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   男を引き摺り込んだのは、少女の意志ではなかった。  偏に、男の選択だった。  ここに、一人の少女と一人の男がいる。場所は洞穴で、気の遠くなるような歳月を掛け、自然に出来たものだろう。壁が幾つもの層になっていて、そう言う、印象だった。  男は洞穴の広くなった中心、天井部に穴が開いて光が差すところにいた。ぽつんと置かれた椅子へ、後ろ手に上半身をぎっちり縄で括り付けられている。少女は、正面からそれを見ている。否。  少女は見てなどいない。見られないのだ。少女の双眸は両方潰されているのだから。目が在った部分は、焼いて溶けてくっ付いたような傷になっていた。 「……ぅ」  男が顔を上げた。ガタイの良さと顔に刻まれた皺、少々の目立たない傷。強面では在るが、若いころはモテたのだろう中年の男だった。ともすれば今もかもしれない。そんな風貌だ。男は少女を見遣った。  少女は、きょとんとしていた。男が静かだったからだ。  視覚は無いが、少女は全体を把握出来た。それは少女に肉体が無いからか、死ぬまでの間に視覚を補うため他の感覚器官が鋭敏になっていたのか。判然としない。  ともかく、少女は視覚以外の感覚で、男を捉えていた。  男は静かだった。泣きもしなければ喚きもしない。男には、少女が見えているだろうに。  死の呪いを操り、苦痛の象徴である彼女が。彼女には、それが腹立たしくも在り、不思議だった。けれど少女が疑問を質すことは叶わない。  口を縫われていた。紐にも近い太い糸でじぐざぐに縫合され、両方の端から糸の先が垂れている。縫い込まれた糸は皮膚と癒着していた。  ぼさぼさの髪に火傷で潰された両目、縫い合わされた口。汚れた袖無しの衣服から覗く、骨が浮き上がり青白い、傷痕だらけの肌。  とても、生きている人間には見えない。それは、そうだ。少女は、生きていなかった。もうとっくに死んで、そうして、生者にとって恐怖の対象となった。  怨霊、亡者、あるいは呪いそのもの────これが、今の少女だった。  だのに。  少女は思う。変だ。男は、悲鳴一つ上げない。命乞いをしない。罵声も浴びせない。少女が、今まで殺めて来た者たちみたいに。  男も、少女の様子を窺っていた。別に隙を見て逃げようとか、こう言った前向きな理由からではない。強いて言うならいつ己が殺されるのかと、考えてだ。  男は逃げるつもりは無かった。逃げられたとしても、自分が逃げてしまえば他の者に禍が行くからだ。  男が成り代わった、少女の本当のターゲット。娘のように可愛がっていた、姪が危なくなってしまう。  男が気付き、少女と膠着状態に入ってどれ程経ったのだろうか。数分か数十分か数時間か。暗い洞穴の中では時間間隔が狂う。無言の中、静寂を破ったのは口の利ける男だった。 「なぁ、」 「……」  少女はぴくりとも動かない。男は思う。もしかして、音も聞こえていないのだろうか、と。少女からすれば杞憂なのだろうけれど、勿論男に伝わるはずも無い。 「……」  微動だにしない少女に、男も二の句が告げなかった。しかししばらくして考えを改めた。相対しているのは死者だ。動かなくて当たり前なのかもしれないと。 「なぁ……こんなことして、何になるんだ?」  男の質問は、当然沈黙で返される。口を塞がれ喋られないからか。そう言えば、少女は音で脅かして来ることは在っても、声を上げることはなかった。引き攣った、喘ぎ声に似たものなら在ったと思うが。  代わって、少女は、質問の意図を取り損ねていた。男は、何を言っているのだろう。少女は奇妙な気持ちになった。生前声を奪われた影響か、答えられないことも在ったけれど。命乞いか、理不尽に怒る者の中には似たことを喋る人間もいたが、どうにも男はあれらとは異なって感じる。  助かろうと言う下心など無い、純粋な疑義に。 「……」 「……」  両者、理由は違えど質疑応答がままならず、男は一つ、溜め息を吐いた。これが、少女の気に障った。 「……いっ……!」  地に付けていた、足の甲が貫かれた。地面から先端の鋭い金属が突如生えたのだ。長い針、いや、串と呼んで良い。それが、下から男の足を刺し抜いた。 「……ってー」  男は痛みに顔を顰め一瞬俯いた面をもう一度上げる。仰ぎ見た少女の表情に、男は少女の仕業、意思表示だと汲み取った。少女の、薄くて無いに等しい眉が、不満げに寄せられていたのだ。ふと、男は考える。少女は、割と感情豊かなのだろうか、と。 「……悪かったよ」  取り敢えず男は謝罪してみた。少女はまたも静止する羽目となった。男が謝るからだ。今までも意味不明に謝る者はいた。だが男のそれは毛色が違う気がする。ここまで推考して、死して、脳味噌も無いのに思考が出来るのかと、少女は自身を訝った。  少女は、そもそも呪いの力など無かった。家は医者もいない貧しい山村の、呪術師の家系だったらしいが、その実呪力など無く、薬草を使って人の病気を治すとか症状を軽くするとか、怪我を癒すと言った類いのものだった。  彼女自体、呪力など有り得ないと思っている主義の人種で、薬草の効果は認めているけれどそのことを奇跡みたいだとか、魔法のようだとか讃える村民によく複雑な気分になっていた。  そして、物心が付く前から、薬草を教えられ病人怪我人を診て来た彼女は、いつしか病状や傷の状態で、その人の回復の見込みがわかるようになった。そう。  死期さえも。  
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