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高校三年のとき、友人が「バレンタインデーなのに彼が会ってくれない」と泣きついてきた。付き合っている彼のひとりもいなかった私は、めんどくさい話だと思ったが、手作りチョコを抱えて泣いている彼女があまりに不憫で協力することにした。
雪が降る夕方、今ではほとんど見ることのない電話ボックスに入って、彼の電話番号を押してやった。
当時、携帯電話を持っている高校生は少なくて、押したのは自宅の番号だった。なぜかすいすいと指が動いて、懐かしい感触がよみがえってきた。
知っている番号だった。小学生の時も、中学生の時も押した例の番号――
「はい、もしもし」
電話に出たのはあの彼だった。当時の友人たちに押し切られて無駄に電話をかけてはまともに会話もできなかった、そして三度もチョコレートも渡せなかった彼だった。
「あの……私、東谷さんの友だちの溝上って言いますが」
「……溝上?」
緑色の大きな受話器に耳を押し当てて彼の声を聴いた。鼓膜の奥で心音が爆発しそうな勢いで鳴っている。
友人にドンと背中を押されて、あ、しまった次は私が話す番だったと思った。
「えーと……あなたの彼女さんが会ってほしいって言ってるんで、会ってやってくれません?」
「……はあ?」
もっともな答えだと思った。私だって自分が何を言ってるのか理解できない。涙目になった友人がぐいぐい押してくるので、ひるまず口を開く。
「だから今日はバレンタインなんで、チョコを渡したいってことです」
「……俺、今日は予定があるから会えないって言ってあるけど」
手で受話器の口を塞いで「予定あるって言ってるけど」と友人に言った。彼女は「そんなの知ってるよ!」と声を上げる。私は「はあ?」と言いたくなるのをこらえて、場を丸く収める手段を考えた。
「明日になったらチョコが腐っちゃうかもしれないし、受け取った方がいいと思いますけど」
「何言ってんの? チョコが一日くらいで腐るわけないだろ。ていうか溝上って言ったよな。そのしゃべり方、やっぱり中学一緒だった溝上?」
思わぬ返答に息を飲んだ。友人がしきりに彼の返事を聞いてくるが、心音がうるさくて何も考えられなくなる。
あなたに三度もチョコレートを渡せなかった溝上です――とは言えず、私は生唾を飲み込んだ。
「なんでおまえが電話してくんの?」
全くその通りだと思った。数学は学年一位だった彼の理路整然さは失われていない。なぜ電話をしなければならないのか私も不思議で仕方ない、と考えながら受話器を見つめた。
「ちょっとー、彼、なんて言ってるの?」
さっきまで半泣きだった彼女がぷりぷりと怒っている。怒られているのは、バレンタインデーに会ってくれない彼ではなく、渡す相手もいないこの私だ。
妙に重たく感じられる受話器を再び耳に当てて、なぜ私が電話をしているのか考えた。
「友人として当然のつとめかと」
ぼそりとつぶやくと、彼は吹き出した。電話口のむこうで盛大に笑い始める。
「どうして笑うの」
「面白すぎだろー。おまえのそういうクソ真面目なとこ、ぜんっぜん変わってないのな」
彼の声のトーンが、友情モードに切り替わった。「彼女の友人」ではなく「中学時代の同級生」に対する話し方になっている。受話器越しなのに耳を当てている彼の熱がすぐそこにあるようで、体温が上がっていく。
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