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バケモノの幸せ
時間の流れすら止まるのではないかと心配してしまうような、そんな凍てつく夜のことだった。
そんな極寒のなかでも私の狭い額には大粒の汗がたまっていた。地面に穴を三メートルほど堀り、ブルーシートに包まれたソレ埋める作業は、小柄な女の私にとってはひどく骨が折れた。
私は胸の高さほどある鉄製のスコップを墓標に見立てて掘り終えたばかりの柔らかい地面にザクりと突き刺すと、顔を空へと向けた。天上には頼りない形の月と、誰かが無理やり引き裂いたような雲が淡く広がっている。その雲の合間にいつの時代のものかもわからない星々の光がチカチカとはっきり輝き、そうかここは山頂に近いのだったのだなと思い出した。
振り返れば不幸な人生だったなと思う。
いや現在進行形で不幸か、と不用意に口角をつりあげた。
だって私は人殺しのバケモノになってしまったのだから。
今までの人生経験からいって幸せは連鎖しないが、不幸というのは往々にして続くものだというのが私の哲学だった。
そしてそれは現在にもあてはまり、なぜならば帰りのまだ山中だというのに私の車は故障した。自慢じゃないが私は機械に疎い。山頂付近に埋まっている彼は詳しかったが……。
もちろん保険には入っていたが、殺人を犯した帰り道で助けを呼ぶほど私は混乱していなかったし、馬鹿でもなかった。
「彼とここで一緒に死ぬことが、たったひとつの幸せになる方法ってことなのかもね」
ボンネットにもたれかかりながら、自らの言葉で白くなる目の前の世界をじっと見つめた。
贖罪。私はまともな人間のつもりだ。殺人が罪であることを知らないわけでも理解できないわけでもなかった。すくなくとも、あの世間を賑わしている連続殺人事件の犯人、シリアルキラーとは違う。殺したいから殺したのではなく、私はただ彼を殺す必要があっただけだ。
「……でも、もうちょっとくらい逃げて生きる権利はあるよね」
自分を納得させるだけにつぶやき、そして権利というよりはただ義務的に私は歩き始めた。
殺人犯の義務というのは正義の手から逃げ切ることだろう。
夜の声はいつでも後ろから私の肩をたたく。私はそれに気づかないふりをして生きていく。ただそれだけだ。
冬の山中を、それも夜道を歩くといえば絶望的に聞こえるが、私は十分に着込んでいたし食糧も多少はある。数時間待てば夜も明けるわけだし、けものみちというわけでもない。おあつらえ向きに多少は整備されているのだ。車だって通れるくらい。だから、どうにかなるさ。くらいには思っていた。
そしてそれは私が犯した罪についてだってそうだ。
なんとかなる。ならないはずがない。根拠はある。
連続猟奇殺人事件。
そんな今どき小説のなかでも流行らないことが世間を騒がせていた。もちろんその犯人は私ではない。私は初犯で、これ以上殺人を犯す気なんてさらさらない。
そう、賢しい私は連続殺人事件を盾にしようと考えた。
慎重に調べ上げた情報によると、この連続殺人事件の特徴は、特徴がないことだったのだ。
殺された被害者の性別、年齢、外見、職業、趣味、家族構成、エトセトラ。なにからなにに至るまでバラバラだった。
私はそれを利用しようと考え、すぐに実行した。
だって私が殺した彼。彼はまだ殺されたことのないタイプだったからだ。それが彼が殺される理由。そういう筋書き。
そんなことを思いながら私は歩く。
犯した罪を引きずって――いや、罪に引きずられて、私は歩く。
「……まじかあ。やっぱり無理だったぽいかなー」
身体が悲鳴をあげ始めたのは、車が故障してからたったの一時間後のことだった。足の感覚はなくなり、思考は停止寸前だった。
神様ってのいうなにかが本当にいるとして。
やっぱり天罰なのだろうか。
私は動かし続けた足を止め、道のど真ん中でごろんと大の字になった。この踏み固められた土で構成されている道の幅は二メートルくらいだろうか。――私が掘った穴ってこの幅より広かったんだな。頑張ったぞ、私。うん。
しかし、さて。
いろいろな死に方があるがまさか凍死するとは思ってもみなかった。
「かといって、私が殺した彼も山中に埋められる最期だと思っていなかっただろうなあ……」と苦笑した。
私、ピンチっぽい。というかもうおしまいだ。
初めてたばこを吸うときみたいに、すうっと深く肺に空気を入れた。冷たいを通り越して痛い。
まぶたを閉じる。
――そりゃまあ、悪は裁かれるってことで。
そのときだった。
まぶたに光を感じた。お迎えの光だろうか? そうか私はこれから地獄のバケモノたちに焼かれるってところか。
来るなら、こい。
「あの……やっぱり人だ。大丈夫ですか?」人間の声。
私はなんとか上体を起こし、同時に目を開けた。そこには地獄のバケモノではなく、みるからに人の好さそうな男性がたっていた。
「いやあ、こんなところに歩いてくるなんて。自殺行為ですよ……。たまたま僕が車で通りかかったからいいものの、ね」片手でハンドルを操作しながら男性が言った。見た目は三十代半ばといったところか。落ち着いている。まさか山中で拾った殺人鬼を車に乗せた挙句、温かいお茶を飲ませたとは思っていないのだろう。私の体はお茶のおかげでなんとか温まってきた。
「はあ。私もそう思います」私は慣れない助手席であいまいに答えた。
車で来ていたことは黙ることにした。車の中にはまだ物的証拠が残っている。車まで戻るのはひとりでなくてはならない。近くの町の駅で降ろしてもらい、落ち着いたら車を取りに行けばいい、そう思った。そうすれば、逃げ切れる。この男に殺人が露見しなければそれですべて問題なし。私は普通の生活に戻ることができる。なに、簡単なことだ。私にならできる。
男がいう。「にしても、こんなところで何をしていたんです? ……っていうのは聞かないほうがいいですかね? なんか訳ありっぽいし」
もう聞いているじゃないの。
私は心の中でツッコミを入れながら、人懐っこい感じのこの男が、埋めてきた彼とダブって見えた。私が何と言おうか迷っていると、
「おっと、すみません。怖いなあ、眉間のしわが三重奏してますよ?」
どうやら私はしかめっ面をしていたらしい。殺した彼を思い出していたのだから当然ともいえる。
「――かわいい顔が台無しだ。せっかく幸運だったんですから、もっと楽しく行きましょうよ。笑顔、笑顔」
「……は? 幸運? 私が?」
「そうですとも。幸運ですよ。ラッキーなんですよ。だって死ぬところだったかもしれないんですよ」男の目が本当に楽しそうに笑った。こういうのを無邪気っていうんだろう。
なるほど、たしかに私は、とどのつまり幸運だったのだ。
死なないで済んだ。
そればかりではない。このままなんとか逃げ切れそうな雰囲気じゃないですか。
なにも人間不幸ばかりではないらしい。
「そうですね……。助けて頂いてありがとうございます」
「あ、いえ、とんでもない。無理やりお礼を言わせてみたいで嫌だな。違うんです。僕はね、思うんですよ。人生において、幸せと不幸せは同じ分だけやってくるとか、つり合いがとれるようになっているとか、そういう話ってあるでしょう?」
……どうやらこの男はおしゃべり好きらしい。私はこの男に話を合わせることにした。下手に自分の話に火の粉が飛んできてもたまったもんじゃないし、小さな町につくまであと三十分もかからないだろう。それまで話し相手になるのも悪くはない。
「……ええ、ありますね。それがなにか?」私はなるべく平坦な声で言った。
車は山道を走る。どうやらこの男はこの山に慣れているようだ。さきほどから道を降りるばかりではなく登っている。きっとこのほうが町まで早道なのだろう。
男はふっと息を吐いて、「そんなのはね、嘘っぱちだと思うんですよ。幸せな人はずっと幸せ。不幸なやつはずっと不幸。そんなものじゃないですか?」
ほう。私は感心した。
さきほどまで私が思っていたことと似ていたからだ。
「そうですね。……では神様なんていないと?」
「それはどうでしょう。面白い議題ですね」男は愉快そうだ。
「私も不幸だけは連鎖する。そう思っていましたが……」
「……が?」男は首をかしげた。
「あなたが言ったように私は不幸であり、幸運でもありました。それってやはり塞翁が馬なのでは?」私は彼に弓を引いた。話を盛り上げるための反論だ。
「なるほど。たしかに貴女は道に迷って困っていた。でも僕が発見した……。では、そうですね。パスカルの賭けって聞いたことあるでしょうか」
藪から棒に。
「パスカルってあの……ヘクトパスカルとかのパスカル?」
私は機械もそうだが化学にも疎い。
「ええ、そのパスカルさんですよ。べつに博識ぶりをアピールするつもりでもなんでもないんですがね……そのパスカルさんが言い出したパスカルの賭けって考え方がありまして」
私は黙って聞いた。町まであと二十分くらいか?
「――で、そのパスカルの賭けっていうのはね、『神様はいます! って考え方に賭けてもなにも失うものはないし、かえって生きる意味が増す』っていう話なんですよ」
なんだそれ。私はそう思った。
馬鹿じゃないのか。論理もへったくれもないじゃないですか。
「僕もそう思いますよ。でもね、『パスカルの賭け』も一理あるなとも。……例えば、あの連続殺人事件。さすがに知っていますよね。被害者と呼ばれる人たちは死ぬほど――この場合文字通り『死ぬほど』ですね――不幸なことにつり合う、そんな幸運なことなんてあったのでしょうか」
まさか殺人事件の話に繋がると思っていなかった私は崖から落ちるようなヒヤッとした気分になって、早口になる。
「ない……でしょうね。殺されていいほどの幸運なんて想像もつかないですし……そもそも殺されていい人なんてこの世にいないと思います」
どの口が言うか、と私は自嘲する。
「なるほど。そういう意見もありますね。無条件で不幸になっていい人間などいないってね。でも実際のところ不幸になる人はいる。一般常識として、現実問題として、ただただ不幸になる人がたくさんいる。そうじゃありませんか?」
「……なにが言いたいんですか」
私は伏し目がちにいった。
「そんな不条理な世界で、神様の存在くらい祈ってもいいでしょう? ってことですよ」
「ずいぶんとロマンティックなんですね」
「幸せか不幸せで言えば」男は私を無視していった。
「――ご存じですか? あの殺人事件は被害者の特徴がバラバラのわけです。例えば私のように四十代前半の男性は殺されたことなければ、貴女のように――二十代前半でしょうか――のきれいで小柄な女性も殺されていません。いわば次に標的になるのは自分かもしれない……そうでしょう?」
四十代前半だったのか。若くみえる。
「すみません、どういうことでしょう」
「ではわかりやすく言いましょう。今回ただただ不幸になるのは貴女で、私は幸運だったっていうお話なんですよ。ただそれだけのことです」
だからそれはどういう――。
と私は言いかけて、言えなかったらしい。
呂律が回らない? ――いや、まぶたが重たい……。
どうやら私は眠りについてしまったようだった。
――さて、着きましたよ
遠くから声がしたような気がした。
私は接着剤でもつけられたかのように重たい瞼を無理やり開けた。私はまだ助手席に座っているようだ。車は止まっていて、男はいない。どこだ――。私は辺りを見回す。そしてわかった。
ここは…………町……じゃない?
どういうことだろう。そこには私しか知るはずのない景色が広がっていた。
まるで墓標のように、スコップが地面に突き刺さっていた。
力が入らない。
ぼうっとする頭をなんとか働かせ、ようやく私は気がついた。これは疲れなんかじゃない。
あのお茶――。
一服盛られたのだ。
「僕は幸運でした」先ほどの話の続きですがね、と男は薄暗闇で笑った。夜が明けかけている。
だからなにが、という言葉もでない。全身が気だるい。
助手席のドアが開いた。男が私を地面に放り出す。
「見つからなかったんですよ、ちょうどいいお相手が。たとえば単発の殺人って意外と簡単なんですよね――。ほら、貴女がやったみたいに」
男はスコップの方をみやった。
「――見つけましたよ、途中で。貴女の車を。中を調べさせてもらいましたがね、出てくる出てくる、殺人事件の証拠が。僕にはすぐわかりましたよ、これは殺人だって。だって僕は貴女の先輩であり、キャリアが違うんですからね。テレビのニュース番組なんかでは『バケモノ』だなんて呼ばれました。笑っちゃいますよね。同じ人間だっていうのに。……ただねえ、被害者の特徴をバラバラにするってアレ。アレは結構難しかったんですよ。だって対象がどんどん縛られていくんですからね。そこで貴女だ。私は貴女に聞きました。『にしても、こんなところで何をしていたんです?』ってね。それが普通じゃないですか? 貴女は思わなかったんですか? 僕がこんな夜中に、ひとけのない山中でなにをしていたのかって。こういうのを類は友を呼ぶっていうんですかね。ふふ――。なんか違う気もしますが……。まあなんでもいいでしょう。あのまま弱っていく貴女を見ていてもよかったんですが、それでは殺人ではなく事故になってしまいますよね。ですからただ僕のキャリアのために――、これから貴女を殺します」
ああ、そういうことか。
長いおしゃべりのおかげで私の頭はいくらか正気を取り戻していた。
男が私にゆっくりと迫る。
抵抗など、いまさら無意味だ。
する意味もないし、する価値もない。
私は最期のときを待ちながら思った。
目の前の男は幸運だったのだという。
さらに男がいうには、私は不幸だったのだという。
もし私がこの男と出会わず逃げ切ることができたら、その私は幸せだったのだろうか。
いや、いまこうして男に断罪される方が、幸せなんじゃないのか?
――果たして私は幸運だったのだろうか、不幸だったのだろうか。神様がいるなら教えてほしい。
私は無表情なスコップを見た。
登りかけている朝日が男の背中を照らし、私はその影に覆われた。
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