11人が本棚に入れています
本棚に追加
【 11 】
揺れている。
空気の流れに乗っているだけだった微かな振動が、少しづつ寄り集まって絨毯から足の裏へ伝わり始めると、それはすぐに地鳴りに近い低音へと成長して鄭欣の耳に入った。
着光の時間稼ぎのため、すでに結い終わった嶺鹿の髪周りを無駄に動いていた櫛を持つ手が、ふと止まる。
この音と揺れは……。
「くるくるをしてるの」
見上げる英璉が詳しく聞き返される前に、背後に立つ鄭欣へ向けて嶺鹿が説明を補足する。
「遼俄の宿営地では何日か置きに羊の群れを分割して、前後左右を順繰りに入れ替えるんです。時々そうしないと、新しい草を多く食べられる前方の群れだけが太ってしまうので」
振動には強弱があった。うねりの大きな時には、中身の入っている茶碗を卓から浮かせ持つ必要があるほどである。
「なるほど、これは凄い。音を聞くだけでも壮々たるものですね」
幕舎の周囲で、夥しい数の羊が渦を巻くように動き続けている。
地面もまた鎮まる気配なく揺れていた。この揺れはどこまで大きくなるのか、念のため鄭欣が聞いておこうとした丁度その時だった。ガタリという音とともに針穴像の仕掛け木箱が、絨毯の上で弾むように揺れた。折り開き式になっている脚部の一本が振動に負けて支えから外れ、脆くも安定が失われてしまう。
「いかん!!」
腕を伸ばした鄭欣が駆け寄るよりも早く無情にぐらっと傾いて、木箱は絨毯の床に激しい勢いで横倒しになった。
衝撃で外板がずれ、中の月光蘭の葉先がわずかではあるものの隙間の奥に漏れ見えている。
「しまった……!!」
「どうなさったのですか?!」
ただごとではないと察して声を掛けた嶺鹿に返事もせず、ただ一心に箱へ身体を覆い重ねる鄭欣の動作の目的を、少女は瞬く間に直感した。
何故なのかは知らないし、少し馬鹿げているようにも思えるけれど ───
「カラッシ!」
指差す嶺鹿の命ずるまま犬はひと跳びして、天蓋を開けている支え棒を咥え取った。光取りの蓋が落ちると同時に真上から差し込んでいた陽光が遮られて、幕舎は急に薄暗くなる。
さらに妹と力を合わせ床敷から絨毯だけを捲り上げた嶺鹿は、その鮮やかな色重ねの厚編みごと、箱を守る髪結い目がけて網打ちの要領でばっさり折り被せた。
「…… 光がその箱に差し込むとまずいのですね」
暗がりの中でほっと息をつく鄭欣に、しゃがんだ嶺鹿は心配そうに問いかける。
「理由は分かりませんけど、…… そうなのでしょう?」
「そ ———— そうです、はい。…… はい」
間一髪だった。
「白髪染めに …… 使う染料が …… 、光に当たりますと、すぐに質が悪くなってしまうので ─── お気遣いいただいて、ありがとうございます」
さすがに嘘も途切れとぎれだが、安堵している鄭欣のほっとした表情が、その場を囲む姉妹と犬の緊張を解いていく。
「あと少しで、仕事が台無しになるところでした。本当に、ありがとうございます」
それは振動する床の上にうずくまる鄭欣の、心からの本音だった。
◇
「おそらく大丈夫です」
たっぷりと時間を使い、黒布を何重にも巻きつけた木箱を抱えた鄭欣が、幕舎の出入り口で恩人一同に向き直る。
「箱に隙間ができたのはほんのわずかな時間でしたので、急いで帰って作業を行えば、えー、つまり、その前提で手直しをいたしますれば、かかる事態は十分収拾できることでしょう」
「?」 「?」 「?」
何のことだろう、と嶺鹿たちは不思議さの中で揃って首を傾げるものの、まあ悪い別れ方というわけではない。なぜかこの場にいる誰もが満足している。
「さて皆さま、私はそろそろお暇させていただきます」
万感の思いで髪結い鄭欣は最後の一礼をささげた。
「皆さまにお目にかかれて、大変光栄でございました。また、大変お世話になりました。一生の思い出でございます」
最初のコメントを投稿しよう!