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 揺れている。  空気の流れに乗っているだけだった(かす)かな振動が、少しづつ寄り集まって絨毯(じゅうたん)から足の裏へ伝わり始めると、それはすぐに地鳴りに近い低音へと成長して鄭欣(ていきん)の耳に入った。  着光の時間稼ぎのため、すでに()い終わった嶺鹿(れいが)の髪周りを無駄に動いていた(くし)を持つ手が、ふと止まる。  この音と揺れは……。 「をしてるの」  見上げる英璉(えいれん)が詳しく聞き返される前に、背後に立つ鄭欣へ向けて嶺鹿が説明を補足する。 「遼俄(りょうが)の宿営地では何日か置きに羊の群れを分割して、前後左右を(じゅん)()りに入れ替えるんです。時々そうしないと、新しい草を多く食べられる前方の群れだけが太ってしまうので」  振動には強弱があった。うねりの大きな時には、中身の入っている茶碗を卓から浮かせ持つ必要があるほどである。 「なるほど、これは凄い。音を聞くだけでも壮々たるものですね」  幕舎(オルド)の周囲で、(おびただ)しい数の羊が(うず)を巻くように動き続けている。  地面もまた(しず)まる気配なく揺れていた。この揺れはどこまで大きくなるのか、念のため鄭欣が聞いておこうとした丁度(ちょうど)その時だった。ガタリという音とともに針穴像(しんけつぞう)の仕掛け木箱が、絨毯の上で(はず)むように揺れた。折り開き式になっている(きゃく)部の一本が振動に負けて支えから外れ、(もろ)くも安定が失われてしまう。 「いかん!!」  腕を伸ばした鄭欣が駆け寄るよりも早く無情にぐらっと傾いて、木箱は絨毯の床に激しい勢いで横倒しになった。  衝撃で外板がずれ、中の月光蘭(げっこうらん)の葉先がわずかではあるものの隙間の奥に漏れ見えている。 「しまった……!!」 「どうなさったのですか?!」  ただごとではないと察して声を掛けた嶺鹿に返事もせず、ただ一心に箱へ身体を覆い重ねる鄭欣の動作の目的を、少女は瞬く間に直感した。  何故(なぜ)なのかは知らないし、少し馬鹿げているようにも思えるけれど ─── 「カラッシ!」  指差す嶺鹿の命ずるまま犬はひと跳びして、天蓋(てんがい)を開けている支え棒を(くわ)え取った。光取りの(ふた)が落ちると同時に真上から差し込んでいた陽光が遮られて、幕舎は急に薄暗くなる。  さらに妹と力を合わせ床敷から絨毯だけを(まく)り上げた嶺鹿は、その鮮やかな色重ねの厚編みごと、箱を守る髪結い目がけて網打ちの要領でばっさり折り被せた。 「…… 光がその箱に差し込むとまずいのですね」  暗がりの中でほっと息をつく鄭欣に、しゃがんだ嶺鹿は心配そうに問いかける。 「理由は分かりませんけど、…… そうなのでしょう?」 「そ ———— そうです、はい。…… はい」  間一髪(かんいっぱつ)だった。 「白髪染めに …… 使う染料が …… 、光に当たりますと、すぐに質が悪くなってしまうので ─── お気遣いいただいて、ありがとうございます」  さすがに嘘も途切れとぎれだが、安堵(あんど)している鄭欣のほっとした表情が、その場を囲む姉妹と犬の緊張を解いていく。 「あと少しで、仕事が台無しになるところでした。本当に、ありがとうございます」  それは振動する床の上にうずくまる鄭欣の、心からの本音だった。      ◇   「おそらく大丈夫です」  たっぷりと時間を使い、黒布を何重にも巻きつけた木箱を抱えた鄭欣が、幕舎の出入り口で恩人一同に向き直る。 「箱に隙間ができたのはほんのわずかな時間でしたので、急いで帰って作業を行えば、えー、つまり、その前提で手直しをいたしますれば、かかる事態は十分収拾できることでしょう」  「?」 「?」 「?」  何のことだろう、と嶺鹿たちは不思議さの中で(そろ)って首を(かし)げるものの、まあ悪い別れ方というわけではない。なぜかこの場にいる誰もが満足している。 「さて皆さま、私はそろそろお(いとま)させていただきます」  万感の思いで髪結い鄭欣は最後の一礼をささげた。 「皆さまにお目にかかれて、大変光栄でございました。また、大変お世話になりました。一生の思い出でございます」
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