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客が途切れたのでほっとしていると、先輩社員が奥のスタッフルームから声をかけてきた。
「ちょっと奥村君、注文した絵の具が入荷したから、棚に入れてきて」
奥村は壁の時計をちらりと見てから答えた。
「はい」
レジとスタッフルームを繋ぐドアのところに山と積まれた絵の具の箱を台車に載せ、絵の具の棚のところまで運んで行って詰め始めた。時間は11時を少し過ぎたぐらい…。
「…もうすぐだよな」
奥村忍は一人呟き、黙々と棚入れをしていたのだが…。
「すみません」
聞き覚えのある声が嬉しくなって、でもその嬉しさが顔に出ないように必死に堪えながら振り向いた。
「いらっしゃいませ」
「先週注文した…」
「届いております。こちらにどうぞ」
彼女が言い終わる前にそう告げて、奥のレジに案内した。
「××社製の青24番インク1ダースですよね」
レジの中に立つと、彼女が注文書控えを出す前に忍は言った。
「…覚えているの?」
「勿論。定期的に同じ注文をされたら、誰だって…」
「そうね」
笑った顔、可愛いよな。注文書に書かれている名前は神楽葵。そんなことを考えながら受け取り手続きのための書類を準備していたのだが、一緒に働いている先輩社員が忍に声をかけてきた。
「ちょっと私3階に行ってくるから、一人でいいかしら」
「はい」
先輩社員がいそいそとエレベーターに乗り込み店員が忍一人になると、ここぞとばかりに尋ねた。
「本当は、あなたが素敵だから、注文を覚えていたんです」
唐突に話を切り出されて、彼女は目をぱちくりとさせた。
「いきなりこんな話してすみません…でも、俺、貴方が好きだから…」
そして彼女は、くすくすと笑った。
「素直ね」
「だっておれ…」
「大人なら、もっとスマートなやり方を覚えたら?」
「す、すみません…」
慌てて謝ると、葵はバッグを開いて一枚の葉書を渡した。
「もし良かったら、来る?」
絵葉書は販促用のもので、白抜きの文字で『神楽葵が魅せる青の世界』と印字されていた。
「個展…ですか」
「そう。来月開かれるのよ。初日は、招待客だけを集めた立食パーティー。もしあなた…奥村君?が来たいなら…」
「い、行きます!行かせてください!」
「参加させてください、と言いなさいよ。またね」
葵は絵の具の代金を払い、箱を小脇に抱えて店を出て行った。忍はこの時、胸に名札をつけていて良かった、と思った。
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