第三話 死に神の青年

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 戻ったのは、初夏の日が傾いたころだった。  時期が早すぎるのだろう。トンボはいくらか見かけたが、とれたのは一匹きり。ほかは羽虫もとれず、虫なら同じだろうと、土を掘ってミミズまで探しまわるありさまだった。  若旦那の貸してくれた虫籠は上等で、漆塗りや螺鈿の装飾があるぶんだけ、小柄な伊都が持ち歩くには重厚すぎた。腕がしびれてしかたなかったが、下手に小石だらけの地面に置いて、漆器を欠いてはいけない。  伊都にはこの虫籠のほんとうの値打ちもわからない。きれいで、高価そうだと感じるから、丁寧に扱わざるをえない。  まして、これは若旦那の持ち物だ。汚して帰った日には、気にくわない相手に心理的な『借り』をつくるだけではすまない。お咎めもあろうし、母の年季が延びるやもしれぬ。憎まれ口ならいくらでも叩ける伊都としても、めったな真似はできなかったのだ。  さすがに疲れ果てていた。できることなら、(あやめ)の傍でひと息つきたいところだったが、許されないことだ。  宵闇は客を連れてくる。これからが湊楼の活気づく時間だ。伊都が湊楼の裏手からこっそりとなかへ戻るころには、廊下には客や女たちの往来が多くなっていた。  見習いの伊都も、人目につく場所にいる以上は湊楼の『女』である。客に汗まみれのみっともないさまをさらすわけにはいかない。虫取り後の姿など、もってのほかである。  仮の入れ物として虫取り網に放り込んだミミズが手元でうねっている。トンボ一匹のためには仰々しい虫籠は重たくてたまらない。  へっぴり腰になりながら、人目を盗んでそそくさと廊下を渡り、若旦那の部屋に入る。  僅かな戦果を嘲られるのを覚悟して踏み入れた部屋には幸いにして、主の姿はなかった。  うしろ手に戸をしめて、まずはふうっと肩で息をついた。奥へと進み、鳥籠をあける。手早く虫を与えると、ツバメの仔は自分から無心についばみはじめる。 (よかった。これだけの食欲があれば、きっとすぐに怪我も治るね)  首を指先で撫でる。食事を邪魔されて、ツバメは身をよじる。ごめんごめんと笑いながら謝って、ふと、名をつけてやりたくなった。  生き物など飼ったことがない。猫なら『タマ』でいいし、犬なら『シロ』だの『タロ』だのでいい。だが、鳥はなんと名付けたものか。『ぴよちゃん』ではあんまり安易すぎる。  名を考えている間にエサを平らげ、ツバメの仔はくちばしをくわっと開けてみせた。もっとよこせというのだろう。部屋中に響くけたたましい鳴き声に苦笑をもらし、伊都はその場にへたりこんだ。 「ツバメさんツバメさん。あなたねえ、それ以上召し上がると、いまにふくふくしくなっちゃうわよー?」  指先でからかうと、エサかと見誤ったらしい。ツバメはくるりくるりと首をまわして、指を追いかける。だが、やがて、伊都が虫をくれないのがわかったのか、ぴたりと鳴きやんで、薄情にも籠の奥へとひっこんでいった。  おがくずのなかにうずくまるうしろすがたは、いまだって充分にふっくらとしている。きっと親に特別かわいがられていたのだ。  伊都は小さく呼びかけてみる。 「──フク。ねえ、なまえ、フクはどう?」  そっぽをむいたままである。何度か呼びかけてみるが、ツバメは応える気もないらしい。  むっとして、籠の傍に手をかざしながら「フク、ごはん」つっけんどんに言ってみると、これがまた、ひょこひょこと近寄ってきてしまうから悔しい。 (なんで『ごはん』はわかるのかなあ、なまえはわからないのに?)  意地になって『ごはん』の単語だけ外して手を振ったり、手は振らずに『ごはん』と言ってみたり。  そのうち、ツバメの仔のなかで『フク』と『ごはん』が結びついたか「おいで、フク」と呼ぶと、口を開けてみせるようになった。 (いやいや、そうじゃなくってね……)  伊都はぐったりとして、ため息をついた。  フクの相手をするうちに部屋はすっかりと薄暗くなっている。伊都の姿がないことに、みんなは気がつき始めたろうか。香車や番頭、娘たちは少なくとも気がついているだろう。 (ああ、面倒。このまま遊んでようかしら)  心中の物言いとは反して、伊都は支度に頭をめぐらせる。  とにもかくにも着替えなければなるまい。汗だくである。だが、仕事着は母の部屋だ。いまは入れないはずである。  着物は娘仲間に貸してもらうほかない。かくなるうえは、仲間に頭をさげ、昼のお礼もかねて、甘味でもおごろう。 (わざわざフクの世話をしに来るんだもの。ぜーったいお給金もらうわよ!)  ぐっと野望にこぶしを握り、腹を決めて立ちあがる。 「行ってくるね、フク」  声をかけ、部屋の戸をあけようとした、まさにそのときだった。  若旦那の部屋には灯りもついていない。窓の外はすっかり暮れている。客の通る廊下は明るいだろうが、こちらは母屋だ。客は通さないから、部屋の前の廊下は暗い。室内は、むこうからのほの明かりで、ようよう手元を見るまでになっている。  こぶしひとつ分開いた戸の隙間から、廊下のむこうに手燭の灯りがぽうっとあるのが見えた。ゆっくりと、灯を消さぬように近づいてくる。障子戸に人の影がかかる。 (あれは、若旦那──?)  違う気がする。人影は小柄で、小太りな中年男だ。客が誤って迷い込んだのか。案内すべきだろうか、こんな身なりでも?  伊都は自分の服装をあらためる。汗臭くないかと、くんくんと行儀悪くも肩口のにおいを確かめていると、もうひとり、手燭も無しにやってくるのが見えた。男衆だろうか。  彼にまかせよう。諦めた伊都の前を、中年男は袴の裾をひきずり、通りすぎる。障子紙のうえ、太った影がむこうへ消えていく。  そうして、五つも数えないで、そこへもうひとりの横顔があらわれたのだ。  ほんの一瞬。だが、伊都は刮目していた。おそらく、口まで開いていたと思う。  洋装の青年だ。格子柄の鳥打ち帽をかぶり、ハイカラアのシャツに厚手のジャケットを羽織っていた。そろいの山吹色の布地だ。懐中時計か、ジャケットの左の胸元に銀鎖が垂れている。灰色のズボンは羊毛だろう。ぴしりと糊がきいていて、鏝もきちんと当ててある。  そして、伊都の目を奪ったのは、青年の服装だけではなかった。  青年は、女もうらやむ象牙の肌をしていた。横から見れば、いっそう目立つ長いまつげと、眉墨要らずのくっきりと意志の強そうな眉。  まなざしは、前を行く中年男をとらえている。結ばれた下唇はやや厚く艶めいている。 (なんてきれい。男のひとだよね、いまの)  青年もまた部屋の前を過ぎていく。目で彼の影だけでも追おうと、伊都は視線を動かし、ひゃっ、と短く声を漏らした。  ──青年の影は、障子のどこにも映らなかったのである。
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