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「まな……」
なぜか泣きそうな顔でわたしを見上げるさゆに、「大丈夫だって。早く行こ?」と無理やり笑顔を作ってみせた、そのとき──。
「待って。ねえ、凛太郎の彼女でしょ?」
背後から、聞き覚えのある少し掠れた声がした。振り向くと、そこには「悟くん」が立っている。
「え?」
「まなちゃん、でしょ?俺、矢野悟。さっきのバンドね、全然あいつの趣味じゃないんだけど、俺があいつのベースの音に惚れ込んで無理やり引き入れちゃった」
「わたしのこと、なんで知って……」
「だって目立つもん、凛太郎とまなちゃんカップル。さっきもすぐにわかったよ。あそこに立ってると、最前列とかよりもちょい後ろの方が見えやすいんだよね」
5センチヒールのパンプスを履いたわたしと同じ目線、笑うと覗く八重歯に、少しえらの張った丸顔。まるで子犬みたいなその男の子──悟くんは、わたしの右手を取って両手でぎゅっと握ると、「俺も同じ経済学部だから、よろしくね」ととびきりの笑顔を向けてきた。
「う、うん……よろしくね」
握られた手を引っ込めようとしたけれど、さらに強く握られてしまった。「まなちゃん、意外と手ちっちゃいんだね。俺も男の中では小さいほうなのに」と笑うその顔からは、悪意が全く感じられない。
「近くで見るとやっぱり可愛いなあ、まなちゃん。凛太郎だけじゃなくて俺とも仲良くしてね」
じゃ、俺は撤収があるから行くね。悟くんはそう言ってパッと手を離すと、ステージに向かって走って行ってしまった。
──なんだか、嵐みたいな人だな。
握られた右手を眺めながら、呆然とそんなことを考える。わたしの悟くんへの第一印象は、その程度のものだった。
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