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踏み出す。重かった両足が嘘のように力強く動いていく。明確な意思を持って若旦那の横を抜ける。孝和がふりかえり、目を見開く。遠回りして老女の前まで行き、部屋に入る。女中がこちらに感づいて顔をあげる。
「──妙さん」
呼びかける。自分にかぶった影に、妙は床の側に膝をついたまま、伊都を見上げた。
(安心させなきゃ。どうすればいい?)
妙と同じにならなければ。首の後ろに手をやる。口元の覆いを外す。さらしを畳に放ると、妙は「お伊都、あんた……」と、つぶやいた。昔のような親しげな語調だった。
安心したのは伊都のほうだ。笑みかけて、膝をつく。妙と、しっかりと目線をあわせる。
「少しだけでいいの。この子に触らせて」
「いいけど、でも、あんた。──あんた、伝染ったら、あやめになんて言えばいいか」
「だいじょうぶ。きっと、伝染らない」
名は? 伊都の質問に、妙は子どもを見やった。前髪を直してやりながら、欧太郎よ、答えて、うっすらと目元を弛ませる。
耳慣れぬ名を口の中でくりかえす伊都に、妙は由来を短く説いてくれる。
「欧州に名が轟くようにと孝和様がつけたの。鳥見は商家だから。夢が大きいでしょう?」
泣き笑いになって妙は言い、伊都に場所を譲った。欧太郎の横が空いてやっと、くだんの老女にも孫の紫斑が見えたらしい。背後で、ヒッと低く引きつれたような声が聞こえる。
伊都は正座し、欧太郎を見つめた。真昼の地熱を受けてか柔らかな頬は紅潮し、額には脂汗が浮く。つぶろうとしたまま、半分開いた目。生気のないようすに胸が苦しくなる。
てのひらをかざし、頭を撫でるも、いつもの感覚は訪れなかった。それどころか、ばちんと音を立て、手に痛みが走った。かまいたちかと、てのひらを確かめたが、怪我はない。
やはり、ひとには不向きな力なのだろうか。いや、それでは困る。
(欧太郎の意識があたしに向いてないからだ。鞠遊びといっしょよ、受けとる気のないひとには投げられないんだわ)
伊都は額に手をあてたまま、欧太郎の顔へかがみ込んだ。視線は合わせられそうにない。声も聞こえるかどうか。さすがに、病人の頬を張るわけにもいくまい。となれば、取れる手段はいくつも残されてはいなかった。
ものは試しと、半眼を閉じる。声にせず、胸の内で話しかけてみる。
(ねえ、欧太郎。聞こえる?)
ぴくり。右のまぶたがひくついた。重ねて問うと、あどけない声が脳裏に響いた。
(だあれ? ぼくね、おかあさまにいわれてね、しらないひととおはなし、め、なの)
想定外にしっかりとした返答に、伊都は驚いた。欧太郎はまだ数え三つ。声に出せば、いまほど流暢には話せまい。なるほど、これは気持ちと気持ちのやりとりなのだ。
……いけるかもしれない。怯えさせぬように、でも、いくらか親しげにしていく。
(知らないことないわ。あたし、お母様にはね、妹のように可愛がられていたのだもの。欧太郎が生まれるより前からよ)
(ほんとう?)
(ええ、本当よ。今日はね、欧太郎が病気だっていうから、治しにきたの)
ちょっぴり嘘を混ぜ込んでいくことに罪悪感など、おぼえるひまもない。
(おねえちゃま、お医者さまなんだ! 女のお医者さま、ぼく、はじめて!)
伊都は敢えて否定はしなかった。
(あなたの病気はあたしが治すわ。……ねえ、欧太郎。治ったら、何がしたい?)
欧太郎は悩むようすもみせなかった。
(ぼくね、おかあさまとおでかけしたい!)
欧太郎は声を弾ませる。気のせいだろうか、ゆるんでいた口角があがったようだった。
(このあいだ、お食事に行ったとき、おかあさまね、とってもきれいだったの)
(おしゃれしていたのね)
(うん、洋装で、お帽子をかぶってて、いつもとちがうお化粧してた)
あでやかな装いの妙は、目に浮かぶようだった。長い髪は編みあげて、丸帽子を斜めに乗せる。首の詰まったワンピースには舶来の豪奢なレースをあしらってある。布地はきっと妙の好きなうぐいす色。裾は床すれすれで、歩くたびに優美にひらめく。見え隠れする先のとがった革靴は高く小気味いい音を立てる。そうして、菩薩さまかという微笑みを一心に欧太郎に注いで、手を引いてくれるのだ。
(欧太郎は大きくなったら、いい男になるわ。身近にこんなきれいなひとがいるんだもの)
伊都が心から母をほめると、欧太郎はくすぐったそうに声なき声で笑った。自分の病状も知らずに笑う子の声は、いたく胸につく。
(――治したい)
つぶやきから、大きく波紋がひろがる。それはからだの中心から外へと空を伝わっていく。目を見開き、伊都はさざなみをつかむように両手を胸元にあげる。
(欧太郎。きっとよ。きっと、おかあさまとおでかけしなさいね)
広がったさざなみは徐々に打ち返し、こちらへ迫ってきている。まわりを取り囲まれる。『波』は熱を持っている。だが、凍傷になるほどつめたいとも思う。
伊都のある場所が周囲から落ちくぼんでいるかのように、寄せてきた『波』が勢いよくなだれこんでくる。
「ぁ──!」
声をあげても、『波』は止まらなかった。入り込んでくる。内側から犯されていく。足先にたまり、膝がちりりと痛む。胃の腑を灼かれ、胸を刺され、脳天まで充ち満ちる。
欧太郎の床へと崩れ、伊都は肘をついた。
火とも氷ともつかぬ感覚にさいなまれ、いつか確信していた。
これは、欧太郎の求めるもの。渡してやらねばならぬものなのだ。
腕を伸ばす。熱い吐息をついて、玉の汗をにじませる額へ。紫斑を指先でなぞる。前髪をかき分け、右のてのひらをぺたりとつける。
世界が、光った。
渇いていたのだ。脈打って『波』はひく。欧太郎のなかへ流れ込む。余さず飲みつくそうというのか、貪欲なまでに吸いこんでいく。
女中が腰をあげたのが見えた。助け起こしてくれるらしい。いらない。言おうとして、口が動かないのに気づいた。いつからだろう、音も聞こえない。そればかりではない。からだも、かすかにも動かせなくなっていた。
『波』はまだ、腹のなかをなめている。伊都は自分が末端から消えていくのを感じた。指先もつまさきも、頭もとろけ、空気にまじわる。たゆたい、熱をうしなっていく。
視界がぼやける。体勢を支えていた肘から力がぬけた。なすすべもなく、脇へ転がる。
たぶん、首だけだった。あたたかいもののうえに落ちた。やわらかく受けとめられる。
(母さんの膝まくらみたい。あったかい)
女中が抱き上げてくれたのだろう。からだが浮いた。女性のわりにずいぶんと力持ちだ。伊都は若旦那にも鶏肋と言われるほど。やせぎすなら、運べてしまうものかもしれない。
心地がよかった。余所へつれていかれ、横たえられる。腕が離れていくのを感じて、伊都は幼子のように甘えたい気になった。
(下ろさないで。もっとしてほしい……)
からだは動かない。表情にも出なかったはずだ。だが、間をおいて、膝のうえに抱き上げられていた。
ぎこちなく頭を撫ぜられた。伊都を運べるだけのことはある。さすがに大きな手だった。
眠気が押しよせる。伊都が眠りにつくまで、あたたかな手は止まることがなかった。
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