山百合と称された彼女は、姐さんがたのなかで際だって華麗だった。つややかな黒髪は結いあげただけで錦のようだったし、くっきりと派手な目鼻立ちはたいそう化粧映えした。きっと、お妙姐さんには洋装が似合うだろうと、伊都はおさなごころにいつも思っていた。  やがて資産家の子息が彼女に惚れ込んだ。周囲の反対を押し切って請け出し、妻にした。その資産家のせがれとやらが孝和なのだろう。  三年ぶりの妙はやつれ果てていた。  髪は艶を失い、耳の下でくくられ、後れ毛が汗で首筋に貼りついている。痩けた頬は青白く、大きな目の下に浮く隈が痛々しい。 「面変わりしたな、お妙」  若旦那から掛けられたことばに、妙はゆるやかに表情を崩した。 「久良岐様におかれましてはお変わりなく。お元気そうで何よりでございます」  他人行儀ではあったが、若旦那を見つめる視線は懐かしげだった。妙にとっては年季奉公も悪い思い出ばかりではないのだろう。双眸が伊都をとらえる。ぱっと笑みがこぼれた。 「お伊都ね、顔が隠れてわからなかったわ。大きくなって。お母さんはお元気?」 「はい、……、おかげさまで」  お妙姐さんと呼びかけそうになって、あわてて飲み込む。不自然な間に気づいたのだろう。名を許された。呼びにくいことこの上ないが、確かに夫の前で『姐さん』はまずい。  呼び声に応え、妙は部屋の中に戻っていく。伊都はいざって首を伸ばし、部屋をのぞいた。  畳の青い匂いがする。八畳間の真ん中に白い羽ぶとんが敷かれている。二つ三つの子どもが埋もれていた。うわごとを言っているらしい。背を向けた妙はひとつひとつにうなずき、子の額や髪を拭ってやっている。 (──妙さんの子だったんだ)  さきほどの女中が奥のふすまを開けて部屋に入ってくる。伊都の視線に気づいたようだが、もう何も言わなかった。若旦那の言うことを聞く気はないらしい。口元を覆ってはいない。妙や孝和に配慮したのかもしれない。  女中は妙のむかいに膝をついた。腕いっぱいに抱えてきたさらしで、子どもの枕元に山を築き、側に置いてあった(たらい)を引きよせる。たたえられた水がたぷっと揺れる。  特に声をかけあっていたわけではないが、息の合ったようすで、女中は妙に手を貸し、子どものかけぶとんを剥いだ。むずかるのをあやし、妙は寝間着の帯を解く。  はだけた胸元や腹はやわらかそうな肌をしている。清拭でもしてやるのだろう。子どものからだを起こしてやる。手際よくさらしを濡らし、畳んで、女中がさしだす。無言で受けとって、妙はまず、背から拭いはじめる。  伊都は、むきだしになった子どもの腹から目を離せないでいた。  白い肌に、紫の斑文が散っていた。下腹部から胸、よく見れば顔まで、まるで痣のようにまだらに染め分けられている。  孝和は部屋に背をむけ、縁側に腰をおろし、組んだこぶしを額にあて、池をみやる。くちびるを噛んで、眉をよせる。祈るようだった。自己嫌悪に耐えかねているようにも見えた。  子どもの意識は此岸(しがん)にはなさそうだ。薄目は開けているが、口もうっすら開いてている。よだれの垂れたあとがある。背を拭われるにまかせて、小さなからだはゆらゆらしている。 「治せるか?」  若旦那の声にふりあおぐ。 (そんなの、わからない。ひとに試したことなんかない。うまく行かないかもしれない。万が一のことがあったら、怖い)  答えられなかった。『できない』とする理由がどんどんと胸の内で偽善的に、言い訳がましくなっていく。わかっているのだ。ほんとうの理由は、こんなきれいごとではない。  足が、すくんでいた。足袋の裏に糊でも塗ったように、両足は廊下の床板に貼りついて剥がれない。こぶしが震えてしまっている。  脳裏で母の面が紫のまだらに染まる。首を振って、情景を追いやるが、消えてくれない。  廊下の軋みが聞こえたのは、そんなときだ。  伊都と変わらない背格好の老女だった。四十歳代、白髪交じりの長髪は小さく丸(まげ)に結い、痩せた頬に厚く白粉(おしろい)を塗っている。遠目にも紅が浮いている。髪型が前時代的なのに対し、化粧が現代的なのがちぐはぐに映る。  老女は骨張った顎を軽く前へ突き出す姿勢で、肩をはり、腰元で手を組んでいる。衣擦れをわざと響かせるように外廊下を歩いてくる。くっと、角を曲がり、全体が姿を見せる。  鋭い目がまず、伊都をとらえた。姿勢のせいか、見下すような視線だ。つっと視線をずらし、若旦那に目を留め、相好を崩した。 「まあ、久良岐様。御無沙汰しております」  印象に反して、驚くほどうつくしい所作だった。顎を引き、頭まで背筋に芯をとおした立礼である。時間を掛け、頭頂を数秒見せ、同じだけの時間をかけて戻っていく。  見惚れていると、目があったが、居ないものとの扱いは変わらなかった。老女は縁側に座ったままの孝和の背まで近づいた。 「これ、孝和様、こちらはお客様をお通しする場所ではございません。──だれかある! 客間のご用意をなさい」  手を叩き、使用人を呼ばう。集まってくる女中が改めて指示を受け、また方々へ散っていく。その間、部屋のなかの妙たちは我関せずと言った風だった。丹念な清拭を横目に、老女は眉根を寄せ、口元に袖を持っていく。 「不調法で申し訳ありません、お客様の前で。家に入るということが身につかないようですの。あの嫁がよく遊びに出るせいで、どこぞからもらってきたのか、跡取りまで病気にしてしまって。まったくとんでもない嫁です」 「こちらこそ申し訳ない。彼女を五つのころから育てたのは湊楼です」  若旦那には、妙を庇う気配は一片もなかった。言いようひとつで皮肉になりそうな内容だが、あきらかに、皮肉ではない。心底、育て損なって申し訳ないと言う口ぶりだった。  老女は図に乗ったように笑う。孝和は顔を背ける。妙も口答えしない。ふたりとも、高笑する老女に背を向け、何も言わない。  部屋のなか、女中がふっと目をあげ、妙を気遣うそぶりを見せたが、一瞬のことだった。だれもが石のように口をつぐんでいる。若旦那は平然と老女に同調している。  口を閉ざしながらも、伊都は腹のなかから沸々と耐え難い感覚がわきあがってくるのを押さえつけていた。さらしの下で、くちびるをきゅっと結ぶ。いけない。ここで何か反論したら、妙の立場が危うくなるに違いない。  老女のことばが、からだの裏側をやすりで研いでいく。ざらざらした何かが残っていく。 「孝和様も、あれなどに遠慮せず、丈夫な(めかけ)(はら)をお借りなさいな。そもそも遊び()を本妻になどしなければよろしいのに。あれが産んだ子はきっと育ちませんよ。汚れた女の胎から出た子は汚れてしまうに違いない。だから、こんなに病に弱いのです。何を大騒ぎしているのやら。どうせ風邪でしょう?」  老女の襟首を掴んで、子どもの顔や腹の紫斑を見せつけてやりたい。奥歯に力がかかる。ぎっと歯が軋む音がする。  伊都のなかで、何かが弾けた。
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