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──Side 凛太郎
人間という生き物は、あまりにも驚くとうまく声が出ないらしい。唇の右端に柔らかいものが触れたのはわかった。そうだ、留依さんの言うとおり、「唇はギリギリ外れて」いた。
──だけど、そんなことは問題じゃない。まなが見ていた。留依さんが、俺の唇の端にキスしたのを。
「……おい、マジでふざけてんのかよ」
悟の低い声でハッと我に返った。それは俺ではなく、特に悪びれるようすもない留依さんに向けられたもののようだ。
「なぁに、悟。ムキになっちゃって」
「本当に性格の悪い女だな。そんなにやりたきゃ、俺が相手してやるよ」
「なによ、それ」
「引っ掻き回すのはサークル内だけにしといたらどうです?まなちゃんは関係ないでしょ」
いまにも留依さんに掴みかかりそうな勢いで、悟が声を張り上げる。ドラムのヤスさんが、「まあまあ、悟。落ち着いて。留依ちゃんもちょっとふざけすぎ」と仲裁に入ろうとしたが、「ヤスさんは黙っててください」と悟に一蹴されてしまう。
「ねぇ、前から思ってたんだけど……悟ってわたしのこと、本当に嫌いだよね?」
「大嫌いですよ。今更ですか?」
悟はそう吐き捨てると俺のほうを向いて、「かわせよ、あんなキスくらい」と怒りを抑えたような声で言った。
大事にできないなら、やっぱり俺がもらう──悟からは、いつもの笑顔がすっかり消えている。一瞬だけ俺を睨みつけると、爆音が鳴り響く会場を出て行ってしまった。
だめだ、それは俺の役目なんだよ。あいつを追いかけるのは、彼氏である俺の──。
凛太郎、と可愛らしい声が俺を呼び止める。うんざりだ。どうして俺たちは、いつもこうなってしまうんだろう。
「留依さん、すみません。俺やっぱり抜けます。ベース、他の人当たってください」
留依さんの顔も見ずに言うと、人波をかき分けて入口のドアを勢いよく開けた。地上に続く階段は、蒸した生ぬるい空気で満たされていた。
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