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椀の中に浮かぶ緑色の物体を見て、俺は思わず上擦った声を張り上げた。
「なんっ、何だこれは!?」
「何って……メロンよ?」
しれっと答える妻へ、これでもかと目を見開いて宣言する。雑煮にメロンは入れない、と。
譲り合う気持ちは不要、ここは果敢に攻めなければ。
メロンを投入した瞬間に、それはデザートと化す。
デザートを鰹節の出汁で食うやつはいない。
「私の故郷じゃ、これが定番なんだけどなあ」
「メロンを? 雑煮に?」
「そうそう。特産品なんだよ、マスクメロン」
妻の実家は飛行機が必須な遠さで、俺も結婚前と直後に二度行っただけだ。
口が悪い人間なら、躊躇うことなく僻地と呼ぶだろう。
だからって、それを馬鹿にできるほど、俺の故郷も都会ではない。
田舎育ちのノンビリとした性格同士、特に諍いも無く結婚生活は順調だった。
たった一つ、食生活を除けばだが。
共働きなので料理は二人で分担し合う、と決めつつも、帰宅の早い妻が用意してくれることが多い。
今日みたいな休みであれば、彼女は積極的に食事を作ろうとした。
俺のメニューでは、肉気が過ぎるのだとか。
簡単なお節も雑煮も、彼女のお手製で見栄えは素晴らしい。
だが、まさかメロン雑煮とはなあ。
「メロンは嫌いなの?」
「好きだよ。かなり好きな果物だ」
「じゃあ――!」
「だからって、煮たらダメだろ」
「どうしてよ」
熱を通すことで甘味が増し、汁にもたっぷりとメロンの香りが移る。
そんな主張へ反論する度に、彼女もまた反証を挙げていった。
果物は温めない――リンゴ飴は?
餅とは合わない――大抵の餅は甘いでしょ。
甘い椀物なんておかしい――ぜんざいはどうなのよ。
生ハムとメロンは最高の組み合わせであり、料理の素材としてメロンは一般的だ――そこまで言われると、俺の自信も少し揺らぐ。
そういや妻は、生ハムメロンが大好物だった。
「だからね、とりあえず食べてみてよ」
「汁に色がついてるぞ……」
「そりゃ当たり前でしょ。食欲をそそる色じゃん」
薄い緑色がか?
俺を担ごうとしているなら、どんなに嬉しいだろう。
天地ほど異なる食文化の隔絶、こればかりは如何ともし難い。
残念ながら、期待をこめて見守る妻の目は真剣そのものだった。
「……一口だけだぞ」
「おー! 食べたら絶対に気に入るって」
愛妻の作った料理を食えずして、何が夫か。
これは極東のフレンチだ。
メロンと魚の前衛的な出会いから生まれた、プチデッセール。
ポワゾン・ド・メロン。
いきなり本体にかぶりつくのはハードルが高く、椀を持ち上げた俺は、その縁に口をつけた。
純和風の漆器から漂うハイカラな匂いに、奮い立てたはずの勇気が臆する。
神よ、メロンに打ち勝つ力を与えたまえ。
一口分でいいから。
えいっと椀を傾けて、何ccかの液体を口の中へ流し込む。
途端に果糖の甘みが舌の上に広がり、次いで鰹の魚臭が重なった。
全く違う二つの味が重なり、得も知れぬ旋律を奏でる。
不協和音だ。
妻は料理が上手い。その事実をここでも思い知らされる。
鰹節からは入念に、余すことなく出汁が取られ、鰹の腹に浮かぶ縞模様までが眼前に浮かんだ。
鰹を援護するのは、丸大豆から作った醤油のまろやかさ。
なら、メロンの甘さに加勢しているのは何だ?
まさかこの懐かしい味は――。
「いい味醂が売ってたの。やっぱり雑煮と言えば味醂よね!」
これが限界だった。
鼻を押さえた俺は、全力でシンクへと走る。
一口は飲んだ。胃に納めた。
それで良しとしてくれ。
口腔にいつまでも残るアレやコレを消し去るべく、俺は水道の蛇口に取り付く。
勢いよくハンドルを回し、顔を横倒しにして水流に口を当て、夢中で水を飲み続けた。
危なかった。メロン死するかと思ったぞ。
ついでに顔を洗い、気持ちを落ち着けてからダイニングへ振り返ると、目尻を光らせた妻が無言で俺を見つめていた。
これは危険な兆候だ。
最悪の自体は、何としても避けなければ。
「あのさ、やっぱりさ。頑張ったんだけども」
「食べられないの?」
「あー、うん」
「メロン、好きなのに? 一生懸命作ったのに?」
俺がメロン好きだってことも踏まえての、雑煮だったわけか。
それはマズい。
雑煮もマズいが、妻の状況も同じくらいマズい。
カラッとした気風の妻は、怒っても翌日に持ち越すことがない。最後は笑って謝り合い、それで終わりだ。
しかし、拗ねた妻はしつこい。
何日か膨れっ面をしたあと、やっと平常に戻ったかと思いきや、半年後に反撃してきたりする。
早く芽を摘んでおかないと、火種を抱えたまま暮らすことになろう。
ならば、どうするのか。
こうだ。
「聞いてくれ。白状しよう」
「なに?」
「俺は。メロンが……嫌いなんだ」
「ええ? むしゃむしゃ食べてたじゃん」
「キミに合わせたんだ。本当は嫌いな果物なんだよ」
これで食卓にメロンが上がることは無くなるだろう。
構うものか。それで妻の機嫌が直るなら、安いものじゃないか。
一生食えなくなろうが、メロン雑煮と道連れなら我慢してやる。
自分を気遣かって無理にメロンを食べていたと言われ、妻は目線をテーブルに落した。
彼女が何やら考え込む間に、俺は自分の席に腰を掛ける。
椀に蓋をして、テーブルの奥へと少しずつ押し戻していると、いきなり妻の顔がこちらへ向いた。
決然としたその面持ちに、俺は思わずビクリと硬直する。
「ど、どうした?」
「雑煮は私が食べる。メロンはもう出さないから」
「そうか! ゴメンな。メロンさえ入ってなければ、他は抜群の出来だったよ」
「仕方ないよね、嫌いなら。でも、あなたが好き嫌いを言うなら――」
私にも言わせてほしい、と妻は主張した。
交換条件というヤツである。
俺に耐えられない文化ギャップがあるなら、彼女にも同じく存在して当然だ。
メロンと引き替えに、彼女の苦手なものを一つ俺も諦める――その申し出を受け入れた。
どれにしよう、と悩み始めた妻の様子から、彼女がいくつも我慢していたものがあったと気づく。
思った以上に、妻には申し訳ないことをしてきたらしい。
妻の言動を思い返し、嫌いだったものを推察しようと試みた。
朝から豚足はイヤだと言っていたか。
味噌汁の具にしたバナナも苦手そうだったし、ヨーグルトご飯にも顔を歪めていたような。
トーストにはジャムがいい、とも言っていた。俺は醤油派だけど。
ようやくこれと決めた妻は、人差し指をピンと立てて微笑んだ。
やはりバナナかな。メロンの交換条件には、同じフルーツが相応しい。
静かに言葉を待つ俺へ、妻は厳かに告げた。
「どうにも慣れないのよ。頑張ってみたんだけどね」
「難しいよな。お互い、歩み寄れるところは合わせていこう」
「うん。だから、正月はやめよ?」
「ん?」
「おかしいって、盆に正月行事だなんて!」
正月は一月のものであって、暑い八月では風情も何も無いと主張された。
そうは言っても、お節を食べない盆ってのもなあ。
「それは呑めないな……」
「なんで! どうかしてるって。夏正月なんて聞いたことないもん」
「俺のとこはこれが普通なんだ。寒い正月じゃ、気分が出ないだろ?」
「正月は寒いものですぅ!」
すり合わせが必要な事項は、思ったより沢山ありそうだ。
この日、俺たち夫婦は夜まで喧々とやり合った。
文化の違いって大変だわ。
結局、バナナ味噌汁もヨーグルト飯も封印されることに決まり、残念に思う。
お節にスイカ、これだけは譲らずに済んだのが幸いだった。
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