吊革怪奇譚

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 僕は疲れ切っていた。  十年、通い慣れた帰路だ。  別に僕が望もうと望むまいと、手が震えようと足先までしびれていようと、僕の足はスイッチなしの全自動でしかるべき道を律儀に踏みしめ、僕を運ぶ。  舌がうまくしまえていない気がする。炎天下に放置された柴犬みたいに。  上の前歯の裏側をなめた。  あまり力が入らない。  なんでだろうな、言われたことに従う以外の方法が浮かばない。  会社、辞めちまえ。  辞めちまって、どうするんだよ。  お前、死ぬぞ。  このままだと過労死一直線。  会社辞めたらジリ貧で餓死。  どっちがぽっくりいけるかな。  どっちもどっち。  からだが重いのに、意識ははっきりしている。  もうすぐ死ぬのかな、僕。  自嘲的に、笑った。乾いた咳が出た。    疲れ果てるのも当然なのだ。  始発で出勤、終電で帰宅。  そんな生活を、かれこれ数ヶ月続けている。  以前はもうちょっと、メリハリがあった。  忙しい時期は、今と同じ、二十四時間働けますか的ぶっ壊れテンションであくせくやるけれど、暇な時期は、定時出社&退社。  忙しいのは、月末月初の数日とかだったから、それを乗り切ればあとはそこそこ、バラ色の雇われ人生だった。  不況のあおりをくらって、と言ってしまえばそれまで。  半導体メーカーのはしくれ。  大手の下請けでなんとかかんとかやってきたけれど、価格競争で海外メーカーに負け、大口取引先が離れた。  それが、四年前。  昔からのオツキアイ、に、あぐらをかいていた経営陣たちは、よもや切られる側に回るとは夢にもみておらず、大慌てで、事務所内勤の若手社員をかき集め、飛び込み営業をけしかけた、のも四年前。  だいたい、今どきアポなし営業ってのがもうイタい。  お客様は熱意を買ってくれる、熱意を見せろと、怪しげな社員教育セミナー会社にそそのかされて、血を吐くまで社訓を叫べトレーニングだとか、タウンページのあ行から、しらみつぶしに電話をかけまくってセールストークの練習だとか、効果のほどはいっさい不明ながら疲労ばかりがたまる一方のミッションを、これでもかこれでもかと与えられ続けて、溺れやしないけど、うまく呼吸ができない。  まともな社員から次々退職願が提出され、同期でいちばんキレ者だった山本くんが専務を殴ってクビになったのが三年前。  社長の親戚だか友人だかの知り合いの娘で、経理を一手に任されていた森村さんが、数百万円の使い込みとともにドロンしたのが二年前。  少ない人数で膨大な、半分以上ムダ業務を回していたものの、真面目一徹な河野くんが勤務中、泡を吹いて倒れ、その後うつ病で長期休職に入ったのが一年前。  新しい風を入れよと、ハローワークに求人票を出したら、新入社員が三名やってきたものの、役員が軒並み人を見る目を持っていなくて、結局、古株社員 の手間が増えただけだったのが八ヶ月前。  そして、現在。  入社以来、僕がずっと世話している大倉くんは、持病の仮病が悪化して絶賛長期欠勤中だ。  慢性逆流性食道炎の悪化、本人曰く。  だけど、待てど暮らせど医師の診断書が提出されない。  自分の立場がまずくなると、痙攣を始める大倉くんの有能な胃袋。  もう有給が残っていないから、病欠に切り替えるべく、部長じきじきに診断書の提出を求めているっていうのに。  大倉くんにとっても、悪い話ではないはずだ。  なのに、大倉くんは毎朝、ちょっとずつ違う文面のメールを事務員の水木さんに寄越す。 『今日も胃痛と吐き気とめまいが酷いので、休みます』  朝から吐いたとか吐かなかったとか、昨夜は一睡もできない痛みだったとか痛みで朝飛び起きたとか、目の前が真っ白だとか真っ暗だとか、ヴァリエーションはいろいろだ。  とにかく、行きませんってこと。  僕だって、胃が痛い。  でも、僕の胃痛は市販薬で治る。  僕だって、食欲がない。  でも、僕は燃費がいいらしく、そんなに食べなくても生きていけるみたいだ。  僕だってめまいがする。耳鳴りがする。寝ても寝ても常にだるい。  でも、不思議と会社に着いたらしゃんとするのです。  目を開けていたのに、目が見えていなかった。  気がついたら、僕以外はだれも電車に乗っていない。  がらんとした電車内で、ようやく新しい息ができる。  明日の朝はまたすし詰めだ。  僕が座っている座席が、僕のかたちにへこんでいる。  申し訳なくて仕方がない。   座席だって僕以外の、もっといい人の尻を支えたいはず。  自宅の最寄駅までは、まだ四十分くらいかかるので、目を閉じてしばしの現実逃避を自分に許しても良かったはずなのに、僕はそうしなかった。  電車の振動に合わせていっせいに揺れている吊革の動きが、やたら気になって仕方がない。  よくよく注意してみると、僕のななめ前の吊革だけが不自然な動きをしている。  一列に並んだ吊革は、おしなべて規則的に、ひた走る電車に忠実に、ガタンで前に振り出し、ゴトンで後ろに振りかぶる。  停車駅が近づいて、速度が落ちると、振幅の幅が小さくなる。  横揺れすると、左右にばらばら動く。  なのに、その吊革は、常に細かくうち震えながら、空中に静止しようと試みている。  しなやかな吊革たちのラインダンスをしぶとく妨害し続けているのだ。  まるで、だれかがつかまっているみたいに。  もっとよく注意して目を凝らす。  と、猫背がじわじわとからっぽの空間に浮かび上がってきた。  うあっ。  見たくない。目をつぶる。  まぶたの裏に、目の前の光景が割り込んでくる。  白いシャツ。くたびれたスラックス。すりきれた革靴のかかと。  うあっ。  僕は驚いて、すかさず目を閉じた。  思った以上に僕は疲れているらしい。  まぶたに力を入れ続けていると、眼球の表面がチリチリしてくる。  耐えられずに開けた。  うあっ。  汗がところどころ染み出したシャツの方がパツパツにはちきれそうで、わき腹、高速道路を西へ東へしているナイロン袋みたいに膨れている。  うあっ。  目をそらす。  小太りの、たたずまい的に多分中年男の幻影は、だんだんくっきりと輪郭を露わにしつつある。  僕はそうとう疲れているらしい。  うあっ。  ブクブク膨れたビジネスバッグが、透けたかかとの傍らに転がっている。  うあっ。  首がついていないのかと思ったら、うなだれすぎて、首の後ろの襟に隠れているだけだった。  うあっ。  肩甲骨のかげがあるべき場所に、こんもり盛り上がったぜい肉の幕が下りていて、タイムマシンでもどうにもできそうにない。  うあっ。  やっぱり僕は疲れているのだ。  だから、ありもしないものが見えているのだ。  と、断言したところで目の前の吊革半透明男が消えるわけもなく。  うむ。  そろそろ、なにかしら対応するべきなんだろうか。  もしかしたら悪いものじゃなくて、吊革の妖精とかかもしれないけれど、見た目がオエオエなので、多分悪いものだろう。  幽霊、っぽいものへの対応?  念仏?  南無阿弥陀仏?だっけ?南無阿弥陀仏……南無妙法蓮華経?えーと、南無妙法蓮華経南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、どっちがきくんだっけか。般若心経のが強そうだ。  えーと、般若はらむった、みた?じー……後が続かない。  とかなんとかやっていたら、吊革の男がぐんと腕に力を込めて、頭を上げた。  諸行無常な後頭部が、露わになる。  ああ、死んだって生えないものは生えないのだ。  脂ぎった頭皮。  水死体にへばりついた水草みたいな髪の毛。  頼む、こっちを振り向くな。  振り向くなったら。  いぼだらけの耳を見せるなったら。  ぎゃぁぁぁ、なんでもいい。  神様仏様幽霊様、南無阿弥陀仏南無妙法蓮華経、主はきませり、だれか助けてくれ。  この状態で幽霊にとりつかれたら  死ぬ、マジで。  あぁ、僕は生きていたいのか。  こんな状況で初めて気づいた。僕は生きていたいんだ。家と会社の往復で、安月給で、恋人なしで将来の展望もなし。  こんな状況でも生きていたいのだ。  ただの本能かもしれない。  でも、やたら感動した。  だから南無三。  成仏してくれ。  幽霊は、とっくの昔に振り返っているのだった。  僕と視線をピッタリ合わせてコンバンハしているのだった。  血まみれだとか、恐ろしい恨みつらみが念写されているとか、そういうのは一切なくて、絵に描いたように冴えない、オッサンの、仏頂面なのだ。  人間、死んでも、大幅に顔が変わるわけではない。  残念なお知らせ。 「あのさぁ」 と、幽霊が言った。 「きかないから。そーゆーの」 「……は?」 「は?じゃなくてさぁ。俺、無宗教なんだよね。だから念仏唱えられても……反応に困るっつうか、成仏ってなんですか?っつうか……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、南無南無南無……」  僕よりも朗々とした節回しで、ひとしきり読経してみせて幽霊は、 「な?」  首を傾げて見せた。    なるほど、びくともしない。  いや、感心している場合じゃない。  幽霊は、まったく面倒くさそうに頭を傾け、首をゴキッと鳴らし、 「お前さ、どうせ幽霊なら、若くて美人がいいなって思ったろ?」  はい、思いました。頷く。  なんだよ、心が読めるのか? 「俺もおんなじ気持ちだよ。どうせ見てもらえるなら美人がいい。宝生舞みたいな」  おぬし、素晴らしいチョイスだ。一気に親近感。  幽霊は、反対側もゴキッと鳴らして、 「でも、なんでかなぁ。俺と波長が合って、俺の姿が見えるのは、お前みたいなくたびれた男ばっかなんだよなぁ」 「こんな時間に、電車乗ってるのなんか、男も女もくたびれたやつばっかりですって」  一応、反論しておく。  幽霊は相変わらず、うっとおしいジト目で俺を眺めている。  吊革につかまって、弛緩した手首と、へたくそなパ・ト・ドゥの爪先がもの悲しくマリアージュして、弓形のからだがぶらんぶらん揺れている。  彼のわき腹の贅肉がだるんだるんしているのが、シャツの上からでもわかる。  悲しくなった。  幽霊のほうが、僕より太ってるぞ。   「そこで死んだんですか?」  特に意味もなく僕は尋ねた。   沈黙がちょっと気まずいから、話題はなんでもよかった。  「いんや」 と、幽霊は言った。 「俺が死んだのは、三両向こうの車両だ」  微妙。 「なんでまたこの車両にいるんです?」  もしかして、僕がいるから?  そうやって、誰かに必要とされると嬉しい。  いや、相手は幽霊だ。しかもオッサンだ。  嬉しくはない。 「俺が死んだ車両には、俺が殺しちゃった女がいるんだ」 「おお、いきなり物騒な」  なんだこいつ、やばい奴じゃん。  ちょっとおもしろい。  普段、生活していて、人を殺しちゃった上に自分も死んじゃった人に会うことってないから。 「好きな人を殺して、自分も死んじゃったんですか?」  許されぬ。  でも、その情熱と行動力、素敵。 「いんや」  てへへ、みたいに笑って、幽霊は、 「俺、吊革につかまってるときに心臓発作で死んだのよ」 「おお、仕事帰りに?」 「そ、そ、仕事帰りに」 「身につまされる話ですね」  ひとごととは思えない。 「で、女性はどこから来たんです?」  「俺の前に座ってたんだよ。若い子でさ。パリッとスーツ着て、COACHの鞄で、ワンレンで」 「ふーん?」 「俺、電車に乗ったときから胸が痛くてさ、今思うと。息切れもしてて。座りたいなーと思ったけど、満員電車だし、俺、一応若い部類だし、妊娠もしてねえし、吊革にぶら下がるくらいはできるから、立ってたわけだ」  僕は、膝の上に置いていた鞄を隣の座席に軽く放った。  小さな停車駅に着く。ドアが開く。閉まる。両隣の車両には、人が降りたり乗り込んだり、車両を隔てるガラスの扉越しにせわしなく、影が動き回っているが、ここの車両は静かなものだ。 「で、いよいよ胸が痛くて、息ができなくて、俺、膝から崩れ落ちて、女の人の膝に突っ伏しちゃったんだ。申し訳なかったよ。苦しくて、パニックだったけど、すいませんって言葉ばっかり口から出てきて、薄目開けたら、めっちゃ睨まれてんの。その、女の人に」 「災難でしたね」  あなたも女性も、と言おうとしたけれど、心臓発作起こした人相手に、あなたをうっかり膝枕した女性も災難でしたね、と言うのも気が引けて、僕は唾を飲み込んだ。 「で、死んじゃったんですか」 「そうだよ」 「気がついたら、ここにいたってやつですか」  見た目はきれいだけど、走る棺桶の電車内に。  夢も希望もありゃしない。  死んだら自由にお空を飛び回って、世界一周旅行でもしたいもんだ。 「行くところもないからなぁ」  幽霊は、ぽわぽわとあくびをして、 「最初は病院にいたよ。親父が来たんで、一緒に北陸の実家へ帰った。で、墓場とか実家の周りとかをうろうろしてた。俺、早くにおふくろを亡くしてるんだけど。まぁ、死んだおふくろやらじーさんばーさん連中がうるさいのなんの。俺、死んだばっかりのとき、すっげー怒ってたんだよ。そりゃ俺はこんな見た目だし、恋愛どころか友達も数えるほどだし、IT土方で、センスのない平社員プログラマーやってましたよ。でもさ、死ぬときぐらい大事にされたい。汚いもんでも見るみたいにさ。大丈夫ですか、の一言もねぇの」  幽霊は、ひょうひょうと語って、紫色の舌をぺろりと突き出すと、唇を舐めた。 「だから、俺は怒ってた。俺の上司、先輩、後輩、同僚、友達。最後に俺を睨んだ女。 そしたらさー、うるさいのなんの。死んだ後もそうやって、生きてる人間にしがみついてみっともないだの、情けないだの、性根が腐ってるだの、うんぬんかんぬん」 「亡くなったおふくろさんや、おじいさんおばあさんが、ですか?」 「そーだよ。俺、毎晩、自分の墓石に正座させられてた」  思わず笑った。鬼太郎か。 「で、家出したわけ」 「幽霊が家出!」 「幽霊だって家出するさ」  幽霊は、憮然として、 「あんただって、自分がそういう立場になればわかる」 「肝に銘じておきます」  僕は咳払いをして、 「どうせ家出するなら、もっといいところへ行けばいいのに。外国のリゾートとか」 「俺、残念ながらそういうところに無縁なのよ」   悲しそうに鼻をすすって、幽霊は言った。 「からだがコンパクトになったぶん、気持ちも多少楽になったよ。乗り物乗るのもタダだしな。だけど、なにかしら俺の思い出とかが残ってる場所じゃないと、うまく定着できないみたいなんだ。それに、皆がイキイキして、人生謳歌してますって場所は、体力使うみたいで疲れるんだよ。空港とかな。疲れてるやつもいるけど、旅行に行く連中はハッピーオーラ全開じゃん。ほどよく周りがネガティブなところが居心地いい」 「乗り物がタダって、まさか、新幹線でここまで?わざわざ?」 「そうだよ。東京駅で乗り換えて」 「幽霊なのに?」 「幽霊なのにって……、あー、幽霊って、空飛んだり瞬間移動したり、神出鬼没気取れると思ってる系?」  思ってました。  幽霊は、キザったらしく立てた人差し指を振って、 「甘い甘い。聞くけど、あんた今、空飛んだり瞬間移動できんのかよ?」 「できません」 「な?死んだくらいで、ヒーローになれないんだよ」    うう、よく考えればそうかも。  でも、死ぬってそうとうなことじゃないか?  ピーナッツの皮剥くみたいに言わないでほしい。 「ま、できるようになったことといったら、誰かの夢に出られるようになるくらいかな」 「へー、ロマンチックですね」 「ロマンチックなもんか。それで、俺の前に座ってた女の人は死んじまったんだ」  あ、そういえば。 「話が元に戻りましたね」  僕の頭がゆらゆら揺れている。  ここは現世かはたまた彼岸か。  まぁ、楽しけりゃいいんじゃない? 「とりあえず東京に戻ってきたけど、前住んでた家は、もう別の住人が住んでて、大学生だし、彼女いるし、いたたまれないし。会社なんか二度と行きたくないし。で、結局落ち着いたのが電車内だったのよ」  なんだか切ない。 「最初は、三両向こうの車両にいたわけだ。でもある日、いきなり後ろからぶっ叩かれてな。振り返ったら、鬼の形相で、俺を最後に睨みつけた女が立ってんの。で、お前のせいで私は死んだんだとかなんとか叫びながら、COACHのバッグで殴ってくるんだよ。ヤバすぎ」 「そ、それは」 「怖いだろ?な?命の危険を感じるだろ?もう死んでるんだけどな。女に追っかけ回されて、俺はやっとここまで逃げてきたんだ。女によると、俺があの人の膝の上に崩れ落ちた日から、毎晩俺はあの人の夢に出てきて、辛気くさい顔であの人を睨みつけてたそうだ。で、彼女はノイローゼになって、カウンセリングに通い始めて、ある日睡眠薬を飲み過ぎたんだと」 「ははぁ」 「いや、すごい剣幕なんだよ」  彼はぶるっと肩をふるわせて、 「まあ、だからおふくろやじーさんばーさん連中が俺に説教したんだな。生きてることにしがみついたら、生きてる人間に迷惑かけるから」 「同じ電車に乗ってて、見つからないんですか?その、女の人に」 「あんた、三両向こうの電車に誰が乗ってるかわかんのかよ?」  幽霊なんだしテレパシー的な、と言おうとして、やめた。 「成仏、しないんですか?」 「成仏って、どうやるんだよ?」  ふむ。 「成仏しよう、って決めたらできるものなんじゃないですか?」 「さあねぇ。あんたはどこに住んでんの?」 「えっ、キサラギ駅の最寄りですけど」  駅から徒歩十分の七階建てアパート。 「げっ、あのしょぼい街か」 「まぁ、クールじゃないですね」 「せっかく人生一度きりなんだし、もっと派手なところに住みたいとは思わないのかよ?六本木ヒルズとか」 「そりゃ、住めれば住みたい」 「な?住みたいだろ?住みたいけど住めないだろ?俺にとっての成仏ってそういうこと」 「なんで、死んだ後もゆっくりできないんですかね」  なんだか、むなしい。 「だって、あなた、過労死ですよ多分。死ぬほど頑張って、死んだ後も電車に乗ってて」 「知らないよ、そんなん」 「あんまりじゃないですか」  僕は思わず爪を噛む。みっともないから、人前ではやらないようにしている。でも、相手は幽霊だ。  ひとごとなのに、むかついてきた。 「だからさ、頑張ったら報われるとか、誰かが見ていてくれるはず、とか。そりゃ、そういうこともあるだろうさ。だけど、そうじゃなかったときにガッカリしちゃいけない」  厳かに、幽霊は言った。  なんで僕は幽霊と座問答してるんだ? 「頑張るなよ、青年。頑張るなら、自分のために頑張れ。頑張るなら、結果を求めるな。結果を求めるなら、計画的にやれ」 「消費者金融みたいですね」 「そうだよ、人生そんなもんだ。消費者金融みたいなもんだ。死んだあと楽しく過ごしたいなら、色んなところに自分の思い出をばらまけ。そしたら、限界がちょっとわかるさ」 「僕、もう限界です」 「だろ?だから、忠告してるんだ。なんでもいいよ。行きたいところがあったら行け。食いたいものあったら食え」 「え、それって」  もしかして。  僕、死ぬんですか? 「僕は、死ぬんですかっ?」  うわっ、びっくりした。  自分で叫んどいて、自分でびっくりした。  ぐるっ、と視界が回る。  がくんとからだが傾いて、慌てて右手に力を入れたら、肩がひどく引っ張られて、ピキッと鳴った。  電車が、揺れている。  僕は、ぎゅうぎゅう詰めの電車で吊革にぶら下がっていた。  そりゃそうだ、終電だからって、都心から下る列車ががら空きだなんてあり得ない。  動悸がしていた。  は、は、と呼吸を整える。  座りたい。  あいにく満席。  僕の前に座っているのは若い女性で、COACHのバッグのかげに忍ばせたスマホをいじりながら、時々警戒心ありありの目線で突き刺してくる。  僕は、目を閉じようとした。  頑張るなよ、と声がした。  はっとした。  ありがとう、大先輩。  冴えないオッサンだなんて言って、ごめんな。  
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