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【 2 】
「欣! 欣! 頼む、知恵を貸せ」
寛承君が飛び込んだ建物は、かつて墨子教団で共に学んだ弟弟子の鄭欣が川沿いに構える貧相な平家だった。
作られた目的も定かではない無数の工作物が土壁一面に吊るし掛けられ、そこに収まりきらない未完成物やら残骸などが床にまで散らばっている作業所だ。
試作された武具がある。剣や矛、弓に類する武器は少なく、どちらかと言えば鎧や盾といった防具が目立つのは、非攻と博愛を謳う墨家ならではだ。
しかし、それらの兵具以上に建物の内部を占めているのは実に様々な実験や調合のための器材と、数々の標本である。磨かれた水晶に鉱石、仮組みされた生物の骨格、幾つもの素焼きの壺には長々しい薬剤名が書かれ、それらが整頓される事もなく頑丈な造作の棚に溢れかえっていた。
ここに広がる光景の内訳を見る者が見れば、作業所の主人の持つ価値観の傾向がうっすらと分かる ─── どうやら、非攻・博愛とは別に墨家が持つもう一つの側面、すなわち「発明」を重視しているようだ、と。
「一大事なんだよ欣、聞いてるのか! 」
「 ……… 」
挨拶も抜きで工房に駆け来たり騒ぎ始めた友人を目の端で認めた鄭欣は、痩せ気味の長身を実にゆっくりと傾けて相手に向き直った。
そして藍色の湯気に当てて彎曲させていた樽型の竹細工を作業卓に安置してから慎重に離れていき、十分な距離を取ると改めて相手の様子を無言でざっと観察し ──── やがて静かに断定した。
「見るからに急いでいる …… 。 寛承君、君は馬車でこの街を訪れたな」
「当たり前だ。 俺の領地はこの街から九里(約1.2キロメートル)も離れてるんだから」
答える寛承君の眉根がやや不快そうにひくついて、この年若い友人の視線を俄かに警戒し始めた。
「急ぎ過ぎて、馬車の車輪が泥に嵌ったんだろう。 だから途中からは馬車を降りて自分で走った」
「そんな事、誰だって泥まみれになった俺の履と裾を見れば分かるよ! 子供だましの論収遊びを止めろ鄭欣、悪い癖だぞ」
論収 ─── 事物や人間を観察して、その裏で何が起きたのかを推量する墨家の思考訓練のひとつだ。 確かに鄭欣はこの術に長けていて、その鋭い思考力でしばしば人を驚かせたものだったが、今はそんな事をしている場合ではない。 怒鳴りつけてでも黙らせて、こちらの話を聞かせなければ …… 世の中、直に説明せねば通じぬ事もあるのだ。
「怒りの状態に達するのが早過ぎる。 御者と喧嘩して暇でも出したのか? まあ仮にそうだとしても惜しむ必要はないよ、彼は元から君を小馬鹿にしていたし、君のツケで勝手に飲食する習慣があったからな」
なんだとあの御者の奴に、と思わず乗せられかけたが、辛うじて思い止まれた。 今はどうでもいい。
悪感情を呑み込んだ寛承君はかつての学友を黙らせようと、大きく目を見開き、自分の口を繰り返し利き手の掌で隠した。
この仕草はこの地方、宋の国に特有の身振りだ。『言葉を慎め』とか『細かい指摘をするな』という働きかけで、主に才気走った相手をたしなめる目的で使う。
そういう意味では、後の歴史で春秋と称されるこの時代に、群雄の隙間でなんとか息をついている小国、宋の外交姿勢ともどこか通ずるところがあった。 この動きは現代にも残っているが、面白いのは紀元前も今も、動作そのものには相手の発言内容を否定する意図がない事である。 つまり、『それは正しいかもしれないが』と肯定しつつも『黙った方が良かろう』という韜晦を促す側面も持っている。
これは軍事も経済も一流とは程遠いこの地で、戦争を否定し融和を謳う墨子の思想が興った事と何かしら繋がりがあるのかもしれない。
ただ、焦燥に駆られている寛承君にとっては仕草にまつわる歴史的意義など、どうでも良い。 今は論収かぶれの友をとにかく黙らせ、つぶさに事情を打ち明け、一刻も早く解決策を探らねば ───。
しかし、鄭欣が口を閉じることはなかった。 落ち着いた表情で寛承君の掌が空しく舞い終わるのを待ってから、静かにこう続けたのである。
「絵描きなんか何人雇っても無意味だ。 完全な視点や完全な技量というものは、芸術とは決して相容れない。 今回持ちかけられた婚礼について言えば、相手の容姿が知りたいのなら君は画家ではなく測量士を雇うべきなんだよ。 もっとも女性の顔を専門に計測する者などいるわけもないし、危険に満ちた長城の先にまで彼らのような街住み職人がわざわざ旅をしてくれるはずもないが」
◇
そう助言された寛承君は、あんぐり口を開けたまま立ち尽くした。
こいつ今 …… 「 婚礼 」、と言ったのか。さらには「 女性の顔 」、いやそれだけではなく「 長城 」、とも?
なかなか言葉が出てこない。
「な、なぜ …… 分かった …… ?」
ここを訪れた目的が、正にそれについて相談するためなのである。それこそが、ここ数日躍起になって自力で解決を試み、同時に誰にも知られぬようにと腐心して来た秘密だった。
だがなぜ、事の次第を細かく聞かせるより先に結論が出てしまうのか。
「簡単な論収だ。 ここ数日、平苑の絵描きが片っ端から雇われて君の領地に呼ばれて行った、と街の噂に聞いた。 その誰もが、若い遊女の絵を描かされたそうだな。 君は仕上げられた絵を手にすると、遊女本人のいる店を訪れる ─── まるで答案を採点するように。 そう、彼らは君に画力を確かめられたんだ。 目的は、ある女性の顔を絵にすることだと容易に推測がつく。 君は特定の女性の元へ絵描きを派遣してその姿を描かせ、自分と直接顔を会わせる前にその外見を知ろうとしている。 なぜだ? そんな必要など、普通はない ─── それが結婚を前提にした相手でもない限りね。 つまり宋王室で婚礼の話が進行している。 対象の片方は当然君だ。
相手は誰だろう。 君は不遇をかこっているとはいえ「君」の称号を持つ正真正銘の王族だから、一般人との婚姻はあり得ない。 他国の王族か? 違う。これも同じく、君の立場が理由だ。 宋の周辺を囲む強国のお姫様たちと君では、君の身分が軽過ぎて釣り合わない。 また、釣り合いという観点からは別の現実も浮かんで来る。 他の臣下が持つ娘や遠縁の姫、いずれも君との婚姻が成れば宋の国へ新たな繋がりができる」
鄭欣は説明を続けながらも、話題の退屈さに鼻を鳴らした。
「繋がりができてしまう、と言い直すべきかな。
現在の宋で既に定まっている力の釣り合いが今後も保たれる事を望む人々にとって、先王直系庶子の立場にある君は婚姻策を進める上で実に血縁を用いにくい手駒なんだ。
すると可能性は一つ、長城の向こうで暮らす異民族を統率する部族長の娘くらいしかいない。 諸国の王が偶にやる権威売り外交法の一つだな。 実益性に欠けるものの弊害の心配もない。
遠くの部族と力を持たない王族の、ちょっとした政略結婚というわけだ。
この婚姻を承諾すれば君の地位はわずかながらも上がるだろうから、悪い話ではない。 が、問題は君が領地だけでなく自由をも愛する点だ。 好みに合わない女性と添い遂げるくらいなら、将来の地位など捨てて縁談を断ろうとするだろう。 だがなにぶん相手が余りにも遠くに住んでいて、外見についての評判を知りようがない。 頼りになるとすれば絵だ。
しかしこれも万全の解決策ではない事を、実際に描かれた何人分もの遊女の絵と現物を見比べるうちに君は思い知ったんだ。 絵描きには皆、一人ひとり独特の画法や題材への好みがあって、必ずしも実像を描くとは限らない。 また、賄賂や脅迫によって手心が加えられる恐れもある。 そこで君は絵描きを派遣するのを諦め、自分の目的に沿う道具を望んだ。 いかなる思惑も入る余地なく完全に客観的に、人間の顔を記録する発明はないものか ──── とね。
無駄だ。 そんなものはない」
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