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プロローグ
「うっ、ふぇっ、えーーーんっ!!」
部屋の床の破り捨てられた自分が描いた絵を見て、秋人はまたか、と思ったものの、なにも感じることはなかった。
だからまさか、思わなかったのだ。この家で預かりはじめてたった10日のわずか12歳の少年が、声を上げて泣くなんて。
怒鳴る父、静かに泣く母、呆然と見ている自分と弟。それが日常。
父は他の女と遊び、母は父のいない夜、家令に脅され股を開く。寝屋で男を断るな、と教育された良家出身の令嬢は、泣きながらもその雄を受け入れる。その様子も、幼い頃から何度も目にしてきた。
汚い。汚い。この世界は汚い。
いつしか誰も信用することができなくなって、絵画に文芸、美しいものに浸った。
しかし、描いた絵も文も破り捨てられる。
悲しくはなくて、結局、所詮こんなものだと諦めた。
なのに…
「はる、どうした?」
混乱して問いかけた。そもそもこの家に来てからこの少年が話したのさえ、初めてなのだから。
「だって、あっくんの、きもちがっ……うぅっ… 」
年は12と聞いていたが、5つにも満たないのではないかと思うくらい言い方が拙くて、“この子は普通ではない”のだとわかってしまう。
けれど、それ故に彼の言葉はひどく真っ直ぐに心の中に入ってきた。そして、人はふとした拍子に救われることがあるのだと知った。
「ありがとう。」
秋人は泣いている少年の頭を撫で、その身体を抱きしめた。
どうかもう泣き止んでほしい。けれども泣いてくれてありがとう。
伝えたい思いは、心の中で呟いて。
抱きしめた小さな身体からは梅の花の香りがする。それがひどく心地良くて、秋人はその日初めて世界の中の綺麗なものに出会った気がした。
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