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2.
(俺が、俺がもっとちゃんと見てれば……!俺は何て馬鹿なんだ!)
密彦は息を切らしながら雑木林の中を走る。
「しきみー!!どこだ!」
焦った様子で大声を張り上げる。
ギャアッ
奥から獣の声がする。
密彦はその方向へ急いだ。
現場に駆け付けた時、しきみは罠にかかったイノシシの首に草狩り鎌で止めを刺している最中であった。
「あ!みつー!」
着物や顔を返り血で真っ赤にしたしきみが、密彦に気が付いて笑顔で手を振る。
その下腹部は大きく膨らんでいる。
「また……!」
密彦は絶句した。
争い事を好まなかったあの姉がこのようなおぞましいことを平然とやっている現実から目を背けたくなった。
一方しきみは凍りついた密彦の表情を気に留めることもなく、イノシシの首に口を付けてほとばしる鮮血をゴクゴクと飲み始めた。
「もうやめろ!!やめてくれ!」
「うう!?ああっ!」
密彦は堪らず叫び、羽交い締めにしてイノシシから引き離した。
しきみは何故止めるのか分からないと言うかのような表情を浮かべ、抵抗した。
しきみが暴れれば暴れるほど、密彦の胸はぎゅっと苦しくなり、やがて頬に涙が流れた。
しきみは動きを止め、困った顔で密彦の頬と頭を摩った。
しきみがこのようになってからもう既に一月近くになっていた。
密彦は最初しきみが何も食べられなくなって少し体調を崩したかと思ったが、その後は食欲が戻って元気になった為、安心してそのまま気に留めなかった。
しかし、その後は気が付けば何かを食べている姿を見る事が多くなった。
そしてまたしばらくすると、今度は小鳥や小動物を捕まえては殺めて血を飲もうとしている姿が見られた。
時にはあの桜の木のある野原で誰が置いたか分からない獣の生肉の塊にかぶり付いている時もあった。
(あのお腹……、一体いつ?誰が?
あんな状態の姉さんに身籠らせるなんて……!
クソッ!何をやってたんだ俺は!!
とにかく可哀想だが、縛ってでも家から出さないようにしなきゃ……。村の人が不気味そうに見始めている……。
『鬼』みたいだって言っている……。
『鬼』?
まさか……あの襲撃の時?
いや、あの時はそんな怪我もなかったし、そんな形跡はなかった……。
姉さん、一体何があったんだ……?!)
密彦が姉の身を案じている時、桜の木の下にはあの鬼の男がいた。
彼は仕留めたばかりの立派な雄鹿を木の根の上に下ろした。
「人間達にバレないように『我が妻』に精のつくものを食わせてやるのはなかなか緊張感があって楽しいものだ……。」
***
しきみに異変が起き始めてから更に数日後ーー。
「貧しい地方だからって聞いてたが、本当にこんなにも何も無い所だなんてな。」
狩衣に烏帽子姿の初老の男が、ため息をつく。
「木次郎様、もうすぐ村人との合流地点です。聞こえますよ。」
隣にいた同じ狩衣姿の青年が声を潜めて言う。
凛とした顔立ちの礼儀正しそうな若者だった。
青年は助手で荷物運びらしく、四角い大きな風呂敷包みを背負い、腰には複数の刀や珍しい弩(いしゆみ)などの武器を下げていた。
「冗談が通じねえな百之助。ま、初めての研修かもしれんが肩の力を抜いてけや。」
木次郎が青年・百之助の肩を軽く叩く。
「あなたが『角狩衆(つのがりしゅう)』の卜部隊の木次郎様ですね。お待ちしておりました。
文でお願いした通り、どうかこの村を鬼からお救いください。」
村の入り口まで出迎えに来ていた白髪頭の村長が軽く挨拶を交わし、同じく同行した鈴四郎や密彦やその他の男達がこの木次郎と言う男と連れの青年に会釈する。
『角狩衆(つのがりしゅう)』は京にある鬼門省という妖怪や呪術などの人為の及ばないものに対して研究や対策を行う機関の中にあり、特に鬼などの攻撃性の高い妖怪を専門に討伐を行う組織であった。
そしてその調査員である木次郎と百之助は鬼の襲撃のあった密彦の村に調査にやってきたのであった。
***
「ふうん。札の質や種類も的外れでもなければ、貼り方も雑だった訳でも無いな。」
「全国に一番多く普及している『妖避け』ですね。
大体の妖は勿論、人里に降りて来る一般的で弱い鬼、所謂、野良鬼(のらおに)はこれを嫌って近寄らないはず……。
家屋に貼られた妖避けだけは鬼達を通さなかったと言うのも気になります。」
木次郎と百之助は村周辺に貼られていた護符の状態を確認する。
「村人から聞いた外見的特徴や行動と合わせると、やっぱ今『新種』だって騒ぎになっている『あれ』か……。」
「鬼門省へ集まった調査報告は今の時点で数十件……。
野良鬼が生息する奥山とは繋がらない経路であるのに、いきなり農村付近で現出していると言うのも不気味です。」
百之助が真剣な表情で、地図や図式が書かれた紙に筆で印を書き込む。
「あの木次郎様、やはり今回の奴らのことをご存知なのですか?」
村長が恐る恐る尋ねると、木次郎は不機嫌そうな顔を少し綻びさせて皮肉っぽい口調で答えた。
「ああ。『札や厄除けの術をすり抜ける鬼』な。残念ながらなんで効かないかはまだ調査中なんだがな。
ま、人様がこうやって勝手に増えたり国をおっ建てたり滅びたりしてる間に、化け物連中も色々頭使って変化してるってことだ。
知恵が追いつくか追いつかれるかの競争よ。」
「それで……退治して頂けるのですか?!味をしめた奴らはまた……!」
鈴四郎は少し興奮気味で問いかけた。
木次郎の間に入って百之助が丁寧になだめる。
木次郎は百之助にその場を任せるように黙って別の札を見に行った。
「被害を抑えながら確実に奴らを倒す為に、まず細かな調査が必要です。
どうかご辛抱頂けないでしょうか?
それに、私達だけでは対処できそうにないと分かった場合には応援を待ってからの討伐も考えられます。」
「……数が足りなければ私も手伝います!娘の仇を……!!」
「どうか俺も!家族を失ってもう半分死んでるも同然だ!何も怖くねえ!」
鈴四郎の勢いに感化されて、周りいた村人数人も参加を申し出る。
「……村長さん、ごめんなさい。しきみの体調が悪くて、ちょっと外します……。」
興奮状態の村人たちの目を盗み、密彦は思い詰めた顔で村長に話しかけた。顔は少しやつれ、目の下に薄く隈ができていた。
「仕方ない、用が済んだらお前だけでも戻ってこいよ。」
密彦はお礼を言ってからおぼつかない足取りで家に向かう。
(……そうだ。会わせる訳にはいかない……。あの人達や村の人が今の姉さんを見たら、姉さんは……。)
密彦は立て付けの悪い家の戸に力無く手を掛ける。
「……ただいま。」
「ンンンンっ!ふうううううっ!」
暗い簡素な部屋のどこからからくぐもった声が聞こえる。
密彦は周りに人が居ないか確認してから扉をしめる。
そして囲炉裏近くの床板を外した。
食料の貯蔵に使われる狭い空間には、口に猿ぐつわをされて手足を縄で縛られたしきみが入って居た。
床下で暴れたのか、手足はアザだらけになっていた。
「っふ!っふ!っふっ!」
獣のように荒い呼吸をしながら密彦を睨む。
「しきみ、今度こそ何か食べて……。」
密彦は囲炉裏の鍋の雑炊を椀に盛って、しきみの猿ぐつわを外してやる。
それから匙で雑炊をすくってしきみの口に運ぼうとしたが、胸に勢いよく頭突きをされてしまった
「ガウッ!」
「あっ!」
しきみは怯んだ密彦の腕に噛み付き、噛み傷から血を吸い始めた。
「姉さん……!血や肉は駄目だってば……!」
「ほお、血肉を欲しがるのか。」
家の扉から声が聞こえる。木次郎の声だ。
密彦はハッとして慌ててしきみと床下に入ろうとした。
「お邪魔します。」
ぶっきら棒に挨拶してから木次郎が扉を開けて入って来た。
「お願いです!殺さないで……!姉さんは何も悪くないんです……。」
密彦は噛まれたまま、土間に顔を伏せた。
喉から絞り出した声で嘆願するその声は震えていた。
木次郎は密彦に構うことなく、袖下から白い紙札を取り出して素早くしきみの顔に貼り付けた。
「う?!」
しきみは驚いて部屋の隅まで逃げようとした。
「やめてくださいっ!!!!」
木次郎は止めようとする密彦を軽くかわし、しきみの逃げ先が分かるかのように先回りして、彼女の大きな腹にもう一枚の紙札を貼った。
腹に貼った紙札に薄く朱色の染みが滲んだ。
「姉さん!!」
「かなり微弱な反応だが……、やはりそうか。」
木次郎はすぐに腹の紙札を剥がしてやった。
しきみは心配そうに腹をさする。
密彦は訳が分からずしきみに駆け寄る。
木次郎は腕を組んで静かに考え込む。
「俺たちは人間は殺さねえよ。でもな、その腹のそいつはどうにかしなきゃならねえ。
恐らく、中のそいつが欲しがるから母親であるお前の姉ちゃんもそれに応えて血肉を欲しがるんだ。
『鬼』を身籠っているんだよ。その娘は。」
<ここまでの新しい登場人物>
『卜部の木次郎(うらべのきじろう)』(52)
・鬼退治を行う『角狩衆』の調査・研究部門である『卜部隊』の一員。
陰陽術や鬼・妖の生態に精通した研究員兼、調査員。
仕事人気質で皮肉屋。
『吉備 百之助(きび もものすけ)』(18)
・『角狩衆』に配属されて間もない研修生。
真面目で、勘も良いが、若手でまだ詰めが甘い。
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