ひとりぼっちのヒーロー

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 次の日から、僕をとりまく社内の空気が変わっていた。  僕が社内の女性とすれ違うと、いそいで数人集まって、背後でひそひそ噂話をしている。 「……ねえ、あの人でしょ」 「斉藤さん、気の毒だよね……」  針の筵とはこのことだろうか。  噂は勝手に独り歩きして、話に尾ひれがついていった。僕は昔から陰口をたたかれるのは平気だ。でも、ナイーブな彼女はどうだろう。斉藤さんは、つらい思いをしていないだろうか。  そう考えて、僕は急にすべての辻褄が合った気がした。  ああそうか。きっと、彼女も心無い噂に苦しんでいたんだ。  僕の好意を彼女が迷惑がっていたなんて、どうもおかしいと思っていたんだ。  斉藤さんは、僕よりも女性の社員たちと過ごす時間が多い。きっと、僕が毎日駅まで送っていくことを、勝手に噂されて心を痛めていたんだ。  ひょっとしたら、あのとき追い払った研究室の主任が、くやしまぎれに僕と斉藤さんの仲を社内で言いふらしたのかもしれない。  斉藤さんは派遣社員だから、今の仕事を続けるために、評判に傷をつけたくなかったのだろう。仕方なくなって、上司の女性社員の前で僕に「もうつきまとうな」と伝えるしかなかったんだ。  それがあのときの青ざめた顔の真相だったんだ。  世の中には、面白半分に人を傷つける酷い人たちがいる。  アイドルの恋愛とか、芸能人の不倫とか、拡散して叩いて、楽しんでる人たちがいる。そういう人たちは不確かな情報でさえ、面白ければ拡散してしまう。  嘆かわしくて、つらいことだ。  僕の好意はこうして「迷惑」にされてしまった。それもつらいけれど、一番心配なのは、僕がもう彼女を守ってあげられないということだった。  あのしつこそうな主任の顔が思い浮かんだ。  これじゃ、奴の思うつぼじゃないか。斉藤さんはきっと心細い気持ちで毎日出勤していることだろう。  俄然怒りがこみあげてきた。  汚い連中から、なにがなんでも彼女守りたいと思った。  上半身をすっぽり覆うウインドブレーカー。黒いニット帽に、マスク。僕は変装して、こっそり彼女を護衛することにした。会社の近くで待ち伏せして、退勤する彼女の数メートル後をついていく。  休憩時間は自由に使っていいはずだ。僕は僕のやるべきことをやる。  二、三日後、僕は自分の研究室の室長に面談室に呼ばれ、解雇を言い渡された。 「本人は両親と一緒に来社して、警察に被害届を出すと言っている。私の立場では、もうこれ以上君を守ってやれないんだ」  どうやら僕の秘密の護衛も、ここまでのようだ。  うなだれ、黙って部屋を出ていこうとした僕に、室長は突然立ち上がってたたみかけた。 「彼女のハンドバッグに勝手にリップクリーム型の盗聴器を入れただろう。休日に、彼女のマンションの向かいの建物の屋上で、お前の姿が目撃されてるんだ。近所のコンビニの防犯カメラにも映っていたそうだ。お前、盗聴なんかしてたのか?」  もうすぐ還暦の室長は、泣きそうな顔で叫んだ。 「本当にそんなことしたのか? 嘘だろう? お前、そんなことできる奴じゃないよな? どうなんだよ!」  僕は父親に似たその顔を見ながら、心の中で吐き捨てた。  できるんですよ。僕にだって。  彼女を守るためなら、なんだって。  これでも男なんだから。ただの意気地なしじゃないんですよ。  会社を首になったことが、実家へ知らされた。  僕が昼間家にいるようになったら、母親はパートを辞めて、僕の行動を見張るようになった。  なんてことだ。僕はもう斉藤さんを守れない。 2020.5.27 00:32 既読
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