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Polar Day, Polar Night(1)
昼夜の境がなくなる度、人間のサーカディアン・リズムは狂いがちになる。体調を崩す者や、尋常じゃない精神状態になる者も少なくない。
旅行者だってそうだ。この地域はオーロラが美しいことで有名で、世界中から観光客が見にくるが、多くの人が太陽と地球の関係性に振り回された挙げ句、脳に混乱をきたし、身体のコントロールも次第に利かなくなっていく。
けれども俺は幸運なことに、フィジカルな面でもメンタルな面でも強いようで。
4000グラム超でこの世に産まれ出ててから44年の月日が流れたが、すくすく育ち、何の問題もなく生きてきた。
決め手は規則正しい生活。お星様の都合に合わせちゃいけない。自分のリズムを崩さないこと、それがこの街で生活するための第一ステップだ。
*
土曜日、午前10時30分。
いつものように俺は、病室のドアをノックする。
──返事がないと知っていても。
静かにドアを開ける。病院の独特な──薬品と、体臭の混じった匂いが漂う。
極夜の時期が近いこともあって、まだ病室の中は暗い。生命維持装置のパネルの光が存在を主張し、規則的な心音のリズムを響かせている。
電気を点けると。何本もの管で維持装置に繋がれ、ベッドに横たわったままの弟が、うんともすんとも言わずに俺を出迎えてくれる。
「いい加減に起きろ、エーリク」
エーリクの唇はピクリともしない。
「お前がいないと、漁をするにも大変なんだ」
口に太い管が通されているから、例え意識があっても話せるはずがなかった。
奴が元気だったときは、よく生意気な睨みを寄越してきたものだが。目蓋も固く閉じられたままだ。
この状態に陥ってから、そろそろ二年が経つ。昏睡状態から回復する様子がない。
掛布に投げ出されたエーリクの手を握る。やせ細った手。腕にも管が刺されて──本当にこれで生きてるのかって疑いたくなってくる──。
一つ、ため息をつく。
枕に散らばる長い金色の髪──伸びすぎてるから切らないと。髭と爪もだ。
コールで看護師を呼んで、専門の理髪師を手配したい旨を伝えると、彼はためらいがちに、
「ハンスさん。ドクトルがお話があるそうですので、ちょっと待っていただけますか」
と言った。
ドクトルが何を伝えようとしているのかは、聞かなくても分かる。これまでも何度か、同じ話をされていたから。
俺は断りの言葉を呑み込んで、看護師が去った後もドクトルを待った。窓際に立ち、外を見る。東から登ろうとしている太陽の光で、空が少し明るくなっていたが、夜明けには程遠い。
1分ほど経ってから、Dr.イーダ・リーが現れた。青緑色のスクラブスーツに、白衣を重ね着している。エーリクの長期入院のせいで、彼女とは長い付き合いになりかけてる。少し疲れたような顔で俺に笑いかけてきた。
「ハンス・ストランさん、お待たせしてすみません」
「ドクトル、先に言っておくが……弟の生命維持装置は外さない」
先手を打って俺はそう伝える。何度も繰り返してきたことだった。だが、
「いえ、その話ではなく……ちょっとお伺いしたいことがあって」
「……?」
予想に反して彼女は、いつもと違うことを話したかったらしい。
「最近、身の回りで変なことが起きたりしませんでしたか?」
「〝変なこと〟って、例えばどんな?」
「例えば、誰かからエーリクさんを院外で見たと言われたり」
「……?」
「ハンスさんご自身が、エーリクさんのドッペルゲンガーを見た……とか」
「…………は?」
なんだ、そりゃ。
質問の意図がつかめず、
「そんな妙なもの、見るわけないさ。何だってそんなこと聞くんだ?」
と言うと、
「……そうですよね、変なことを言ってすみません。お手数をおかけしました」
彼女は特に説明もしようとせずに、そそくさと立ち去っていった。
腑に落ちないままエーリクを見やったが、相変わらず奴は眠っている──。
*
病院を出て、苛立ちを隠せないまま毛糸の帽子をかぶり、雪に覆われた街なかを歩く。
彼女は優秀な医者だと思っていたが……今日はなんだか様子がおかしかった。ストレスでも溜まってるのか?
そろそろ夜明けの時間が近づいていて、朝焼けで空が赤く染まる光景が美しい。
除雪車が最後の仕上げというように、道路端にうず高く雪を積んでいく。
マーケットで、昼飯の具材でも買って帰ろうかと考えていた。
────その時。
「ここにいたのか、ハンス」
後ろから手首を摑まれた。振り返ると全く知らない──高そうなコートを着た30代くらいの、黒髪の男が馴れ馴れしく微笑みを浮かべていた。
「急に消えたから探したよ、どうしていなくなったんだ?」
「は?? いやいやいやお前なんか知らねえよ」
「あれ、人違いか……? 服装もさっきと違ってダサくなってるし……」
「だから知らねえって、手を離せ!」
「でもハンス……だよな? ここに変わった形の痣がある」
男が俺との距離を急激に詰めてきて、帽子を脱がせ、俺の右耳の後ろに指をかけ──ようとしたところで、俺は男の左頬に拳を食らわせた。
「触るなこの変態野郎が!!」
硬いブーツの靴底で腹に蹴りを入れ、男が体勢を崩したところで、俺はその場から全速力で走って逃げた。
息切れを起こし、雪に足をとられながらも、かなり離れたところまで来て──男に帽子を取られたままだということに気がついた。
右耳の後ろの痣──それは生まれつきのもので、蝶の形をしているからよくエーリクにからかわれてた──。
クソッ、今日は一体何だっていうんだ?
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