祓魔師 -エクソシストー

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「それでは除霊を開始致します。  お母様は隣室で、お待ち下さい。」  神父は少年の母親に、そう促した。  母親は心配そうに少年を見てから部屋を出る。  神父は静かにドアを閉めた。  部屋には蝋燭が燈されたランプが鈍く輝くのみ。  それ以外の灯りは薄いカーテンから差し込む外の町灯りだけである。  物音は少年の寝息の他は何も聴こえてこなかった。  少年の寝顔は可愛らしいもので何も異常は感じられない。  しかし神父は只ならぬ気配を感じ取ってはいた。  少年の母親が退室してからは明らかに室内の空気は変化していた。  神父は首から下げている十字架を手にして祈り始める。  その途端にドアのロックが掛かる音が小さく響いた。  かちゃり。  だが母親が隣室から出て来た気配はしていない。  神父の緊張は増した。  窓の鍵が下りる音もした。  この部屋は明らかに何者かに密閉され始めている。  静けさが部屋に充満する。  神父は少年の寝息が聴こえていない事に気付いた。  それでも聖書を唱え続ける。  部屋の温度が下がり始めている様な気がしていた。  神父は自分の息が白い事に驚く。    …寒い。  寒気がしている。  突然、少年の口から声が聞こえた。  小さいが明らかに女性の声であった。 「…レオ、レオ。」  その声は知っている筈の無い神父の名前を呼んだ。  神父は何者かが、その少年の言葉を借りている事を知る。 「レオ、久し振りね…。」  それはかつての神父の恋人の口調に似ていた。  神父が信仰に入る以前の恋人である。  彼女は神父との結婚を諦めて去って行ったのだった。  その頃の神父は子供を作る事を拒んでいたからだ。  神父の家系では代々、父と子で争ってきたのである。  祖父と父親は家の財産を巡り絶縁していた。  父は仕事らしい仕事をせずに酒と賭け事ばかりしていた。  そして母親に暴力を振るっていたのである。  神父は抵抗したが子供の非力ゆえに叩きのめされていた。  しかしハイスクールを卒業する頃になると立場は逆転する。  肉体的な優位性が入れ替わったのだった。    或る日、母親に暴力を振るおうとした父親を打ちのめした。  気絶するまで馬乗りになって殴り続けたのである。  倒れて動かない父親の止めを刺そうとバットを持ち出す。  その時に母親に泣きながら止められたのだった。  人間の本質と家族制度の空虚さを知り尽くしてしまった。  子供を欲しいと思わないのは無理もない。  だが恋人にしてみれば恋愛のゴールは結婚であった。  幸福な家庭を築きたかったのである。  そうして、いつしか彼女は彼の元を去って行った。  神父は思った、これは…彼女の言葉を告げている。  彼女は既にこの世の人ではないのだろうか…?  入信してからは彼女の消息を聞かなくなっている。  幸福な結婚生活を送っているとばかり思っていたのに…。  神父は動揺してしまった。 「ジュ…ジュディ…、本当に君なのか?」  目を閉じたままの少年が返答する。 「そうよ、レオ。  思い出してくれたみたいね…。」  思い出すどころの話ではなかった。  神父に取っては一番の後悔であり苦悩でもある。  時には信仰心に勝る事もある程に。 「君は、もう天国の住人なのか…?」 「知らなかったのね…。」  神父の心は張り裂けそうになっていた。  自分が幸福にしてあげる事が出来なかった彼女が…。  もう既に亡くなっていたなんて。 「あなたを責めたりはしないわ。  覚えていてくれただけで満足よ。」  優しい言葉が余計に神父に突き刺さってくる。  彼は祈りの言葉を唱え続けられなくなっていた。  十字架を握りしめて苦悩した。 「もう、こんな事は止めて家へ戻って…。  もし私の写真が残っているなら飾って欲しい。」  レオは神父になった時に彼女の写真は故郷に送ってしまっていた。  ただ数枚を残して。  その残した写真には彼女の他に彼の大切な思い出が写っているからだ。  彼と彼女と一緒に暮らしていた大切な仲間。  選択する事が出来る家族以上の存在、彼女が名付け親の猫。  皆が一緒の写真だけは今でも残しているのだった。  十字架を固く握りながら神父は在ることに気付いた。  ジュディは本当に亡くなってしまっているのだろうか?  今、少年の口を借りているのが本当に彼女なら…。 「ジュディ…覚えているかい?  あの可愛い黒猫を。」 「もちろんよ。」 「一緒に暮らしていた彼女を。」 「忘れる筈なんて無いでしょ…。」 「じゃあ彼女の名前も覚えているよね…?  何て呼んでいたか言ってみて。」 「…。」  その神父の質問には返答が無かった。  ジュディを名乗る言葉は沈黙し、その少年は寝息を立て始めたのである。  神父は十字架に対して祈りを捧げた。  そして再び聖書の御言葉を唱え始めたのである。 「神よ…悪魔に惑わされてしまいました。  お救い下さり、ありがとうございます。」  室内の温度も上がった様である。  或る境界から、そっと現実に戻ったのであろう。  神父が恋人を語る存在に投げかけた質問。  黒猫の名前を何故、答えられなかったのか。  ジュディが名付けた黒猫、名前はマリア。  偶然にも聖母と同じ名前だったのである。  邪悪な存在は主と聖母の名前は避けると教えられてきた。  正に神の御言葉の通り。  神父はより深く強く神への信仰を誓ったのだった。  静まり返った室内に少年の寝息が小さく奏でられている。  こんな少年に何故、邪悪な存在が憑依しているのだろうか…?  だがこれで元に戻ってくれれば良いのだが。  神父は祈りを中断して少年の寝顔に囁いた。 「おやすみ、ジュディ。」
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