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【 9 】
「 …… 呉の第四貴妃様 …… ? うーん、ええ、それも素敵ですけれど …… 」
幕舎の中では、気乗り薄な嶺鹿の生返事が延々と続いていた。
髪を結う事には応じたものの、どこの誰を元としてどういう髪型にするかの注文が決まらず、どんな例を出しても一向に煮え切らない。 皇后、姫、伝説の美女の名を次から次へと並べ立てていく鄭欣の知識と忍耐も、そろそろ終点に近付いていた。
足元の羊毛絨毯の上ではまず英璉が、次には猛犬カラッシが力尽きて眠りに落ち、ついには当の嶺鹿までが小さな欠伸をしだす始末。
誰を選ぼうが適当に結うのだから同じ事だ、と真相を明かしたくなる気持ちを、鄭欣は苦労して抑え込んだ。
「では、決め方を変えましょう。 今度は嶺鹿様から、ご希望の例をお出しください。 憧れ、理想とする女性像です。 そのお言葉を参考に、私が該当しそうなお方を見つくろって差し上げます」
何を言い出そうと、どんな望みだろうと架空の美女を口から出まかせで一人でっち上げてしまおう、と鄭欣の頭脳は全力で働こうとし始める。
「あ」
高椅子と絨毯の間でぶらぶら遊んでいた嶺鹿の履先が何かを見つけたようにぴたりと止まって、背筋に重心が戻って来る。
「その方が早そうですね。 それに、ちょっと楽しそう」
頬杖を外した嶺鹿は眼を閉じて首根を起こした。 軽く上を向いてちょっとの間だけ考えてから、誰にともなく話し出す。
「憧れ …… 」 微かに挟まれる、遼俄の息音。「 …… 理想」
「そう …… そうね、まず …… まず、『その女性』は特に偉くなんかないわ。 頭も良いわけじゃない。 普通なの。 家も平凡で、部族の長でもない。 父と母がいて、英璉がいて、カラッシがいて、馬と羊が何頭かづつ。 私と一緒に大きくなった芦毛の雌馬がいる。 朝に父が草原までカヤスミレの育ち方を見に出かけて、母は家事を切り盛りする。
私は水を汲みに行ったら妹の面倒を見て、時々両親の手伝いをしたりする。 でも、偶にはそれが面倒になって、そう感じたら怠けるの。 怠けちゃう、面倒だ、って。 そして叱られる。 近所には友達が住んでいて、好きな子も嫌いな子も同じくらいいる。 働いたり怠けたり、笑ったり怒ったりして …… そして気がつくと、もう夕方だわ。 陽が沈む頃に家に帰って、みんなそろって …… 顔を合わせて、その日一日を振り返る。 疲れたね、って。 お腹すいたねって」
そんな毎日が続くだけでいいのです …… 少女はそこまで話すと、その言葉の中で暮らすために黙った。 ずっとずっと黙った。
やがて目蓋を開いた姫君は、夢見るように鄭欣にささやく。
「叶う理想かしら?」
彼女が質問しているのは自分にではない、と鄭欣には分かっている。 彼女は、世界すべてに対してその問いを発しているのだろう。
そしてその夢は、鄭欣を怯ませるに十分だった。
この娘はおそらく、部族に中原の箔を付けるためというくだらない理由のために政略結婚をする事など望んでいない。
「 …… それは」
鄭欣はかすれた声で、数回息をついてから、やっと返事を絞り出した。
「それは、髪結いごときがお答えできるご下問ではございません」
その返答は明らかに相手の望んでいたものではなかった。
「ですが私、今のお言葉に沿う髪型ならば存じております」
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