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【 7 】
遼俄の姫が起居するという白い幕舎は部族の帷幄集団のほぼ中央にあって、小さくとも壮麗と形容できるほどに美しく地面に張られていた。その輝きが布のものではなく、獣毛の艶 ─── 無数のユキギツネの毛皮を縫い合わせた信じ難いほどの豪奢さによる空模様の反射だと分かって、あまり物に動じない鄭欣も、遼俄族の富強ぶりに思わず舌を巻いてしまう。
周の王室が天からの賜物として長年珍重し続ける霊獣ユキギツネも、この地では冬に出くわす小型の獲物に過ぎないのだろう。
これを数量の問題だと言い切るのは、皮肉屋の鄭欣でもさすがに少し難しい。
「このままお進みください」
だく足を緩めて馬の首を返し始めた先導役の騎兵が、鄭欣の馬車を幕舎の方へと促した。
一人で? と自分の顔を指差す鄭欣に、「我々はこれ以上、姫のお側に近付かないのです」と答えた口調には信仰にも似た恭虔の響きがあった。
◇
ゆるゆると馬を進め、荷台から幕舎そばの草地に器材を積み出し終えてから、入り口のくぐり幕近くに立って軽くせき払いをする。
「ご用命いただきましてありがとう存じます」
返事は無かった。片膝をつくべきか。
「髪結いでございます。お召しにより参上いたしました」
返事は無い。
門や扉を持たない建物は礼儀を維持する上では厄介だな、と悩んだ鄭欣だったが、度胸を据えて幕舎に一歩踏み入ってみる。
「えー、髪結いでございますが」
中には灰色の大型犬が一頭いるだけだった。
番犬のようだが …… こちらの姿を認めると同時に背中の毛を逆立て牙を剥いたのは、そういう犬種なのだろう。きっと獰猛に見える犬種なのだ …… 狙いを定めるように重心を低めて唸り始めたのもこの犬種の特徴なのだろうし何の迷いもなく凄まじい勢いで襲いかかって来たのは …… 「それは君がたまたまそういう犬種だからだろ?!」
違うかもしれない。普通に警戒され普通に敵視されて普通に襲われているだけかも。
「クァールアッシ!! 」
——— と鄭欣の背後で響く若々しい女性のひと声が、暴風にも等しい犬の攻撃動作をピタリと停止させた。
「カラッシ、お客様にじゃれかかっては駄目よ」
きゅう、と甘く返事をした犬は、押し倒し今にも喉ぶえを食いちぎろうとしていた鄭欣の体の上で、力を抜いて伏せをする。主の幕舎に入り込んだ不審者にとどめを刺せず残念そうに見えるのは …… そういう犬種だからだろう。
「髪結いの方ですね? 幕舎を留守にしていてごめんなさい、人を探しに行っていたものですから」
北域の戎衣に身を包んだ少女が、仰向けに倒れる鄭欣の横にひざまづいていた。濃い海老茶色に染めた羊毛編みの生地の上を、民族柄の縁取り模様が縦横に走っている。
「わざわざお越しいただき、ありがとうございます。私は族長キエンルイの長女、嶺鹿と申します」
鄭欣が立ち上がるのに手を貸しながら、少女は自分の名を「リェーグア」
と発音した。
つややかな唇から発されているのは確かに中原の言語だが、会話に混ぜ使われる固有名詞には遼俄族独特のものと思しき音楽的な抑揚があった。長身の鄭欣には及ばないものの、女性としては高めのすらりとした身体が丁寧に一礼してくる。
「よろしくお願いいたします、髪結いさん」
「……こ……こちらこっ……こちらこそ、リェーグア、様」
ようやく我を取り戻して挨拶を返した鄭欣は、遼俄族の姫が頭を下げて視線が逸れるまでの間、自分が相手の大きな瞳にずっと見入っていた事に気付いて密かにうろたえた。動揺を隠すために慌てて付け足す。
「名高い遼俄の皆様から直々のご用命を賜り、光栄の極みです」
それを聞いた少女は、くすりと微笑んで鄭欣の大仰な物言いを受け流した。
「父のキエンルイは今、牛を追うため主幕舎を離れております。はるばる洛陽からいらっしゃった御方にご挨拶できず、きっと残念がることでしょう ─── なにぶんこの時期の私たちは、水場に散った牛群れを交代で怒鳴り集めるのに忙しくて」
遊牧を生業とする自分たちが、中原の価値意識からは夷狄として蔑まれている現実を十分に知っている口ぶりだが、一方でその内面には超然とした、何者にも冒し難い高貴さを備えているように見える。
「明日は私が怒鳴りに行く番」
そんなひと言を付け足すその態度には自文化への穏やかな誇りが保たれていて、卑下も自嘲もなかった。
考えていた予測と、少し違う。
いや、かなり違う。野蛮な部族でわがまま放題に育てられた暴力至上主義の小娘から、下品な田舎言葉で髪結いを命じられる……という展開を思い描いていたのに、まるで見込み違いだ。
少女の物腰は優雅なだけでなく、知的だった。これは彼女自身の性格であると同時に、その美質を育んだ遼俄族という集団そのものが、部族間の抗争や厳しい自然を制して生き抜くだけの勇武と思慮深さを備えている事をうかがわせる。
「では早速ですが、髪結いをお願いしてもよろしいでしょうか」
語句の意味を取り去り音律だけに注意を向けるならば、少女の声はそれだけで異邦の詩謡として十分に成り立つほどの瀟洒な響きを備えている。
これが夷狄、蛮族として蔑まれ怖れられる異民族の女性だとは、鄭欣にはとても思えなかった。ここも全くの予想外である。
「……髪結いさん?」
「 は、はい、今すぐにでも。はい」
いかん落ち着け、さっさと捉影して帰ることだ、と鄭欣は瞬時に割り切った。
「どのような髪型にいたしまし ——— 」
「 英 璉! い ら っ し ゃ い!!」
「 ——— ょうか」鄭欣の発した問いが、くるりと振り返って後方に呼び掛ける少女の肩の辺りを無為に通り過ぎる。
少し離れた厩舎の陰から嶺鹿の声に招かれ駆け寄って来たのは、まだ幼い女の子だった。少女と同じような意匠の戎衣をまとっている。そして、同じ眼を持っている。
「ええと……嶺鹿様……?」
突進に近い勢いで抱きついた女の子を笑顔で受け止め抱き上げた嶺鹿が、微笑んだまま向き直ってその子供を鄭欣の目の前に立たせた。
「妹の髪結いをお願いします」
「えっ……」
「私と妹はもしかするとこの先、互いに遠く離れて暮らす事になるかもしれないのです。それで、この子に何か思い出になることをしておきたくて」
「さ、さようで」
だから自分がここに呼ばれたのか、と今さらながら鄭欣は気付いた。この娘は身分を誇って呼びつけたわけではなかった ─── 単に、小さな妹を宿営から遠くに出したくなかったのだ。
作り笑いに自嘲を混ぜ込んだ鄭欣は、それでも楽しげな口調を保って「早速始めるといたしましょう」と言ってのける自分自身を、内心で馬鹿者め、と短く罵った。
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