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【 12 】
「欣!」
中原側の長城廃墟を風よけに使って火を熾していた寛承君が、急停止した馬車へ諸手を挙げて走り寄る。続けて口にされようとした労いの言葉に、鄭欣は素っ気なく割り込んだ。
「すぐに再捉影だ」
「わ、分かった。だが思ったより遅くて心配したぞ」
「苦労話なんか後回しだ。陽が沈む前に、箱の蘭を捉影する。急ごう、用意は?」
馬車の荷台側に回り込んだ寛承君の指差す先には、すでに灌木の張り枝を利用した厚布の幔幕が張られている。
「いい準備だ、ありがとう周玄」
周玄…… ? 旧友から久しぶりで本名を呼ばれ、器材を調える寛承君の顔に軽い戸惑いが浮かんだ。
珍しい。
仕事、特に発明に没頭している時の鄭欣は効率と探究心の塊で、その頭の中は論収が九割、感情は一割あるかないか、といった内訳だが、この場では珍しくも少しばかりその割合が変わっているようだ。何か心が動かされる出来事でもあったのだろうか ——— 。
「気温は?」聞きながら鄭欣は自分で水銀球を転がし、「常の、やや下か」自答して焚き火へと走り寄る。
「外気が低くなってきた! 少しだけ蘭に与える水の温度を上げるぞ」
湯呑を並べておけ、急げ急げ、と高圧的にぱんぱん手を打ち歩き回る鄭欣に追い使われているうち、いつしか寛承君は友人に生じた小さな変化を意識の外に追いやった。
◇ ◇ ◇
「これでいい」
黒布をほどいた木箱から着光済みの月光蘭を取り出して、再反転用に別のランが植えられた鉢を、予め定められた距離に固定する。真っ暗な状態で行う作業だが、実験を繰り返すうちに二人ともすでに要領を飲み込んでいた。
再捉影を開始して着光用の木箱が夕陽を取り込み始めると、ようやく鄭欣は張りつめた雰囲気を解いた。
「ここから先は太陽の仕事だ」
そして深く息をついてから、しみじみと自省する。
「我々には、ひとつ大きな視点が欠落していた」
「お前が詠嘆するなんて珍しいじゃないか。見落としがあったのか? 何だ?」
沈みかけた夕陽から細めた目を逸らし、鄭欣はためらいがちに口に出した。
「……彼女の意志だよ。 さらに言えば、幸福だ。 君の婚姻相手が幸せになれるかどうかについての配慮だな。
君と結婚するために、もうすぐ一人の少女が遥かな北の地からやって来て、中原でも南寄りの宋で暮らす事になる、かもしれない。 ただ実際に婚姻が成立した場合であっても、夷狄の姫、という『地位』がやって来るわけではない。 血の通った一人の女性だよ。 夫として守ってやれ」
妙に入りくんだ言い方をするものだと感じながらも、寛承君は気やすげに頷いた。
「まあ、そうだな。俺の動機が利己的だった事は認める。お前を巻き込んだしな。まだ結婚すると決めたわけじゃないが」
「小さな妹がいるんだ。一年に何回かは里帰りをさせてやるといい」
「ほう」
本当に珍しい。ごく自然に他人を気遣う鄭欣の変化を、寛承君は好ましい思いで観察 ——— 論収 ——— した。こいつはいい奴だ。
時計代わりにしている焚き火そばの銅製水差しから上がり始めた湯気に気付いた鄭欣が立ち上がり、「そろそろいいな」と振り返って着光箱の蓋だけを開けた。
開けただけである。その中にあるランを取り出すのは未来の夫である寛承君の手で、という少し芝居がかった謎かけだろう。
「良く見てくれ、それが君の結婚相手だ」
取り出されたランの葉には嶺鹿の姿が、美しく、鮮明な緑色に写り込んでいた。それを熱心に、まじまじと、わずかな見落としもしないよう慎重に検分する寛承君。
◇
十分に見てから顔を上げて一言。
「 ‥‥‥ ダメだな」
こうして異郷の姫君はあっさり拒まれ、本人がそうと知らぬうちに婚姻審査に失格した。
◇
「 何だと?!! 」
驚愕する鄭欣とは正反対に、脱力し心から失望した表情で寛承君は不満点を詳しく言い足していく。
「俺の好みじゃない。全然好みじゃない。美人すぎる。目が大きすぎるし、眉の辺りを見るといかにも意志が強そうだ。無理だよ。こういう、目鼻立ちが整い過ぎた女は息が詰まる。離れた所から少しの間だけ眺めるならともかく、とても一緒に暮らすことはできない」
「待て。直観力も素晴らしい」
「頭まで良いのかよ。そんな女はごめんだ」
「すらっとしてる。これくらいある」
「まさか、背も高いのか!絶対に無理だ!」
「声が魅力的で」
「お前、俺が生まれつきの音痴だって知ってるだろうが。俺は普通の人みたいには音程や音楽を知覚できない。だから礼楽必須の儒学者を諦めて墨子教団で学問を修めたんだ」
「ええと。待て、ちょっと待て、今考えるから」
「とにかく感謝するよ鄭欣。この『白緑写像』のおかげで、この縁談をきっぱり辞退する見通しがついた。俺はまだまだ気楽な独り身でやっていく」
たまらず鄭欣はへたり込んだ。まさか。
こいつは何という馬鹿者なのか、と鄭欣は呆れ果てる思いで寛承君を見た。たとえ百万人の貴姫を集めた中に嶺鹿を隠し、混ぜ、捨て置いても、自然の中で健康的に磨かれた彼女の美しさと機智は、隠しようもなく虚媚の囲みを貫いて世に輝き出るに違いない。
探したり育てたりと言った人為によって得られる少女ではないのだ。優しさ、利発さ、家族愛の細やかさまでをも加味して考えれば、伴侶としてこの世に唯一の存在かもしれない。それをこいつは……。
「……」
「『白緑写像』って呼び名、なんとなく覚えやすくてちょっといいだろ? さっき考えた」
へへ、とおどけて鄭欣の膝を軽く叩く寛承君。
「……」
「でも。……ああそうだ、とても頭のいい犬を飼ってる。彼女と一緒になればその犬もついて来る」
「しつこいぞ。もう俺の心は決まった。第一、犬はうるさくて苦手だ」
「でも大量に増やせば衛兵の代わりになる。領地の守備が手薄で盗賊被害が心配だと以前愚痴った事があったろう。すごく大きくて強い。灰色で……」
灰色で。
いや、よく観察すると、一面揃った灰色というわけではない。黒毛と白毛が混ざっている。生え方にまとまりを欠くため斑や模様のようには見えないが、正確には一部に黒、主色として灰色、そしてごく少量の白、の三段の濃淡を持つというべきだ。
「がっしりとした……」
猟犬のような細身の骨格ではなく、牧畜使役向きの頑丈な系統だ。やや腰の位置が低めで、速度よりも瞬発力において優れているに違いない。見るからに強力な顎と牙で、一対一でも十分オオカミと渡り合って家畜を守る事ができるだろう。
「……つまりあんな感じのやつか」
顔を上げたままの鄭欣に釣られて振り仰ぐ寛承君の視線の先では、灰色の大きな犬が、崩れかけた城壁に立って二人をじっと見下ろしていた。
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