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夜光誕生編/ 降りる鬼
1.
雑木林に囲まれた野原に小雨が降り注いでいる。
空は灰色。昼間であっても日の光は弱い。
野原の中心には苔生した古い桜の木があった。
大人が両腕を巻き付けても足りない程太い幹の桜である。
淡い色の花弁が木の下の地面を絨毯のように埋め尽くしている。木の方は花が僅かにしか残っていない。
どうやら開花の後直ぐに雨に打たれてほどんど散ってしまったらしい。
その木の下に、しゃがみ込む一人の女性が見える。
腰まで長い黒髪に、凛とした顔立ちが美しい女性だった。
女性は木の根元にある地蔵に向かって手を合わせている。
桜と同じように苔生した古い地蔵の足元には、女性が供えたと思われる風車と餅があった。
女性は思い詰めた表情で、一人呟く
「私の鬼の坊や……。あれからもう10数年経とうとしています。
貴方を産んだあの日の夜。
名前を付ける間も無く、貴方は冷たい雨の中を去り、戻って来なかった……。」
女性は地蔵の頭に子供用の着物を被せてやる。
「貴方の濡れた体を抱いて温めたいと思わない夜はありません。
どうか、どうか、せめて無事で……。」
女性は雨で氷のように冷たくなった地蔵を我が子のように抱きしめる。
「因果の中で生まれてしまった愛しい我が子……。」
***
人は生まれる時、様々なものを背負う。その中には親の想いや業、能力も含まれる。
生まれる前から、生まれる本人が頼みもしない重りを背負わせる理不尽さ。
「子孫を残したい」「きっと立派に育っていける」と当たり前のように前向きに思う親達。
生命の誕生はそんな身勝手から始まる。
では、それが鬼であり人間でもあったら?
これは一人の人間の女と鬼の男が出会い、一人の半鬼が生まれた時の物語であるーー。
***
息苦しいほどに葉が生い茂る雑木林の奥ー。
透き通った女の声が聞こえた。楽しそうなそれは、歌のようだった。
何の歌でもなく、歌詞もない、言葉もない、法則性もない、自由に発せられる音節の羅列。
薄く霧がかかる、鬱蒼とした雑木林の先ー。
その開けた場所にいたのは10代後半の若い女だった。
腰まで長い黒髪に凛とした顔立ちの美しい娘だったが、帯は緩み着物は着崩れたままという、だらしのない格好をしていた。
女は幼子がそうするように、タンポポを摘んで息を大きく吸って白い綿毛に吹きかけた。
雲の間から日が差し込み、それが風に流される綿毛達を温める。
「わあ!」
女は嬉しそうに両手を広げて裸足で辺りを駆け回る。
やがて草むらの上に仰向けに倒れこんだ。
女は最初楽しそうに笑っていたが、やがて真顔になり、ある一点を射るように見つめた。
くすんだ色の空には薄く青白い月が見えていた。
***
「しきみ!どこに行ったんだ!」
雑木林の入り口で10代半ば程の華奢な青年が叫ぶ。誰かを探しているらしく、心配そうな表情を浮かべている。
体型はやや小柄。着ている着物は着古されたもので、色も地味だった。しかし身だしなみはしっかり整えられており、着方には乱れもなく髪も丁寧に結っていた。
彼は山間部の麓にあるこの小さな村に住む農民の一人だった。
その青年に猫背で痩せ気味の中年の男が近寄る。
「密彦。しきみちゃんなら多分、また畑近くの野っ原に行ってるんじゃないかな。
昔もよくあの辺を遊び場にしてたから……。」
男は地面に散らばったススだらけの農具や木片を拾う。
「自然と昔の楽しい記憶を辿っているんだろう。無理もない……あんな事じゃ……。」
猫背の男はそう言いかけ、ハッとする。そして青年・密彦の遣る瀬無さそうな表情を見て、すまなそうに頭を下げた。
密彦は顔を横に背けながら、猫背の男・鈴四郎の肩に手をやった。
「……顔をあげて下さい。鈴四郎さん。辛いのは俺だけじゃないから……。
それに、しきみが、姉が『あの事件』のことを忘れられるなら、むしろあの状態でもいいと思っています。」
決して豊かとは言えない土地で細々と暮らしてきた、密彦と鈴四郎を含むこの小さな農村の村人達の身に起きた厄災。
山を駆け回る醜い人型の生物ー、鬼の襲撃だった。
かつての鬼といえば、例え山から降りて来ても寺から配られた魔除け札・『妖避け』を建物に貼っておけばそれを恐れて家や敷地内に入って来ることはなかった。
悪戯で農具を壊したり、妖避けを張っていない畑から野菜を少々盗んで行く程度のことはよくされたが、魔除け対策をせずに奥山へ入ったり接触したりしなければ、大きな被害になる事はなかった。
しかし今回は違った。
男達が祭事用の木を切りに山へ出かけていた日ー。
突然村の敷地内に数匹の鬼が現れ、村に残っていた女や子供、年寄り達を襲ったのだった。
貼っていた妖避けを何らかの方法ですり抜けて侵入したと思われる鬼達は、業火の中で悲鳴を上げる彼女らを力任せに狩り、そしてその場で捌いて喰ったという。
村の男達が山から戻った時、村に残されていたのは運良く火事を逃れて家屋に逃げ込めた住人と、焼けた複数の家屋、腸や骨などの残りカスだけであった。
「あの日、家屋の中で抜け殻のようになったしきみちゃんが見つかって……、その手に私の娘の着物の切れ端だけが握られてて……。
娘と一番仲の良かったしきみちゃんががああなってしまったのも悲しいが、そうなってしまうくらいどれほど酷いことをされたのかと思うと……なつな……!」
鈴四郎は眉を寄せて俯き、娘の名を呟く。
密彦は拳を強く握りしめた。
彼の脳裏に物狂いになる前の姉の姿が浮かぶ。
幼い時にはもう亡くなっていた両親に代わって、親戚達からの冷遇に耐えながら苦労をして密彦を支えてくれた、たった一人の肉親だった。
几帳面で、賢く、礼儀正しく、農民という華のない身分であることを忘れさせる優美な女性だったが、今では見る影も無く、子供のようになってしまっている。
「……しきみの所に行ってきます。」
「密彦、わ、私も行こう。村の周りはお寺さんに頼んで貰った強いお札を貼り直したとは言え、絶対安心とも限らんし……。」
二人は雑木林の奥へ入って行った。
***
雑木林の先の野原で、密彦の姉・しきみはまだ空を見上げ続けていた。
夕刻に近づくにつれ、空の月はよりはっきり見えるようになっていった。
遊び疲れたせいか、しきみはその様子を見ながらやがてうとうとし出した。
ガサッ パキッ
しきみは飛び起きた。近くの木から木の実が落ちた音だった。
薄暗い雑木林の方に目をやると、背の高い見知らぬ男がしゃがんだ姿勢から立ち上がる様子が目に入った。
男は頭から全身をボロ布で纏い、顔はあまりはっきり見えない。少なくともこの辺の人間ではなかった。
「ふう。この姿には面倒な紙切れだ。」
男の声は比較的若く、妖艶な響きがあった。
しきみは怪しい男に警戒しながら起き上がる。
そして野原の中心にある、古く大きな桜の木の後ろに隠れた。途中、慌てていたせいで、近くにあった地蔵に足をぶつけてよろめいていた。
男はしきみの存在に既に気が付いており、彼女を不思議そうに見ていた。
「この辺の村の者か。農民にしては小綺麗すぎるな。」
男は首を傾げながら、しきみの方にゆっくり近寄っていった。
しきみは桜の木の陰から男が自分の方に向かって来ているのを見て、慌てて根元の上で膝を抱えて座り、身を小さくした。
バチッ
男が雑木林の木陰から陽のあたる野原に足を踏み入れた時、男の体は一瞬痙攣した。
ボロ布が脱げ落ち、重ね着した麻の着物や、クセのある栗色の髪や瞳、頬骨の浮き出た中性的な顔立ちが露わになる。歳は20代前半くらいに見える。
しきみは音に反応し、身を隠しながら男の方をそっと覗き見た。
「ああ、ここにも見えていたのを忘れていた。」
男はそう言うと、腕が痙攣するのを気に留めずに近くの木に貼ってあった妖避けをぐしゃぐしゃに握って剥がした。
妖避けを投げ捨てた後、彼の腕が白から紫色に変わり始める。
男は眉をひそめて低く唸り、腕の筋が浮き出るほど拳を強く握りしめる。
それにより腕の色は元に戻っていったが、髪が炎のような朱色に変化し、額からは皮膚と同じ色の突起が二つ伸びる。
3寸程の鋭利な角であった。
男はため息をついて肩の力を抜き、薄く笑みを浮かべながらしきみの方に目をやった。
その瞳は、栗色から虎目のような輝く黄金に変わっていた。
しきみは狂う前に見た、村を襲った『鬼』の大きな影とギラつく瞳を思い出す。
「ぅあああああ!!」
しきみは叫び声を上げた。
鬼の男は勢いよく地を蹴って一気に桜の木の枝まで跳び、硬直するしきみの目の前に降りる。
その素早く身軽な動きもまた、人間より身体能力の高い鬼が成せる業であった。
「今俺は同族の目を盗んで行動してる身でね、あまり騒がないでくれないか?」
鬼の男は片手でしきみの口を塞いだ。顔は笑っているが口に当てた手の力は強く、しきみの頭は木の幹に押し付けられた。
「さて、面倒な事になる前に喰らって骨にでもしてやっても良いが……。」
しきみは手足をばたつかせて鬼の男の胸や足を叩いたり蹴ったりしてみるがビクともしない。
そこで今度は手の指を噛んでみるが、鬼の男は蚊に刺された程にも感じていなようだった。
「んんんん!ふんっ!があっ!」
それでもしきみは止めずに指を噛み続ける。血が流れ落ちる。
「やれやれ。人間にここまで噛まれたのは初めてだ……。
しかしお前はどこか妙だ。物狂いには違いないが、どうも強い思念を感じる。
ちょっと見せてみろ。」
鬼の男はしきみの目に自分の目を寄せて、目を見開き瞳孔を虎の目の様に細く鋭くする。
その間しきみの視界は真っ白になり、めまいと共に気が遠くなった。
しきみの瞳を覗き見て、鬼の男はいくつかの光景を読み取った。
この女、しきみが別の同い年くらいの少女と物置小屋の前で籠を編みながら楽しそうに話をしている場面。
突然悲鳴が聞こえ、背丈が大人二人分程もある獣のような大鬼が現れる場面。
一緒にいた少女が、咄嗟にしきみを狭い小屋の中に押し入れる場面。
しきみが手を伸ばすが、少女の腕を鬼が引っ張って離れてしまう場面。
鋭い爪で着物を引き千切られ、悲鳴を上げながら鬼に喰われる少女を、しきみが声も上げられず震えて見ている場面。
しばらくして鬼の男は手を離して真剣な表情になる。しきみは腰を抜かして木の幹にへたり込んだ。
「ふうん……。この醜い鬼が『元実(がんじつ)』が導入すると言っていた『獄鬼(ごくき)』か。人間ごときに鬼の血を与えて飼いならしたとか言う……。
戦で使う前に試験的にこの娘の村を襲わせたという訳か。
そしてお前はその場に居合わせてしまい、仲間を喰われた恐怖と悔しさの間でそのように狂ってしまったと。」
鬼の男は憐れみの表情でもなく侮蔑の表情でもない、ただ冷淡な目でしきみを見た。そしてどこか遠くに視線を移し冷笑を浮かべる。
「しかし、くだらんな……。我が赤鬼の兄弟・元実……。
『強さが認められて神から祝福を受けた鬼の末裔』である我らがこんな細々としたやり方に頼り、しかもこんな紛い物を増やして人間と肩を並べて国取り合戦を始めようとしているとは。
こんな道に逃げることになったのも一族が血筋の選別や私腹を肥やす事だけにかまけて、己を鍛え上げる事を疎かにして来たせいだというに。
我が一族は『鬼』とは名ばかりの人以下の生き物へと軟弱化した。
俺一人を覗いて……!」
鬼の男は手の平のしきみに噛まれた傷から流れる赤い血を睨みつけた。
「そうだ良いことを考えた。」
鬼の男は先ほどの険しい表情をコロッと変える。そして仲間を遊びに誘う子供の様に無邪気な笑みを浮かべ、しきみの目の前にしゃがみ込んだ。
しきみは頬を涙で濡らしたままの顔で呆然とする。
「俺もまた強い鬼を『殖やす』としよう。
だが同じ鬼とでは無駄な血縁争いに利用されるのがオチだ。
だから『鬼以外の者』と血を結ぶ。
異端の子となれば、他の鬼達が時に我が子を殺しにかかり、我が子もまた正当な理由でそれらと戦う事が出来き、その中で純粋に『強い鬼』になる事が出来る。
そしてそんな異端の我が子が最後に勝ち残れば、そこから『真の鬼』の一族を再興することができるだろう。
その為に……人間のお前を妻にしたい。」
「ううう……。」
今のしきみには男の言っていることは理解出来なかったが、その黄金の瞳から狂気を感じ取ることは出来た。
すぐに這って逃げようとするが、腕を掴まれる。
鬼の男は鋭い眼光を放ったまま、抵抗するしきみに微笑みかけた。
強き者は敬い弱き者は捨てていくことを信条とする鬼による、鬼なりの慈悲であった。
しかし、しきみにはそれを知る由も無い。
「あぅっ!わきゃっ!」
「友を殺された憎しみを抱きながら強き鬼の子を産み、その子によって憎き鬼と弱き鬼達を根絶やしにしてやるが良い。」
耳元で静かにそう囁き、両腕でしっかりと抱きしめた。
***
「しきみー!」
「しきみちゃーん。」
空が薄く夕色に染まり出した頃、村のある方角から密彦と鈴四郎が小走りで野原に足を踏み入れる。
しきみは古い桜の木の根元に寄りかかって眠っていたが、密彦の声でゆっくり目を開けた。
「馬鹿!こんなところで寝てたら危ないだろ!帰るぞ!」
密彦は一瞬ホッとした表情を浮べ、それからしきみに叱咤した。
「みつー。」
しきみは母親にすがる子供のように密彦の手を掴む。
「……また首と裾の所が着崩れてるぞ。ちゃんとしないと駄目だっていつも言ってるじゃないか。」
密彦はその言葉を口にしながら、幼い頃によく同じことを言って世話を焼いてくれたしきみの姿を思い浮かべた。
少し視界が潤んだが、それを堪えて目がトロンとしているしきみを立たせて身形を整えてやる。
「ん、何だこれ?」
しきみの首の辺りに針穴程の大きさの二つの刺し傷があるのが目に入る。
「しきみ、虫にでも刺されたのか?」
「んんー?」
しきみは首を傾げる。密彦が首に触れてよく確かめようとすると、くすぐったそうな声を出して突き放した。
「どれ。腫れている様子もないし大丈夫じゃないか?
遊んでいる最中に枝か何かが当たってしまったんだろうね。」
鈴四郎が言う。
密彦はまだ眠そうなしきみに肩を貸してやり、三人は村の方へ帰って行った。
誰も居なくなった夕刻の赤い野原。桜の木の裏で鬼の男は口の端についた血を指で拭い、舐めた。
「危なかった……。
良い女であったからつい、食べてしまいそうになった。」
男の鬼はそう無表情で呟いた。
<ここまでの新しい登場人物>
『しきみ』(19)
・夜光の母親。
鬼に友人を目の前で喰われ、狂ってしまった農民の娘。
かつては几帳面で、賢く、礼儀正しい女性だった。
幼児退行を起こしてからは森を子供のように駆け回り、自由に好きなことを好きにしていた。
『密彦(みつひこ)』(17)
・夜光の母であるしきみの弟。
両親が幼い時に病死してからは幼い時から姉が母親代わりだった為、親戚の冷たさや貧しさを忘れさせてくれる最も大切な人物に思っていた。
しきみが狂ってしまった後、遣る瀬無さを感じながらも健気に世話を続けていた。
真面目であまり争いや派手なことを好まないが姉のことになると感情的になる。
『鈴四郎(すずしろう)』(40)
・密彦の隣の家の主人であり、しきみの友人である『なつな』の父親。
近所付き合いも良く、唯一助けを貸し借りできる仲。
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