女王様の旅は蛇を従えて

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女王様の旅は蛇を従えて

 フロアにつながるカーテンを、結衣子(ゆいこ)はさっと開けた。  光沢のある青いビスチェと深いスリット入りのミニスカートという出で立ちで、ハイヒールをカツカツと鳴らす。胸には夕方届いたばかりの白い箱をかかえていた。  開店三十分前。ブリーフィングのためソファ席に集まった皆が口々に挨拶を告げるのを、満遍なく見回す。視界の端に、飾り付けられたクリスマスツリーの大きな緑が入り込む。  フェティッシュバー・8(エイト) Knot(ノツト)の今日のシフトは、ミストレスが五人、M嬢が四人。それから二人のバーテンダーだ。  スツールのひとつに掛けて箱を膝の上に置き、結衣子はにこりと笑って口を開いた。 「おはようございます。今日はみんなへのお知らせからね。来年二月にオープンする姉妹店の、看板ができましたぁ!」  皆の注目をたっぷり集め、箱からダークブラウンの塊を持ち上げて胸の前に掲げる。  真鍮製の板に、スクリプト体で浮き彫りになった『abyss 9』の文字と縁を飾る麻縄模様。その端にシェル製の青い蝶が、一匹とまっている。  オーナー兼トップミストレスとして銀座に店を構え、五年。そのうちの一年半を掛けて進めてきた、二店舗目の顔となる看板だ。覗き込んでくる皆に向かって結衣子がうきうきと披露していると、その輪から少し距離を取って立っているバーテンダーの一人で、夫でもある稜(りよう)の肩が揺れるのが見えた。 「アビス、ナイン?」  首を捻りながら尋ねた真(ま)琴(こと)に、結衣子は「正解!」と指を鳴らす。  上品に妖しく。結衣子が依頼したデザインが鋳造所に回り、でき上がったそれが結衣子の手元にやってきたのは、つい二時間前のことだ。 「アビスの意味は『深い穴』。麻って意味のCANNABIS(キヤナビス)にもかけたの。数字の9は苦を連想させる忌み数だけど、永久とか完全とか太陽とかいろんないわれもあるし。でもまあ……語感が一番ね」  ついでに箱の中に入れていた内装のイメージ写真も取り出して見せる。  8 Knotから徒歩二分、雑居ビルの地下一階。ダークグレー基調の店内は、8 Knotに比べれば狭い。カウンターは三席だけで、酒類も多くは置かない。廃墟ふうで、コンクリートとダクトはむき出しのまま。そこにショーが開ける程度のステージがある。  コンセプトは、『ロープアートバー』。予約制と開放日を設け、縛ってほしい者を縛り、縛りたい者の縄を受け、講習も開き、希望に応じて撮影をする。緊縛への密やかな欲望を胸に抱く者のための場所だ。 「店主は瑛二(えいじ)くん遥香(はるか)ちゃんの二人。お店の雰囲気はさしずめ『アナグラ』、ってとこかしら」  姉妹店ということで、リーダー格である真琴を店長に立て、違う土地で同じようなフェティッシュバーを、という案もあった。だが縄に特化したバーがあってもいいと、皆も交え話し合って決めた。  店主として名乗りを上げたのは、8 Knotに出入りをしている結衣子の友人の、緊縛師でありフォトグラファーもしている千(せん)堂(どう)瑛(えい)二(じ)と、その弟子でパートナーの前(まえ)嶋(じま)遥(はる)香(か)である。 「オープンは二月十日。この日は私は不在にするから、ここは真琴ちゃんよろしくね」 「はい」  申し出は嬉しいけれど、この店が好きだから。  結衣子の提案をすまなそうに、それでもはにかんで断った真琴が、力強く返事をした。結衣子は彼女にほほ笑みかけ、また話題をぱっと切り替える。 「で、もうひとつ。これも前から相談していた件だけど」  稜に目配せをすると、彼は流した前髪からわずかに覗く眉を少しだけ上げた。  皆が一斉ににやにやし出す。手を口もとに添えたカナが「ひゅーひゅー」とはやし立て、拍手が起こる。三か月前から仲間入りしたバーテンダーの迅(じん)がぴゅうっと指笛を吹き、笑いも沸いた。  からかう声が続く中、結衣子は降参するように顔の横に両手を上げ、緩んだ頬をうまく戻せないまま最後の報告を告げた。 「私と稜くん、明日からドイツに一週間、新婚旅行に行ってきます」  赤と緑と白と、賑やかに行き交う多くの人々。十二月二十四日のベルリンの街は、どこを見てもクリスマス一色だ。ショップやレストラン、家々の至るところでサンタクロースが顔を覗かせ、きらびやかで大きなツリーを囲うようにして、クリスマスマーケットのちんまりとした屋台が軒を連ねている。  ツリーのオーナメントにクッキー、ハンドクリーム。あちこちに目移りしてばかりで、結衣子の腕は何度稜に引かれたかわからない。しまいには呆れた稜に「ここ」と赤革の手袋越しに二の腕を掴まされた。  買い込んだ雑貨を詰めたトートバッグを振りながら石畳を歩いていると、ランチを食べたあとにもかかわらず、ふわりと漂ってきた甘い匂いに気を取られた。  鼻をひくつかせ、結衣子は大きく息を吸う。肺まで突き刺さりそうな冷たい空気に混じって、スパイスの効いたフルーティな香りがする。  数軒先の露店のカウンターに、かわいらしいマグカップがたくさん並べてあった。絵柄はひとつとして同じものはない。柔らかな湯気も舞い上がっている。匂いの元はそこのようだ。  掴まっていた稜の腕から手を離し、小走りで駆ける。覗いてみれば、白髪の老女が大きな寸胴に入ったグリューワインを木べらでかき混ぜていた。  もう一度香りを吸い込む。赤ワインとスパイスの絶妙な組み合わせにため息をもらすと、顔を上げた老女が鷲鼻を鳴らし、くしゃくしゃの顔にさらに皺を寄せて笑った。 「まーたそうやってフラフラどっか行って……」  背後に立った稜に頭上からぼそりと咎められ、結衣子は舌を出した。 「だって、素敵なものばっかりなんだもの」 「迷子になっても知らないよ。三時に行きたいところがあるって言ってたよね」 「そうだけど、迷わないほうが無理あるわ。いっそ卑怯よね、そそるものばっかり」 「わかったから、好きなカップ二個選んで」 「さらっと難しいこと言わないでちょうだい」  グリューワインはデポジット式だ。選んだカップは返せば返金されるし、そのまま持ち帰ることもできる。結衣子が後者のつもりでいることを、稜は把握しているらしい。  唇を尖らせ、二個、二個と呟きながら並ぶマグカップを睨む。  雪遊びをする小さなサンタクロースたちが描かれたそれのキュートさに、心を奪われた。それから、プレゼントリレーをするサンタクロースとトナカイたち。  それぞれを手にして稜を振り返る。すると彼は笑みを浮かべ、チェスターコートの胸ポケットから財布を出した。  広場の一角に設けられたテーブルに隣り合って座り、両手で持ったカップを傾ける。優しくのどかな甘さのワインだった。 「おいしい、あったまる……」  グリューワインは家庭それぞれの味があると聞く。香辛料の配合や使うフルーツが異なり、まるで魔女のレシピのようだ。 「オレンジ、レモン、シナモンに、ナツメグとクローブとか? 元が安ワインでいいから手軽だよね」 「作ってくれるの?」 「結衣子さんの好きそうな味だもん。スパイスミックス買っていこう」  やった、と小さく声に出した。結衣子の胃袋は、彼の手にしっかりと掴まれている。  稜がコートの袖を少し引き上げ時計を見た。一時を少し回った頃だった。 「で、このあと行きたいところって?」 「そうそう。泊まってるリッツのそばなんだけどね、『クラブゼロ』っていうバー」  結衣子はスマホをさっと操作する。スクリーンショットで撮っておいたSNSの記事を出し、稜に見えるよう傾けた。 「8 Knotのステージに立ってくれそうな緊縛師を調べていた時にね、この彼を知ったの。渡(と)海(かい)真(ま)幸(さき)」  暗がりで麻縄を手繰る男がそこに映っている。ショー中のライティングのせいで表情はほとんど窺えないが、整った顔立ちなのはたしかだった。 「とかい? 聞いたことないな」 「海外での活動が多くて、日本じゃほとんど無名なのよ。これまでも有名な縄師さんの前座やショーパブのワンパートとかが多くて。機会があれば会ってみたかったんだけどね。だから十月に日本に戻るって知ってチケット取ろうとしてたのに、気づいたら完売」 「そんなすごい人なの?」 「それがわからないから見たかったのよ。受け手は緊縛モデルの瑠(る)衣(い)。ペア歴三年のうちにコアなファンを獲得してるみたいだし、取れてよかった。新婚旅行のネタとしてもなかなかでしょう」  ネタね、と稜が苦笑し、ワインを飲み干した。 「それにしても、バーテンダー増やしてくれてよかった。安心して休める」 「ほんとよねえ、それもM男くん。みんなも普通にドリンク作ってくれちゃうからいいかなって甘えてたけど、専任は心強いわ」 「あとどのくらい増やす気でいる?」  急に真剣な顔で尋ねてきた稜に、結衣子は思わずにやっと口角を上げた。 「お店のこと? それとも人?」 「てことはどっちも考えてるんだ」  鼻を鳴らした稜に、結衣子もふっと息を吐いた。相変わらず、妙なタイミングで鋭く切り込んでくる。 「もちろんよ。お店はね、もう二店くらいなら持てるかなって思ってる。そのための人も集めるわ」 「で、いずれミストレスを引退して経営に?」 「そうね」 「みんな結衣子さんと一緒に働きたいと思っていそうだけど。この手の店で、キャストの入れ替わりがほとんどないの珍しいよ」  首を傾げた稜をほほ笑んでやり過ごし、冷め始めてきたワインをひと口含んだ。 「一度みんなが、自分の身の振り方置き方を考えるきっかけが必要だと思うの」  結衣子自身、もうすぐ三十半ばに差し掛かる。若々しさを保つ努力はしているとはいえ、いつかは衰える。そのときのための準備でもあった。 「それでも働きたいって思ってくれるならうれしいし、違うなら応援したいじゃない。アビスを緊縛のお店にしたのはあったらいいな、って思ったからだったけど、『やりたい』って名乗りをあげたのは瑛二くんと遥香ちゃんだわ。うちの子たちの誰かがそう言ってくれてもよかった」  皆、どこへ出しても恥ずかしくない者たちだ。薄く目を伏せ、結衣子は静かに告げる。 「居場所は自分で見つけるものでしょう。私が稜くんと結婚したみたいにね」   リッツ・カールトン・ベルリンを素通りしてまもなく、廃墟のような建物が見えてきた。屈強な強面の男が二人、ドアの両脇を固めている。スマホに表示させたチケットを見せそこを抜けた先に、ロッカールームがあった。  雰囲気にどことなく既視感を覚えていると、「ハプバーみたい」と稜が小声で呟いた。 「同じこと思ったわ」  くすくすと笑いながらコートと荷物をしまい、会場内に入る。外観はもとより、中身も廃墟をそのまま使ったようだった。  早めに着いたため、ステージがよく見える前方中央の座席に座ることができた。舞台中央に畳がはめ込まれており、その上に竹製の吊り床が置いてある。  時間を追うごとに席はどんどん埋まり、立ち見の客も現れ始めた。落ち着いた余裕のある大人とカップルが多い。ステージ特有の熱気と圧が背後から迫ってくる。  ざわざわとする会場を結衣子が見渡していると、ふっ、と照明が落ちた。  拍手は起こらない。畳をしとやかに擦る音がすぐに入ったせいか、皆息を飲んでいる。暗がりの中、現れた人影は竹竿の真下に座して頭を垂れたとき、床を這うようなアコースティックギターが流れ始めた。  もう一つの人影が瑠衣の背後から現れた。  一歩ずつ迫りくるたびに、存在の密度が増す。音楽とも相まって、緊張感がゆるやかに広がっていく。しかしそのゆるさを断ずるように、ばさりと縄が床を打ち、照明が灯った。  白い着物で頭を下げたままの瑠衣と、その背後に立つ渡海が煌々と照らされる。  結衣子の想像通り、整った顔立ちの男だった。陰のある表情と醸し出す雰囲気に、彼女と対象的な黒の着物が似合う。  瑛二との違いがすでに顕著だ。歳も近いせいか、つい比べてしまう自身を内心自嘲気味に笑っていたその時、無表情で客席を一瞥した渡海の視線がふと、一点に注がれた。わずかに笑ったように見えた。  上がった口端の理由を知りたくて、結衣子は視線の先を追う。やや後方、立ち見客の中。黒いコートに身を隠すようにして立つ、日本人らしき男がいた。 「結衣子さん?」  隣からの呼びかけにはっとしてステージへ首を戻すと、瑠衣の頭はすでに上がっていた。彼女の目には、これも渡海の演出なのか、黒布で目隠しがされている。だが彼女よりも、結衣子の興味は俄然渡海へと向いた。  結衣子は知っている。渡海のあの視線の意味を。緊縛師が抱く感情の正体を。  かつて、瑛二にそれを見たことがある。暑い夏の日、結衣子の生家をリノベーションしたアトリエで、稜に対し、結衣子を受け手に自らの前で「緊縛してみろ」と告げた時の目。挑戦者を待ち受ける者の目だ。  彼は、一体何者なのだろう。因縁でもあるのだろうか。  渡海はすでに切り替えたようで、瑠衣を後ろから抱きしめる表情は優しいものに、抱擁を解くころには無表情に変わった。  瑠衣の腕を背に回し、着物の上から後手に縛り上げる。そのまま腕、胸へとかけた縄は、背に戻って留められた。  渡海が創り出す世界のムードに浸りながら、結衣子は縄に挟まれくびり出る胸を見た。  初めて緊縛写真にまみえたのは、小学校高学年の頃だ。今の立場こそミストレスだが、結衣子の本来の癖は正反対である。すでにそれが芽生えていた思春期の少女の目を釘付けにしたのが、着物の女にかけられた胸縄だった。  たわわな胸の柔らかさを強調するように、モデルの肉に食い込む麻縄。痛いのか、苦しいのか、気持ちいいのか。感覚を追い求め、膨らみ始めた自身の胸で、縄跳びを使ってやってみたことがある。が、結果よくわからぬまま、憧れだけが募った。  渡海の縄には、そんな憧れを抱くような美しさを感じた。野性的で生々しい瑛二の縄とはまるで違う。  上体に足された縄が竹竿に掛かり、渡海が力強く縄を引いた。ゆっくりと瑠衣の躰が持ち上がる。畳についていた足が徐々にそこを離れていくと、白無地の裾から白足袋が見えた。  裾を割って露わになった左脚。その先で白い薄布が、瑠衣の秘めやかなところを隠している。渡海は客席に見るともなく視線をやってから、左脚に縄を巻いていく。継ぎ足した縄を竹竿に掛け、それも引いた。  瑠衣の躰が宙に浮いた。右も同様に折られ、結ばれた。儚げな彼女の身を、縄だけが支えていた。  渡海が上体を繋ぐ縄をさらに手繰った。竹竿に括られた縄も寄せられ、彼女の背はもっときつく弓なりにしなる。  彼女はひとついなないて、呼吸を一層苦しそうにさせた。逆海老反りになった躰は、激しくなったギターのアルペジオに弾かれるように、ゆうらりと揺らめいている。  結衣子は膝の上で手を握った。もう間もなくステージも終わりを迎えるのだろう。BGMがなだらかな音調になるとともに、渡海は縄を緩め、瑠衣の上体を少しずつ下ろしていく。  脚の縄が彼女の躰のほとんどを支える状態になったところで、渡海は彼女のまとめ髪をほどき、新たな縄を巻きつけた。  髪をくくった縄が足首の縄へ繋がれ、瑠衣がひと際大きな呻きをあげた。  髪縛りは結衣子もされた経験がある。喉が反るせいで、息苦しさは生半可なものではない。しかも一度躰が弛緩したあとだと、なおさらつらさが増す。知っているだけに眉間にもつい力が入る。  しかしそこで渡海もなぜか、苦しそうな表情を見せた。  立ち上がった渡海とほとんど変わらぬ高さに瑠衣の顔があった。その頬に渡海は触れ、寂しそうに笑った。  始まったショーが終わりを迎える。そのはずなのに、結衣子は覚えた違和感を拭えないでいた。  ステージ、構成、演出、ストーリー、起承転結。いつものように始まった連想ゲームは、瑛二がかつて刊行した写真集で結衣子の一枚に添えられた『結』の一文字にたどり着いた。 「ドラマの最終回……」  口の中で呟いてみると、その答えは舌の上で馴染み腑に落ちていく。 「なにか言った?」  尋ねた稜を見ず、結衣子は首だけ横に振る。だが答えはより確信に近づいた。  あらすじも何も知らずドラマの最終回をいきなり見せられたら、きっとこんな気分になるだろう。  すでに畳に降りていた瑠衣から、縄が丁寧に解かれていく。その様子だけで、彼女が彼に、とても大切に扱われているとわかる。  乱れた襟元を渡海は手繰るように直し、瑠衣を抱きしめた。まぶたをきつく閉じ、彼女の肩に顔を埋めるさまは、涙を堪えているようにも見えた。  最終回。始まりも盛り上がりもカタルシスも、今となっては知ることはできない。終わりゆくBGMにつられて消化不良のまま、物語は閉じようとしている。結衣子の感じた『最終回』の印象は、ますます色を濃くした。  顔を上げた渡海が客席に視線を投げ、顎をしゃくる。すると黒いコートの男が、弾かれたように前方へと駆け出した。ステージ開始時、渡海が見ていた男だった。  男は、何事かと辺りの者がそばだつ中で、整いきらない着物に目隠し姿のままの彼女を横抱きにした。すぐさまコートを翻し、結衣子の横を通り抜けていく。  トラブルには見えない。ぐったりとしているのも恐らく縄酔いのせいだ。  周囲の不審そうな声と視線がそれを追いかけていったが、結衣子の目は、今度はステージで男の背を見送る渡海を見つめていた。先ほどまでの真剣な緊縛師から一転、畳の上の彼はまるで、母親に取り残された子どものようだった。
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