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フクが騒いでいる。鳴き声のけたたましさで腹具合を推し量り、苦笑する。
まどろみから緩やかに連れ出されていく。伊都はまわらぬ頭で、はて、と考える。
(あたし、フクのこと、母さんの部屋に連れてきたんだっけ?)
許しを得ていない。連れ出そうわけもない。
ぱちりとまぶたをひらき、伊都は身を跳ね起こした。ふとんではない。毛足の長い絨毯のうえに横たわっていた。
若旦那の部屋だ。こんなところで、いつのまに寝入ってしまったものか。
(そうだ、あのひとが……)
思い出したとたん、ぞわりと怖気におそわれた。肌が粟立つ。戸に飛びつき、脇へ叩きつける。部屋を出て、廊下のむこうを見やる。いない。ふりかえる。
「──ッ!」
視界を塞いだ人影に、伊都は悲鳴をあげた。
否、あげようとした。
大きく開けた口をてのひらで押さえつけられ、むせかえる。左手で殴りつける。腕がとらえられ、胸にも当たらない。
(右手? ダメよ、右手は使っちゃ、ダメ)
こんな状況でも理性のはたらく自分が恨めしかった。せめて脛でも蹴り飛ばしてやろうとして、かけられた声に、伊都は顔をあげた。
「鶏肋、待て。おい、俺だ!」
「えっ?」
勢いのついた足は止められなかった。若旦那の脛を思い切り蹴り、伊都は反動で跳ねた。
腕をつかまれているのもあったが、何よりの盲点はこちらが足袋であったことだ。
指が折れるような痛みに目をつぶる。かがもうとしたのを遮られ、伊都は悪態をついた。
「脅かさないでよ、バカ旦那! あなたこそ足に肉付いてないんじゃないのっ? うう、いったあ……」
男の脛がこれほどまでに堅いとは。しかも、ちっとも効いていないではないか。
次に蹴るなら、腹か急所だ。物騒なことを考えつつ、伊都はにじんだ涙をぬぐった。片手を伸ばして、みずからの足先を気遣う。
無理な体勢に気がついたらしい。若旦那はやっと腕を解放してくれた。これでやっとかがめると、腰を曲げかけて、伊都は固まった。
前髪が触れあう。額をかすめたあたたかな熱に胸が跳ねる。
伊都よりも一瞬早く、若旦那は床に膝をついていた。顔の近さに、あわてて身を起こす。
「ひゃあ」
足袋を脱がされ、素足に手を触れられる。均衡を崩し、若旦那の肩に手をついてしまった。若旦那はためらいもなく伊都の足をてのひらにとり、ためつすがめつしている。
足を預け、肩口を借りる。左手と袖に隠した右手とで、傾いたからだを支える。体温の近さにさまざまに考えがうかぶが、時間が経つにつれ、若旦那の行為に何の艶めいた意味もないことを思い知っていく。
大きな左手に乗った伊都の素足は、熱と緊張とで、汗をにじませる。若旦那の右手の指が足指を撫で、骨をなぞる。こわばりを丹念に開き、一本一本、指の動きを確かめていく。
機械工が点検をするように。そう言ったら、幾分わかりやすかろうか。
跳ね上がった自分の熱が急激にさめていくのを感じながら、伊都はされるがままになった。緊張が失せれば、片足で立つことなど造作もない。肩からも手を離す。
「……折れてはいない。脱臼もないだろう。大袈裟に騒ぎすぎだな」
若旦那は投げだすように伊都の足を手放した。すかさず、自分の足指に残る感触を手で払う。一、二歩あとずさりして距離をおく。
若旦那はこちらのそぶりに眉だけ動かし、立ち上がった。もの問いたげに鼻を鳴らす。だが、追及はしないようだった。
「お前、一晩眠りこけていたわけか」
「そんなに長くないわ、せいぜいが一時間」
(待って。一晩って言った?)
言いさして、伊都はあおむく。
──白んでいる。橙の光が屋根ごしに目を焼く。東だ、朝焼けが空を染めて。
愕然としたのを鼻で笑って、若旦那は自分の太もものあたりを指でとんとんと示した。
「しわになっている」
足許を見おろし、急いで裾をひっぱって調える。くちびるを結んで、口をつきそうだった言い訳を胸におさめる。
(言ったって信じないわ、幽霊だなんて! あたし、あのまま気絶でもしたんだ)
伊都の心中の迷いなど、若旦那は知るよしもない。いつもどおりの調子で続ける。
「鶏肋、むこうはお前の手も借りたいほどだぞ。姐さんがたのために湯を沸かしてこい。……いますこしで、つとめが明ける。ついでにお前も汗を流してこい。先に湯を使うなどと気にするな。こぎれいにしているのがお前たちの仕事のはずだ」
汗くさい、と言外に告げられ、さすがに反論がうかばない。初夏の陽気のなか、あれだけ走りまわったのだ。汗もかこうものだ。
若旦那をにらみつけ、きびすを返して、いくらも行かないうちだった。
伊都たちの耳に聞こえてきたのは、絹を裂く悲鳴だった。
はじめの悲鳴から十も数えぬうちに何人かの声が続いた。男性も混じっている。下男か、はたまた客が野次馬根性を出したものか。
立ちどまり、ふりかえる。若旦那と、一瞬だけ視線がまじわる。隙を突くように脇をすり抜け、駆け抜けていく背を追う。
最初はわからなかった。だが、いまならわかる。血相を変えた若旦那がむかう先を、伊都はよく知っている。
母の悲鳴だ。客といさかいでも起こしたというのだろうか、あの穏やかなひとが?
刃傷沙汰でなければいい。もしも暴力をふるわれたとしても、下男が必ずとめてくれる。
湊楼の面々を信頼しながらも、急ぐ足はつまさきから冷えていく。
母が悲鳴をあげるほどのできごととは、いったい何だ? 伊都には想像もつかない。
(母さん、母さん……ッ! 無事でいて!)
角を曲がる。廊下が滑る。転んで床に手をついたが、間髪いれずに跳ねあがるように階段を登った。若旦那の背はとうに視界から消えている。まさに『飛んでいく』といった表現が似つかわしい動きである。
母の部屋にたどりついたときには、廊下にはひとだかりができていた。薄着の娼妓と客とが自分たちの格好もかえりみずに部屋のなかをのぞきこんでいる。
若旦那の姿は群れにはない。背の高い男だ、いれば目立つ。部屋のなかに入ったのだろう。
肩で息をしながら、伊都は立ちはだかるひとのあいだに割り込んだ。
「ごめんなさい、通して! お願い、通してちょうだい!」
大声を出したが、だれもどいてくれない。しかたなしに小さな背をさらにかがめて、伊都は男の脇をくぐる。なるほど、湊楼は昨晩、盛況だったらしい。幾重にもなるひとのあいだをすり抜けつつ、腕をのばし、目の前の人影の腰を押しのけようとした。
「押さないでよ、痣になるじゃないのよッ」
人影が怖い顔でこちらをふりかえった。姐さんのひとり──茅野である。恐縮した伊都に、茅野の表情が和らいだ。「まあ、お伊都じゃないのさ」言って、かがみこんだ背に手をあて、前へと引きずりだしてくれる。
「さ、ごめんよ。あやめの娘だ、ねぇ、お伊都を通してやってェ!」
口元に手をあて、周囲に声をかけてくれる。またたく間に、さっと道がひらける。
茅野の声が聞こえたのだろう。母が蒼白な顔をあげる。無事だ。安堵したものの、室内の状況を目にして、伊都は血の気の引いた。
男が倒れている。白目をむき、泡を吹いて。
(このひと、昨日の!)
昨晩、母屋に迷い込んでいた小太りの中年男である。まさか母の客とは。
(こんな男、母さんにはつりあわないのに)
泡まで吹いて倒れるだなんて、分不相応なことをするから罰が当たったのだ。
恐怖や不安よりも、憎たらしさが先に立つ。よくいるのだ。金さえ払えば、うつくしい娼妓を手に入れられると勘違いしている男が。伊都は軽侮の思いを胸に、母に寄り添った。肩に頬を寄せ、抱きつく。
母はかたかたと震えている。無理もない。やさしく芯が強いことと、突然のことに驚く驚かないは別の話だ。
若旦那は男の傍に屈んでいる。口元に手をかざす。呼気を確かめ、胸に耳を押し当てる。表情は芳しくない。
若旦那はこぶしを握った。男のみぞおちよりやや上へ、腕を大きく振りおろす!
若旦那の『狼藉』の意図がつかめずに、周囲がざわめく。野次馬もそれぞれに肩をすくめ、うめくような悲鳴をもらした。「おまえ、殺す気か!」野次る声さえ出た。
鈍い音が響くたび、伊都もまた、奥歯をかみしめた。母などは自由になった両手で口元を覆っている。このまま失神してしまうのではないかと、気が気ではない。
叩かれるたびに男性の四肢が畳のうえで跳ねる。一度、二度、三度。強く男の胸を殴りつけ、舌打ちする。
若旦那は袖のカフスボタンを外し、肘の上まで腕まくりをした。ベストを脱ぎ捨て、襟元も開ける。膝立ちになって、さきほど殴ったあたりに掌底をあてた。体重をのせ、ぐっと押し込む。三本締めの拍子の早さで、小刻みに男の胸を押し続けていく。
(すごい……、まるで妖術みたい)
否、伊都はうっすらと理解した。これは医術だ。若旦那には心得があるのに違いない。
いつか、伊都は若旦那を信じはじめていた。
──衛生や清潔という語を知っているか。
そう問われたのは、昨日の昼のこと。あれは、こうした医学の心得があってのことばなのではないか。そう考えれば、伝染病に関しての発言にも説得力があるような気がした。
男への反感など、いまは関係ない。湊楼で死人を出すわけにはいかないと、ただその一心で若旦那は男の命を救おうとしているのだ。
(できることが、あるんじゃない?)
こころがささやく。
日の出前とはいえ、初夏である。動き続ける若旦那の開いた首もとを、汗が伝った。シャツへ染みていく。まだそう長くもないが、消耗するらしい。わずかに息があがっていた。
こめかみから流れた一筋がまぶたをかすめてから、頬を滑った。顎へと降りていく。
伊都は腰をあげていた。母から手を離し、若旦那のすぐ傍へよる。胸元から手ぬぐいを出し、腕を伸ばした。
落ちそうになったしずくを手ぬぐいですくい、こめかみににじむ汗も拭いてやる。
手をとめずに、若旦那は目を見開く。伊都の存在にいま気がついた。そんな表情だった。
荒い息に渇いたくちびるが開く。
「伊都、」
……いつもどおり『鶏肋』と呼ばれたなら、わからなかったかもしれない。わかっても、わからないふりをしたかもしれない。
だが、名を呼ばれた。むけられた視線には、伊都をからかう余裕など、みじんも無かった。
うなずく。袖をまくって、右手を示す。若旦那は腕をとめた。手をおろし、ふりかえる。
野次馬のなか、茅野に向かって鋭く命じた。
「戸を閉めろ!」
声の強さに気圧されたのだろう。さきほどの鬼気迫る若旦那のようすがよぎったのかもしれない。茅野は怯えたような表情で引き戸に飛びつき、ぱしんっと外から戸を閉ざした。
野次馬の不満の声が聞こえる。障子のむこうで、茅野は向こうをむいて、うしろ手に戸を守るようにしている。何を言われようと、影は決してそこを動こうとしない。
閉じられた部屋のうちで、伊都はあらためて男にむきなおった。
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