11人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ
【 5 】
長城。
この物語当時における長城、 という言葉は、はるか後の時代に栄え滅んだ統一帝国諸王朝で使われた『万里の長城』とは、意味も在りようも些か異なっていた。
宋の国があった春秋時代には明確に中原と北方を区画する長大な防衛線が完成していたわけではなく、個々バラバラに点在する城砦群が地勢に沿って緩やかな領域らしきものを主張しているに過ぎない。
それらは国勢と実状に応じてその都度築かれ、一時的に進出した軍兵の駐屯・支配域となったり、交易拠点として機能したり、また必要を認められない時期には特に固執する者もなく見捨てられ、遂には廃墟と成り果てることも珍しくない。
鄭欣と寛承君は、ひと月ほどを掛けて人くさい中華文明圏そのものと言っても良い中原・宋の地から、“ 長城 ” を目指し北へ北へと馬車を移動させ続けた。幾つかの国を縫って進むうち徐々に人と耕作地が疎になり、不毛の荒野を過ぎた後に、馬上から弓を操る遊牧民と家畜の集団が珍しい見ものではなくなっていく。
「この辺りだろう」
やがて彼らはどうやら自分達が長城の南部に達したらしいと結論し、気休めの目印と定めた泥壁の残骸そばに馬車を停めた。念のため根拠を問いたげな寛承君に「ここではもう、我々の存在の方が珍しいからさ」と煙に巻くように答えた鄭欣は「仕事を始めるとしよう」と短く嘯いて淡緑一望の周囲を見わたす。
そこは草原の世界だった。
◇
「さあさあ皆さん寄っといで! こちとら、はるばる王都洛陽から旅して来た髪結い名人だよ!
洛陽の髪結いだ!! 」
果てしない大平原に、鄭欣の客寄せ口上が遮る物もなく拡がっていく。
「大嘘じゃないか」
呆れ声で入って来る合いの手の主は寛承君だ。
「来たのは宋からだし俺たちのどっちとも髪結いじゃない」
羊の群れと、その流れをまとめる騎馬の人々が遠くから物珍しそうに、派手に彩色し直した寛承君の馬車と鄭欣を見やり、無言で駆け去っていく。
外塞 ─── 遼俄族だけでなく多くの異民族が跋扈する長城の外の世界は、荒々しくも懐深く彼らを迎えた。中原との戦いが一段落して、交易の機運が高まろうとしていた時期だったのも幸いしたようである。
「母大后さまから周王のお妃様、諸侯の姫から傾国の美女まで、何でもお望み通りの髪型に結い上げるよ! ご婦人方にお嬢さん方は一層お美しく変われるってもんだ!」
偽の髪結い屋はなかなかの繁盛ぶりだった。
「適当に髪をまとめて縛ってるだけじゃないか。そのうち嘘がばれて俺たち二人とも酷い目に遭うぞ」
悲観的な寛承君の予想とは裏腹に、中原の風俗を望んだ遊牧民の女たちが馬を駆って、日に何人も鄭欣を訪れた。徐々に評判が広がりつつあるようだ。
多少の試行錯誤もあったが、写像実験の方も順調である。
「これを使う」
ある夜、鄭欣が寛承君に布袋から取り出して見せたのは、ずんぐりした葉型を持つ白っぽい一株の植物だった。
「以前コウモリ相手に研究していた時に、洞窟の中で見つけた特殊な月光蘭の一種だ。普通の草花では育つ事のできない暗闇に自生して、月明かりのような非常に弱い光にだけ反応する」
打ち捨てられた涸れ井戸の窪みを木組みと獣皮で覆い作業場に定めると、鄭欣は写像を発明品として完成させるべく精力的に動き始めた。
針穴像の板に磨き上げた水晶を嵌め込み、像の結ばれる距離を任意に調節できるよう改良して、全体の仕組みを小さな箱に納めきる。そして、箱の暗闇の内部でちょうど光の結ぶ一点に、月光蘭の葉を配置するのである。
「光が当たると、ランは活動を始める。
ここから先は普通の植物と同じだ。光の当たった部分の葉は、緑色に変わる。一方で、光の当たらなかった所は白いまま残る」
「像の明暗をそのまま葉の表面に写しとるわけか」
「うん、仮の呼び方として、この現象を『着光』、同様に工程を『捉影』と名付けてみた。ただし、光に対して植物組織が反応を始めるまで少しだけ時間が必要だ。その間、箱内部の像が揺れたりズレたりしないように、相手をじっとさせて、動かさないようにしておかねばならない」
「ああ、だから髪結いなんだな」
しかし最後に、もう一つだけ乗り越えるべき課題が残されていた。
明暗の逆転である。
「眼の写り方を例にとろう」
陽が落ちてから、鄭欣は実際に着光実験を済ませたランの葉を取り出した。葉の表面を指差す先には、数刻前に髪を結い上げた遊牧民のうら若い女性の姿が写っている。だが本来明るく見える部分は緑色で、暗く見えるべき部分は白いままだった。
「この子の瞳は黒に近い暗色だったが……」その部位の葉は、白い。
逆に白目の部分は、見事に緑色に変わっていた。同様に、肌は薄緑、そして深みのあった黒髪は白く写っている。
「見え方と映り方が逆なんだ。これをどう解決するか」
「まあ、顔の形や特徴が変わるわけじゃないから、目的には達してるんじゃないか? 少し不自然なだけで」
「だいぶ、不自然だよ。これでは道具として美しくない。発明としては不完全なのが、僕にはなんとも気に入らないね」
「いっそ、捉影する間だけ眼や肌を逆の色合いに塗らせてもらうか」
お手上げといった感じで軽口を叩いた寛承君だったが、鄭欣はその言葉に飛び上がった。
「それだ!」
「何?」
「逆の色合いだよ。逆の色合いの物を捉影するんだ」
「ぬ、塗らせてもらうっていうのか?」
「違う。それはもうある。逆の色合いになった物は、既にここにある」
鄭欣は両手で鉢植えのランを抱え込んだ。
「この着光済みの葉を、もう一度改めて別のランで捉影し直せばいい。反転した明暗を、さらに再反転させて元に戻すんだ」
問題の解決を喜ぶ寛承君が腰を浮かしかける。
「じゃ、さっそくそれを素材にして……」
「いや、このランはもう使えない。よく見てみろ」
葉の全体が、すでに薄く緑に色づき始めていた。「一度でも箱の外に出してしまえば、いずれ全てが緑色になる。こいつは他の使い終わった鉢と一緒に、洞窟に植え直してやろう」
無念そうな鄭欣の声が宵闇に沈んでいく。
「光が当たっていないように見える部分も、実際は捉影によってほんのわずかだが光の影響を受けるんだ。白い部分と緑の部分を明確に分かち続ける効果は長くは保たない。最後は一面緑色の、元気なランの葉だ。
それに、ランを明るい所に出して人間がそれを「見る」という行為そのものが、写像の寿命を縮めてしまう。
こればかりは今の技術ではどうしようもないな。捉影したらなるべく時間を置かずにそれを見る、という使い方をするしかない……君にわざわざ長城までついて来てもらったのはそのためだよ」
こうして彼らが最後の問題に(文字通りの)光明を見出した翌朝、地平線の彼方が薄灰色に変わった。
◇
羊である。
現れた巨大な羊の群れは地を這う雲海のようで、みるみるうちに遠景の全てを埋め尽くした。
その流れから発した一騎の使いが、鄭欣たちの馬車に悠々と近付いて来る。
やがて使者は馬の歩みを止めて丁寧に挨拶すると、姫の髪結いをお願いしたいが、我らの宿営まで出向いていただけまいか ─── と温かみのある訛りで尋ねた。
「我らは ———— 」
使いは自らを、遼俄族、と名乗った。
最初のコメントを投稿しよう!