第三話 死に神の青年

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第三話 死に神の青年

 ぬるい風がふきつけてきていた。  上下にひどくからだが揺れる。目を開ければ、昼下がりの日差しがある。  椅子の背にもたれ、だらしなく弛緩し、伊都のまぶたは花にとまる蝶の羽のようにゆっくりと開かれ、また閉じる。頬があたたかい。  目を転じた先に、法被(はっぴ)姿の背があった。  法被には、染め抜かれた文字が見えた。紺の股引(ももひき)の足はとてつもない早さで駆け続けている。丸みを帯びた半月の饅頭笠は足を運ぶたびにひょこひょこと飛ぶようだった。 (人力車だ。──嘘、いつのまに?)  考える間に、人力車が大きく跳ねた。 「ひゃあっ!」  衝撃で、頬骨をしたたか打ちつける。がちりと歯が鳴るほどだった。舌もすこし噛んだ。いったい何にぶつかったものか。顔を押さえ、涙目で身を起こし、伊都はそのまま固まった。  あらぬところに触れるてのひらがあった。気づかれたのを悟ってか、伊都の細い腰にまわされていた腕は、自然を装って離れていく。 (……あたし、こいつの肩をまくらに!)  恥ずかしさで、くらりとめまいがする。伊都は自分をだきしめ、隣の男を睨め上げた。  若旦那は目だけよこし、いかにも興味がないと示すかのように、すぐに前方へむきなおった。これで声をあげずにいられるものか! 「あ、あなた、あたしに何を。どこに行くの、この車はっ」  叫ぶ伊都に、車夫が車内を気にするそぶりを見せる。それを、若旦那のことばが制した。 「礼儀がなっていないな、鶏肋坊主」 「だれがトリガラよ! だいたい礼儀礼儀って言いますけれどもね、いくらあたしを子ども扱いしようと、十三にもなる娘にベタベタさわるだなんて、外道もいいところだわ!」  声を荒げた伊都を、若旦那は今度は見ることもしなかった。 「おまえの言う『外道』は倒れた娘のために車を呼んだ。外へ放りだされぬように抱えて、肩を貸した。こうも罵られるなら、鳥見家に置き去りにしてやってもよかったな。おまえに俺を『外道』と責める筋合いがあるか?」  言いかえすことばもない。黙りこんだ伊都に、若旦那は前を向いたまま短く言い添えた。 「おまえが倒れてすぐ、子が目覚めた。熱も引き、紫斑も薄くなり、けろりとしていた」 (──よかった。効いたんだ)  こころがゆるむ。ほうっと、長い息をつく。気が抜けて、顔が笑ってしまう。それを押し隠そうと、伊都は両手で顔を覆う。 「鶏肋。ひとを、救いたくはないか」  唐突なことばだった。問いかけであると気づくのに、しばらくの時間を要した。 (救いたく、ないわけではないけれど) 「何を期待されているのか知らないけれども、今日みたいなことはもうやらないわ。幼い子が苦しむのは見てられないし、何よりお妙姐さんの子だったからだわ。特別よ」 「このさきも犬猫は助けるのだろう?」  ことばは、胸にさくりと刺さった。車夫の背を見つめ、すこし頭を整理してから、ゆっくりと伊都はふりむく。 「……そうよ、いけない?」  思いきり悪ぶる。高慢そうに見えるよう、笑みを浮かべてみる。羽つき扇子でもあれば、西洋かぶれのマダムのようにご高説が()てたことだろう。あいにく伊都は手ぶらだ。口で勝てぬぶん、ぼろを出さぬように武装をする。  あくびがのぼってくるのを待ちかまえ、両手で隠しつつも、わざと大あくびをする。それから、からかう調子でワケを口にする。 「ごらんのとおりよ。あたし、やせっぽちですからね。燃費が悪いんだわ。とくに今日は疲れたの。数え三つの子が相手でこんなよ。大人なんて、相手にすることもできないわ。お医者でもないのに、救うだなんて大層な」  若旦那は何も言わなかった。ただ、伊都のそぶりを莫迦にするように鼻で笑った。  頬が熱くなった。若旦那はこちらの虚勢に気がついているのだ。伊都はヤケになった。 「あ、あたし、モノやカネで釣られないからねっ。幼子だからって連れてくのもナシ!」  若旦那はのどの奥でくっと笑い、口の端を笑いにひきつらせたまま顔をそむける。 「ちょっと、あなた聞いて──」 「旦那ァ、お望みの場所へ着きやしたが」  つっかかった伊都をさえぎり、車夫の声がかかった。人力車のうえで長々とケンカされては商売あがったりと思ったのかもしれない。 (さあ、ここはどこ?)  出された踏み台に乗って、前へと降りる。車から離れ、勢い込んで手を腰に当てて周囲を見渡したはいいが、すぐそこの大門に見えた文字に拍子抜けする思いがした。道の左右にたてられたガス灯つきの石柱には、「遊廓」とだけ書いてある。石柱のそばには紅白の布がまかれた太い柱がつったっている。  そこは、見慣れた横濱遊郭大門だった。 (ひとっぱたらきしたんだ、氷菓子なりおごってくれたっていいじゃないのよね、吝嗇(ケチ))  嘆息して、大通りを見据える。軒先につらなる提灯。並んださき、遠く金比羅さんの鳥居が見える。遊郭とともに大鷲(おおとり)神社が遷座したせいか、金比羅さんは肩身が狭そうだ。毎年の酉の市(おとりさま)の時期には、吉兆のついた飾り熊手が神社の周囲を覆い隠すほどになる。あの壮麗さといったら、ない。  五つ六つのころには、小遣いをもらって近所の男の子らと露店を巡ったっけ。小遣いのやりくりに、みんなで頭を悩ませたものだ。  思い出のなかと同じように、下駄履きの男の子らが駆けてくる。どきりとしたのを隠して、伊都は彼らを見つめた。  大きめに仕立てられた着物をインバネスのように首元へ巻きつけて、洋装ごっこのつもりらしい。ひらりひらり、裾がなびいている。近づいてくる。娼妓は抜けられぬはずの門を、子らは目にも止めずに通りぬけ、伊都のわきを遊郭の外へと走り去る。彼らがたてた風に髪がなびいたのを、手で押さえ、ふりかえる。  若旦那は伊都をほうって、人力車のところで車夫と何やらやりとりをしている。 「置いていくわよ!」  叫ぶと、若旦那はこちらを見遣り、銀貨を幾枚か車夫に握らせ、何事か言い含めた。 「……では、明日の午後」  前金を渡してあらかじめ呼んだのだろうが、あの銀貨、五枚はあった。伊都は隠れて勘定をしてみる。五銭白銅貨の見間違いかと疑ったが、みな同じ色だった。銀貨に相違ない。さすがに五十銭や一(えん)ではないだろう。たとえ全て十銭でも、五枚では車賃には高い。  七十五銭もあれば、東京まで四時間でいけると聞いた。いや、あれは乗り合い馬車か。人力車など日用にしたことがないから、相場がわからないが、とにかく高いのは比べればわかる。ここまでだって行きは歩いたくらいだ。短時間で歩ける距離なのだから、ふたりで十銭もしないのではないか。ひとりならば、なおさら。いったいどこへ行こうというのだ。  珠算は苦手だ。伊都に暗算のできようはずもなかった。いくらになるかと数の組み合わせにあき、行ってしまう。 (あぁ、算術なんて考えるのもイヤ。若旦那がどこへ行こうと、知ったことではないわ。勝手に伊豆でも東京でも行けばいいのよ)  湊楼の大屋根が見える。またも店の正面から足早に入っていく若旦那に追いすがる。自分の家に帰るだけだというのに、緊張してしまうのは、行きのことがあったからだ。これ以上、娘たちや姐さんがたに鉢合わせしたら、しばらくはお仕事になりそうにない。 (よし、『あたしはお妙姐さんのお子さんのお見舞いに行ってきた。若旦那が小さな子が苦手だから、子どもをあやすお役目を言いつかった』。そういうことにしておこう)  言い訳を考えつつも、見つからぬうちにと、玄関を上がる。脱いだ草履をさっと取り、裏をあわせて胸元に抱えた。堂々と行く若旦那のうしろをついていきながら、伊都は人目を避けて母の部屋へ戻る経路に頭をひねる。  湊楼は増築に増築を重ねている。使用人と客では通路も違う。迷路のような構造ゆえに、ひとつの部屋へ行くのに幾通りも方法がある。 (あっ、ここで曲がったらいいかも)  なるたけ声を低くして、こころもち屈んで、伊都は口元に手をよせた。 「若旦那、若旦那! あたし、ここで──」 「失礼するな、鶏肋坊主。肉だけでなく頭まで足らんヤツだな」 「なっ、何よ、そのいいぐさ!」  思わずからだを起こし、声高に言い返してしまってから、慌てて口をふさぐ。  憐れむような目で見おろされ、いたたまれずに、草履を両手で掲げ、顔を隠してみる。若旦那は深く息をついた。 「俺の部屋に忘れ物があるだろうが」  言われて、また大声をあげてしまい、伊都は情けなさにその場にうずくまった。 (ツバメの仔! さっぱりと忘れてた……) 「もぉ、イヤぁ!」  うなるように言うと、若旦那は伊都を置いて歩き去ろうとする。呼びとめるが、足はとまらない。文句をたれると、ふりかえりもせずに言うことには、 「俺には痩せ牛の知り合いはない」 「──!!」  あんまりである。トリガラの次は牛か! 怒る気力もなくなって、若旦那の部屋に足を踏み入れる。  後ろ手で戸を閉める。とろりと甘い香りがただよっている。無人だったのだ、香を焚くわけもない。いったい、どこから。見つけ出せずに、伊都は丸机のうえの鳥籠に近よる。  いまのいままで眠っていたようだが、ひとの気配に感づいて、ツバメの仔は大きくくちばしをあける。赤い口腔を見せつけて、ぴいぴいぴいと小うるさく鳴きはじめてしまった。よたよたと歩いて、籠のふちまでやってきて、口を突きだしながら、なおも訴えている。  中に指をいれたら噛まれてしまいそうだ。しかしながら、籠には指をさしいれるほどの隙間はない。外からあやしていると、若旦那はカフスボタンを外して言った。 「腹が減っているんだろう。鶏肋、これを貸してやる。表へ行って羽虫とってこい」 「羽虫ぃ? いまの時期じゃ、取れないわ」 「トンボも悪くないな。少なく見積もっても五、六匹は必要だ」  棚の裏手から取り出されたのは小さくうつくしい竹籠だった。柄の長い虫取り網が添えられ、採集用具一式というわけだ。  細い竹は見事に曲線を描いている。竹は漆塗りの土台に、指どころか箸一本も通りそうにないこまかさで植えつけられている。鈴虫用か。土台の螺鈿細工の金銀や紅色に胸が躍ってしまう。ツバメの入っている籠といい、この竹籠といい、高価そうな品である。  「ねえ、若旦那。もしかして、こっちも鳥籠ではなくて虫籠なの?」  若旦那は襟を緩める手をとめた。 「……蝶を遊ばせておくための籠だ」 「虫、好きなのね」 「……あやめは虫が苦手のはずだろう。こいつに生きた虫を食わせる光景など見せてみろ、今夜は身揚(みあが)りにするはめになるぞ。他の女ならいざ知らず、あやめの揚げ代は高いからな。無料で休みをとろうなんぞ、番頭が許さないな。しっかり負担させるに違いない」  ひとをからかうでもないのに滔々と流れるような口上に、かえって伊都は不審を抱いた。 (はぐらかされてる。それに、母さんが虫を苦手にしているなんて、聞いたこともない)  油虫がでても、おっとりと声も上げないひとだ。春にはモンシロチョウ、秋にはアキアカネと、飛んでいるのを指にとまらせてみようとする。部屋に迷い込んだカマキリをそっとつかんで、外へと放してやる。  伊都の知る母は、虫に好きも嫌いもない。 「別に、平気だと思うけどなあ」 「ダメだ。鳥はここにおく。あやめの部屋には動かすな。鶏肋、おまえが世話に来い」  びっくりして伊都は瞠目する。 「ちょ、ちょっと待ってよ。いつのまにそんな話に流れてるワケっ?」  若旦那は寝台にうわっぱりを脱ぎ捨て、まだいたのかと言う顔をする。 「男の着替えをのぞくのが趣味か、酔狂な」 「違うから!」  ぴい。割りこんできた声に、伊都はしゃがみこんだ。こうるさく鳴いていたツバメの仔はすっかり静かになり、いささかしょんぼりしているように見える。 (ほんとうにおなかが空いているんだよね)  ツバメは小首をかしげる。ひょこひょこと籠の奥へむかうが、傷が痛むのか体勢を崩し、羽を広げたまま胸からおがくずに埋もれた。 (ごめんね、すぐにごはん取ってくるから)  伊都は声もなく立ち上がった。若旦那をにらむ。彼は手をとめて、何事か言おうとする。どうせ、からかう気なのだ。 「……ええ、ええ、わかりましたよ、ここに来ればいいんでしょう! 仰せの通りに!」  胸がざわざわする。かけられたことばも聞かずに部屋を出る。音が鳴るほど廊下を踏みしめ、外へ急ぐ。  こころを占める感情が自分への苛立ちだと気づいたのは、表へ出てからだった。
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