女王様は縛師と邂逅を果たし

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女王様は縛師と邂逅を果たし

第二章 女王様は縛師と邂逅し 「どうする?」  稜の声が、深く潜った思考の底から結衣子を引き上げる。  去りゆく観客を何人もやり過ごすかたわらで、結衣子は浅く掛けた椅子から、釘付けにされたように立てないでいた。  静粛を促すかのように、渡海がそこで頭を下げたのは覚えていた。沸いた拍手の渦の中で、結衣子が手を叩けずにいたのも。稜の隣にいたカップルが立ち上がった際、どかない結衣子を見て肩を竦め、逆方向へきびすを返したのも。 「……どうするもなにもないでしょう」  声を発する準備をしていなかったせいで、変に上擦った。稜は無表情のまま、結衣子の前で右手を広げた。 「余韻に浸る。さくっと帰る。声を掛けられるのを待つ。声を掛けて名刺を渡す」  親指から順に折り、最後に少しもったいぶって、「縛られてみる」と小指まで握る。  結衣子が今抱いている疑問を解決するのなら、縄に訊くのが一番早い。だが、稜の手前それも気が引けた。迷っていると太い息が聞こえ、結衣子はようやく稜と目を合わせる。 「ま、俺は感受性が高くないから、ラストが引っかかったくらいで、結衣子さんが感じてるだろう不満はよくわからないけどね」 「なにも言ってないじゃない」 「言ってるようなものじゃない」  煙に巻くことは得意だが、本心を隠すのは苦手だ。結衣子はしゅん、と眉を下げ、稜を窺う。  男に彼女を連れて行かせたのは演出ではない。彼の私情とみて間違いないだろう。なぜそうなったのか気になりはしたものの、軽々しく立ち入っていいものだとも思えなかった。  ただ、気づいてしまった身としては複雑だ。気づかなかったことにできないから。 「……見たくなかったわ」  頬を渋らせ、ため息交じりに結衣子は言う。 「見たかったんじゃなかった?」 「今日のこれは見たくなかった。人間だから私情に引きずられるのは仕方ないけれど、プロとしては失格よ。甘すぎる。私が主催なら、二人ともステージを降りてもらってるわ。一人で勝手に幕にする緊縛師も、それを許す受け手もね」  口早に言い切ると、彼は無言で先を促した。 「だってもしも彼女が動けないなら、縛師さんが抱いて退場すればいいじゃない。体調不良だとしても、当事者は彼とスタッフよ。外部の人間が介入する必要ある?」  稜が短く唸った。 「まあ、あの人はスタッフっぽくも医者っぽくもなかったな」 「でしょう。少なくとも、私が知ってる緊縛師たちは、こんなステージ見せない。事情があるならショーをやらない選択をするし、私情があっても見せないわ」  彼の実力はがこんなものだとは思えない。期待していたし、現に期待通りでもあったのだ。縛られた瑠衣はたしかに綺麗で、とても幸せそうだった。  こうなった理由があるはずだ。彼に何があったのか、それが喋ってわかるなら迷わず声を掛けにいく。そうではないから結衣子はためらう。 「……私のこれ、よくないと思う?」 「いいともよくないとも思ってるからノーコメント」 「だけどこのステージをよしとするのもよくないと思うの。縛ったあとにあんな顔……哀しいわ」 「それこそ私情だ。相手はプロだよ。口を出すリスクのほうが高いと思うけど」 「私、彼の本気のステージが見たいのよ」  稜の誘導に引き出されるようにして、本心がこぼれ落ちる。 「それが目的?」  目をしっかりと見ながら頷き返すと、稜は呆れたように息を吐いた。 「結衣子さんらしいっちゃらしいけどさあ……」 「縄はね、救いであってほしいの。受け手や縛り手にとってはもちろん、見るひとにとってもね。そうでなきゃ、ショーがある意味も私たちがお店を開ける意味もないじゃない」  結衣子が今しようとしていることが、今すべきではないのはわかっている。結衣子のわがままで、単なる予測で、希望でしかない。それでも結衣子は何度だって、縄に救われてきた。  彼は、これでいいのだろうか。この最終回は、彼と彼女が本当に心から望んだかたちだったのだろうか。  膨れ上がる疑念を見透かしたように、稜が結衣子の背をとん、と押した。 「だったら行こうよ、俺は見てる。でも……」  耳元に迫った唇が、鼓膜にねじ込むようにように囁(ささや)く。 「感じたらお仕置きだ」  結衣子の腹は決まった。  了解の意を込め稜の首筋に口づけ、立ち上がる。壇上にいる緊縛師は、いまだ顔を曇らせたまま、縄の中に座り込んで片づけを始めようとしていた。  まだまばらに観客はいるが、この程度の雑音などさして気にするほどでもない。  なぜ渡海は笑った? なぜ目隠しをした? なぜ男に彼女を預けた?  なのになぜ、取り残されたそのあとで、打ちひしがれたような顔をした?  縄は語る。答えは渡海の縄が教えてくれるはずだ。二人で上がったステージを、一人で去るのは孤独すぎる。  壇上の渡海が床に散らばる縄に手を伸ばした瞬間、 「渡海真幸くん」  結衣子は彼の名を呼び、客席の一番前で足を止めた。  丸腰なのを明示するように両手を広げ、たおやかな笑みを浮かべる。彼の視線をもらえたところで、間髪入れずに挨拶を滑り込ませた。 「はじめまして。倉(くら)本(もと)結(ゆ)衣(い)子(こ)といいます」 「え? あ、……はじめまして」  軽い挨拶にしては、重たく厚みのある声だった。口元こそ綻んでいるものの、鋭い双眸からは隙のない警戒心が窺える。  手強そうな男だと一見して思った。この警戒を解こうとしたところで、きっと徒労に終わるだろう。単刀直入に言う方が早い。 「早速だけど、お願いがあって」  結衣子は一拍息をおき、渡海をじっと見つめて切り出した。 「私を縛ってみてくれる?」  前触れなくこう告げると、初心者も熟練者も関係なく、虚をつかれたような驚きを見せる。彼も例外ではなく、無遠慮な訝しみを結衣子に向けてきた。 「申し訳ないが、俺は一般人は縛らないことにしているんだ」 「あなたの言う『一般人』の定義がなにかわからないけど、私のことなら気にしないでちょうだい」 「あんたが気にしなくても、俺がいやなんだ」 「私もいやなの。さっきのステージ、どうしても気になっちゃって」  大きな一歩で壇上に上ってつかつかと歩み寄り、縄の中に座り込む彼の正面に、背筋を伸ばして立った。  ふいに、それまで会場に満ちていたノイズが遠ざかった。  観客がいきなりステージに上がったせいだろう。懐かしいとすら思う空気だった。しかしそこで結衣子は、渡海が着る着物の独特の光沢に気づいて唇を結んだ。  黒の紬。しかも恐らくは大島紬だ。その風合いに自然と友人の一人を思い浮かべ、まさか、と内心かぶりを振りながらローヒールの赤いブーティを脱ぎ揃える。するとすかさず「なんの真似だ」と渡海に睨まれた。彼の放つ雰囲気が一気にひりついた。  まるで獣だ。だが生憎、その手合いには慣れている。結衣子は肩から流れ落ちたウェーブヘアをかき上げて畳に残る縄を一瞥し、ムスッとする渡海に悠々と向き直った。 「準備に決まってるでしょう。あなたもそのあいだに用意してくれるかしら、渡海くん」 「は? 用意だと?」 「ええ。後手でいいわ。縄は二、三本もあれば十分」 「後手でいいって、あんた……一体……」  通りすがりの女王様(ミストレス)。  喉まで出かかったからかい文句を飲み込み、結衣子はもう一度ほほ笑んだ。 「緊縛は同意が原則。私のほうは十全よ。遊びで命を懸けるほど、生き急いでないわ」  渡海は目を細めていたが、それでも少しだけ険がとれた。これで断られるならおとなしく引き下がる気でいたが、その必要はなさそうだ。  髪を手ぐしで束ね、ヘアクリップで纏め上げた。まぶたを閉じ、組んだ両手を天井に突き上げぐっと伸ばす。  勝手にストレッチを続けていると、縄をしごく音が聞こえてきて、薄目をあけた。探るような渡海の瞳に、瑛二を思い起こす底深い光を感じてしまう。 「……あのパートナーさんのこと、あなた、とても苦しそうに縛ってたんだもの。彼女に失恋でもしたのかと思うくらい」  彼の心の柔らかそうな部分をそっとつつくと、彼の眉根が一瞬寄った。  結衣子は脱ぎたたんだジャケットを畳に置き、グレンチェックのワンピースのボウタイをすっと解く。  しかしその下のボタンを外し始めたところで、渡海があからさまにぎょっとした。 「おいちょっと待て! なんで脱ぐんだよ!」 「あら、服を着てたら縄の感触がわからないじゃない」 「だからってここで脱ぐのかよ! つーか、あれ! あいつはいいのか?」  慌てた様子で彼が指差した先には、平然とした様子で姿勢よく立つ稜がいる。その奥に、興味深そうにこちらを窺う観客も数人いた。  結衣子は着々とボタンを外しながら、思い出したように「ああ」とこぼした。 「ご心配には及ばないわ。彼、私の夫なの」 「は? 夫? 夫ならなおさら……」  唖然とする渡海に笑いかけ、ワンピースを肩から落とす。輪になったそこから跳ねるように脱すれば、あとはもう下着の上下と、ガーターベルトに繋がれた薄い黒のストッキングだけだ。  背にやった片手でホックを弾く。支えを失った肉がこぼれ、恥じらいに頬が解けた。  その顔のまま、結衣子は稜に向かって、薄桃色のレースに彩られたブラジャーを摘んだ手をひらりとさせる。稜もほほ笑んで手を振り返してきた。  指を開いてそれを床に落とし、得意げな顔で渡海を振り返る。 「この通り。ね?」 「随分心が広いんだな、あんたの愛する旦那様は。今日会ったばかりの男が裸の妻を縛ることを許すくらいだから」 「ええ、とっても広いわ。ねぇ、稜くん」 「あんまり買い被らないでほしいんだけどな」  皮肉を朗らかに流して稜に振ると、彼がクッと喉奥を鳴らす。それから改まったように、稜は渡海と顔を合わせた。 「渡海さん。俺はここで見てるんで、彼女、縛ってあげてください。そしたら全部わかるからさ」 「本当にいいのか? トラブルはマジでごめんなんだ」 「お構いなく。対処はこっちも心得てる」  目を鋭く光らせた彼は、脅しじみた口ぶりでそう言い放ち、アリーナに陣取った。まるで専属の用心棒だ。  縄をしごく音がやんだ。結衣子は畳に腰を落ち着け脚を流す。と、ボディチェックのために肩に触れた渡海から、苦手なあの匂いがかすかにした。 「スモーカーさんなの」  これがいやで、自らの店を持ったほどだ。「常習ではなさそうだけど。どんなときに吸うのかしら」  何気ない素振りで尋ねたが、渡海は今にも舌打ちしそうな顔で結衣子を睨みつけてくる。  結衣子は眉を上げた。 「ふうん。即答できないような心境のときね」  慎重で気遣い屋。自信があるようでどこか臆病。だが最も明瞭なのは、感情を強い理性でねじ伏せる傾向があるところだろうか。内心では怒りのまま、結衣子を締め出したいだろう。これまでの会話や仕草、態度から、結衣子は渡海の人物像を整理する。  躰の確認もひと通り終わった。これだけの技量の持ち主を読める機会はめったにない。心身ともに力を抜き、両手を背に回す。  腕を取られた。そこへ続けざまに、まさかと打ち消したはずの情報が入ってきた。手首に麻縄が掛かった瞬間、よく知っている縛りであることを直感したのだ。  あの縄は瑛二の縄と同様、忘れようがない。結衣子が間違うはずもなかった。  この縛りのくせと、黒大島。あの緊縛師の『彼』の弟子だろう。  記憶の中にある同じ感触を手繰り寄せ、追従してみる。なのに渡海の縛りは記憶に反して、ボタンを掛け違えたようにずれていく。腕へのテンションも、縄の引き方も留め方もまるで違う。  試しに身じろいでみたものの、特徴であるはずの絞られる感覚もない。実に基礎的で無味乾燥としている。  もしも『彼』の教えに忠実ならばこうはならない。『彼』は、緊縛の中でもハードな部類の責め縄の縛り手で、縛りそのものに個性を求めるからだ。  先ほどのステージでも、責め縄らしいものはさほどなかった。着物はしっかりと着付けたまま、胸のひとつも露出していない。脚も、目すらも隠されていた。渡海はどこまでも、彼女を大切に扱っていた。  もしかしたらそれらは、彼なりの気遣いだったのだろうか。彼女への。彼女を連れて去ったあの男への。ありえない話ではない。本来素肌は、大切であればあるほど隠すべきものだ。  しかし、仮にもプロである緊縛師が、観客がいるステージの上でやることではない。観客を置き去りにして、自己満足の幕引きをして、一人で頭を下げられたところで手は叩けない。  腹が立った理由がわかった。渡海は気遣いをはき違えている。これは紛れもなく彼の甘さだ。  しかも今また渡海は、同じことを繰り返そうとしている。  勝手にステージに上がったとはいえ、稜も同意を示し、結衣子は衣服を脱ぎ去った。その上で渡海は縄を握った。真剣に向き合ってくれなければ肌を晒した甲斐がない。  なのにこの期に及んで、まだ気を回す余裕があるなんて。  だとしたらそんなもの、いらぬ世話だ。 「ねえ」  癪に障って冷えた声で呼び掛けると、渡海の顔が上がる気配がした。 「さっきからなあに? くすぐってるの?」  からかい口調で水を差す。無礼は承知の上だ。不興を買うのも一興だろう。 「なんだって?」  固くなった声音と覗き見てきた瞳の中に、明らかな怒気が混ざる。  緊縛は、命と誇りの応酬だ。気心の知れた相手であれば茶化すのも戯れになるところだが、初対面ではそうもいかない。それでも結衣子は鼻を鳴らし、不敵に笑って渡海を誘う。  これまで瑛二や『彼』を含め、この身一つで何度もこうして緊縛師の前に肌を晒し、縄を教えてくれと嘆願し、縄と自身と受け手に向き合ってきた。そのうえで、愛する男の前で好意を寄せた男に縛られ、好意を寄せた男の前で愛する男に抱かれてきたのだ。  命を削った場数が違う。 「仲(なか)秋(あき)先生から、あなたはなにを学んだのかしら」  返事はない。代わりに縄がぐっと締まり、結衣子は一瞬息を詰めた。 「……はじめからそうなさいな」  縛り手が乗ってはじめて緊縛は始まる。教科書どおりの利口な縛りよりずっといい。 「わかるのかよ……」  渡海が不愉快そうな低い声でぼそっと告げる。 「わかるわよ。彼もさっき、そう言ったでしょう」  声のトーンを落ち着かせた結衣子は、顎をしゃくって稜を示した。稜は竦めた首をひと振りした。 「縄は語り部だもの。それにしても……」  縄を受けながら、早くもどこか疲れていることに気づく。額に汗を、肌と呼気に熱を感じる。その理由もわかっていた。 「軽口叩く割に、なんて重い縄……」  締めつけだけではない、そうとしか表現できない圧を感じる。 「慈しむべきものがなにかちゃんとわかっているのに、それを自分から遠ざけようとしてるみたい……。ありたい自分となれない自分……折り合いがついていないよう」  矛盾よりは拒絶に近く、その割に執着は悩ましいほど。重さの理由に当たりをつけて、深い息を言葉に混ぜる。  背後から抱きしめられるようにしながら掛かる縄に身構えた。胸縄に乳房をくびられ、呼吸が徐々に浅くなる。 「……っ、く」  腕前は見事のひと言に尽きた。漏れ出る息や声が、勝手に艶っぽくなる。だが一方で、違和感もあった。  結衣子が縄を語りだしてから、渡海から声が消えた。気遣いらしいものは感じるが、言葉はない。結衣子の前に出てこようとする気配もなかった。  表情が窺えない。とにかく結衣子を見ようとしないのだ。かといって、後ろを見やるのも忍びない気がした。彼はじっと押し黙ったまま、上半身を飾っていく。  しかしなぜだろう、それだけだ。当初重たく感じたものが、実を伴っていかない。閂(かんぬき)がさされて締まるたび圧迫感や窮屈感は襲いくるのに、奥にあるものが見えてこない。  その違和感の正体は――。 「……空っぽ?」  呟くように口にした瞬間、縄を繰(く)っていた渡海の手がぴたりと止まった。同時に、結衣子の中でも腹落ちした。平静を装ったように続きは再開されたが、確信はますます強くなった。  瑛二の縄はとても雄弁だ。野心もあるし欲望も強い。緊縛という行為が瑛二の所有欲に根ざしているだけに、当然の結果と言えた。  稜もそうだ。瑛二とは異なる、虎視眈々とした意志がある。遥香も、うちに沁み入るような優しさを緊縛の縄に乗せている。  だが、渡海の縄は違う。明確な核を感じないのだ。  初対面の者同士である以上、なんら特別な感情はない。とはいえ縄は正直だ。経験上それは揺るぎなかった。 「たしかに縄は私を縛っているのに……」  最後の留めに入ったにもかかわらず、躰に巻き付いたそれに手応えはない。  抱きしめようとする意志は感じるものの、まるで実体をなくしたように腕も縄も素通りしていく。あるはずなのに、なぜかない。  もしかしたら彼は、結衣子ではなく。 「あなた、一体誰を縛ってるの?」  おぼろげに浮かんだ疑問が頭を介さぬうちに言葉がとしてこぼれ、結衣子は慌てて口を噤んだ。  余計なことを言ったかもしれない。恐る恐る背後を見やったが、渡海は真顔で黙り込んでいる。  彼の縛りは最後まで紳士的だった。普通ならば、十分に感じ入るものだろう。先ほどの瑠衣の姿がそれを物語っている。  だけれど今は?  これまで読んできた中で、こんな空虚な緊縛をした者はいなかった。縄を手にする者は、どうしようもない『理由』を抱えていることがほとんどなのに。  無論、あくまで結衣子がそう感じたに過ぎない。だがもしも真実ならば、なんて。  ――なんて、さみしい縄だろう。 「……解いてくれる?」  絞り出した声が掠れかけて、不自然にならないようゆっくりと天井を仰いだ。舞台を照らすライトが滲み、深く目を閉じる。  縄が躰から剥がれていくごとに目頭の熱は取れていったが、堪えたせいか呼吸は荒くなった。  これは、彼には伝えないでおこう。彼のさみしさは、結衣子が触れるべきではない。  すべての麻縄が肌からなくなり、結衣子は腕に刻まれた赤い縄痕を、目と指先で辿る。しかしそれだけでは飽き足らず、両腕を深く抱きかかえた。まるで渡海を抱きしめているような気分だった。  細く長い息を吐いて、肺に残る空気のすべてを出しきる。  涙は引いた。贈るべき言葉もある。結衣子は渡海を振り返って居住まいをただした。 「どうもありがとう、渡海くん。謎がとけたわ。腕前も十分わかった」 「俺はそんなたいした腕はねえよ。それよりあんた、大丈夫か?」  ぶっきらぼうに訊いてきた渡海に、「大丈夫」と頷く。渡海はそれでもまだどこか浮かない顔で、結衣子を縛った縄をしごいていた。  今度は失言しないよう、結衣子は慎重に言葉を引き寄せる。  渡海のパートナーは、瑠衣だけである。それが変化し、物語の終章として、瑠衣をあの男に託して幕を下ろし、空になった。砂時計の砂が落ちきるように行き着く場所へとたどり着いた。  だとしたら先ほどのステージは、渡海にとって、たしかに最終回だったのだろう。結果が結衣子に対するこの縛りだ。  想像に過ぎないが辻褄は合う。それでも結衣子の中には一つ、底に落ちずに張り付いたままの砂粒があった。 「渡海くん。ひとつ教えてほしいことがあるの」  残った最後のひと粒を、結衣子は静かに渡海に投げかける。 「あなたの緊縛のポリシーはなに?」  まるで、「愛は英語でなに?」とでも問うように。答えを持ち合わせていれば、当然返ってくると知っている上で訊いた。  ポリシー――信条は縛りに性格を持たせ、縄を握る者を支えてくれる。  渡海の唇が開きかけたが、返事はない。呼吸する手順を忘れてしまったかのように静かだった。心許なさげに視線がステージをさまよう様子は、答えを探しているようでもあった。  結衣子が平静なまなざしを渡海へ向けると、彼はかろうじて結衣子へ目を戻した。虚無ともとれる表情が、すべてを物語っていた。 「……そう、わかった」  やはりさみしさの正体は見なかったことにしよう。再び自分に言い聞かせ、結衣子は伏し目がちに笑い、立ち上がる。  その気になればいつか気づく。今できるのは立ち去ることだけだ。  ジャケットに袖を通したところでふと、渡海の視線を感じた。それを絡め取って、結衣子は毅然として言った。 「たいした腕はないなんて、謙遜しないで。これだけ縛れる人は数少ない。だけど渡海くんは、プロの緊縛師としては失格だわ」 「――!」 「私情でステージを使ったでしょう」  鞭打つようにぴしゃりと告げる。すると結衣子を睨んでいた渡海が、怯んだように息を詰まらせた。 「気づいた人はほとんどいないかもしれないけど、どんな事情があったにせよ、見せられたこっちは堪らないわ。二人でステージに上がったのに、一人で幕を下ろしておしまいなんて、それであなたは緊縛師っていえる?」  自覚があったのか、渡海は悔しげな表情になり、すっかり唇を結んでしまった。  いやな気分を残していくのは本意ではない。結衣子は、説教の終わりを告げるようにぱっと表情を明るくして、「なぜわかったか知りたい?」と、いたずらっぽく覗き込む。渡海はさっと視線を外し、頭をかきながらため息を吐いた。 「別に……」  言い捨てられたそれが拗ねた子どもの言い草にも聞こえ、結衣子は吹き出しそうになった。  せっかくできた縄の縁だ。これでお別れというのは惜しい。ヘアクリップを抜いた頭を軽く振って髪をならしたあと、ジャケットの胸元に入れていた名刺入れを開いた。8 Knotの赤いショップカードと、自身の名刺を一枚ずつ取って渡海にそっと突き出す。 「フェティッシュバー?」 「ええ。私のお城よ。私と稜くんはそこにいる」  カードには結衣子の正体も記してある。それらを一瞥した渡海が、結衣子に対して抱いていたであろう疑問がとけたような顔をした。 「そういうことね……」 「いらしてくれたらごちそうするわ。稜くん特製のオリジナルカクテルは絶品だし、ウイスキーの品揃えにも自信あるの。ただし、禁煙だけど」 「その手の店なのにか? 肩身が狭くなったもんだな」 「しょうがないでしょ、煙草苦手なのよ。で、もしお店に来たら、今度はちゃんと、私を縛ってちょうだいね」  胸元に手をやり笑顔で『私』を強調してから、結衣子は渡海に背を向けブーティを履く。にこやかに歩み寄った稜が差し伸べた手を借り、ステージを降りる。 「帰りましょう」  結衣子が歩き出そうとしたその時、稜が突然「あ」と思いついたように声を上げ、ステージを振り返った。 「渡海さん。彼女を縛った縄、貰えません?」  今度は結衣子がぎょっとする番だった。 「ちょ、ちょっと、稜くん?」 「さすがに持ってきてなかったからさ。ちょうどよかった」 「ちょうどってなにが――」  訊きかけたが、聞くまでもない。この旅に持ってきていなかった縄を手にした彼が、何をするかなど明らかだ。  しかもそれが渡海に知られる。そう思うと、引きつった頬が熱くなった。捕まえようと伸ばした手はあっさりとかわされ、渡海の前へ逃げられてしまう。 「本当に心が広い旦那だな」  嫌味っぽく言った渡海は、したり顔で結衣子を見たあと、束ねた縄を稜に差し出した。 「やだっ、渡海く――!」 「だから買い被りだって。仕事柄見慣れているけどさ、別に許すとは言ってない」 「稜くんっ!」  渡海に言った台詞は結衣子に聞かせているようでもあって、結衣子は声を張り上げた。が、聞き届けられるわけもない。  やがて押し寄せた諦めに思わず両手で顔を覆い、深々とため息を吐く。途端にその場にいるのもいやになって、そっぽを向き、逃げるように距離を取った。ステージで彼らが勝手に続けている会話も、耳に入れたくなかった。 「どうもありがとう、渡海さん。店に来てくれたら、その時返します」 「返さなくてもいい。まだ縄はあるから」  話が済んだのか、こちらへ向かってきた稜の靴音に顔だけ振り返る。彼の肩越しに見たステージで、渡海がにやっと口角を上げていて、きまり悪さに情けなくなった。 「これで貸し借りチャラだ。行こう、結衣子さん」  腰に添えた手に否応なく促される。文句を言おうとしたが、向かいから歩いてきた三人の男女が視界に入り、口を閉ざした。  すれ違いざま、ベージュのトレンチコートを着た女が、不安そうなまなざしを結衣子によこす。視線が重なり、結衣子が微笑を浮かべると、彼女は曖昧な笑顔で小さく頭を下げた。  ステージは終わっている。日本人だし、こちらも渡海の関係者かもしれない。振り返りたい野次馬心に見舞われたが、稜の手はそれを許す気はないようだった。  はあっと息をもらし、結衣子は頬をむくれさせる。 「……貸しも借りも作ってないわよ」 「結衣子さんはそれでいいよ」  稜が片目をすがめ、意味深な笑みを浮かべて言った。観客として、用心棒として。見ていた彼も、何か思うことがあったのだろうか。  日本のどこかのステージで。あるいは8 Knotやabyss 9で。できるならまた渡海にまみえたい。そんな思いを胸に抱きとめて、結衣子は会場をあとにした。 この続きは書籍にてお楽しみください https://amzn.to/3LrczjH
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