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      『 捉影記(そくえいき) 』    宋の東部に(さか)えた商都、平苑(へいえん)の街路は石畳(いしだたみ)ではない。  そのため、雨が降ると人も馬車も水たまりを避けるために道行きが少々ゆっくりになる。  だが、街道に面している王族専用の郭景(かくけい)門を、雨上がりにも関わらずいささか不穏な程の慌ただしさで走りくぐった寛承(かんしょう)君の絹蓋(けんがい)馬車だけは例外だった。  よほど急ぐ事情でもあるのか、疾走と言っても良いほどに危なっかしい。 そして案の定、往来の人々が向けていた心配の眼差し通りに酷い事になった。  雨水が溜まりやすい下町の市場(いちば)(ざかい)に差しかかった辺りで泥濘(ぬかるみ)に車輪を取られ、すぐに動けなくなったのである。  直後、馭者(ぎょしゃ)の未熟さを非難しながら傾いた馬車を飛び降りたのは寛承(くん)その人だった。 身にまとう衣服は古びているものの素材は確かで、王族の礼式に(のっと)った、それなりの華やかさを持つ(よそお)いだ。  が、共をする者は一人もなかった。 先王の血を引いてはいるが()扶持(ぶち)として貧村(ひんそん)()てがわれているだけで、直属の家臣や護衛を持つ事を許されない名ばかりの「(くん)」─── 下位の貴族なのである。 「お前は(くび)だ」と言い捨てて曲がり角の先に消えようとする若い主人に向かって、「急がせたのはアンタだろうが」と対等の立場で(ののし)り返す馭者の態度にも(くらい)相応の不敬ぶりが現れていた。  だが、今はその程度の小さな非礼を(とが)()てしている時ではない。 「奴がようやく帰って来たのが本当なら …… 」  鄭欣(ていきん)がこの街に帰ったのであれば、すぐにでも会わなくては 。 「あいつめ、実験だの採集だの、いつもふらふら出掛けおって …… 」  この緊急時に頼りとなりそうな者と云えば、変人だが鬼才、気難しくも他に並ぶ者とて無い天才発明家の鄭欣だけだ。  威儀(いぎ)など構わず泥道を走る寛承君に貴人らしい品格はなかったが、下町の人々は慣れた様子で道を(ゆず)って気安く挨拶の声を掛ける。 この程度の奇矯(ききょう)さならば、寛承君の振る舞いとしては特に珍しくもない ─── といった風情だ。 権威などとは無縁のままで市中に育った彼が本名の『(しゅう)(げん)』を名乗っていた少年時代からの知り合いも多く、この街では少しばかり小遣いの使い方が派手な若旦那、という程度の存在だった。 近頃は次々と雇った絵描きに色街の遊女を描かせ、その似顔絵を手土産にして当の遊女を訪ね酒を()()わす …… という奇妙な遊びに興じている。  変わった御方(おかた)だよ ─── もしも平苑の街の者に、寛承君とはどんな人物かと問えば、深く考えもせずそう答えるだろう。 そしてその後に、変わった人柄を示す理由の一つとして次のような寸評も加わるかもしれない。  なんと言っても、変人で有名だった(ぼく)()さまの弟子だからね、あの御方は墨家(ぼくか)なのさ、と。
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