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【バレンタインSS】
会社で義理チョコを配るなんて、そんなの当たり前にあること。
少し高級なチョコをに〝見える〟箱を笑顔で男性社員に差し出すなんて、バレンタインデーの日にはあちらこちらの会社で行われていることだろう。
もちろん、この会社でも恒例行事としてそれらは行われ、出来る女性社員がヒールの音を響かせ、長い髪もサラサラと見せつけながら歩く姿が当たり前にあった――そう、前までは。
今ではその彼女は別の会社へと異動になり、その次に高い声で笑っていた彼女も同じ頃に異動になっていた。
「こんなに静かなバレンタインデーは初めてですね」
「ちょっと」
隣の席でクールに言う夕奈に、沙菜は肘で突くような仕草をする。けれど実際沙菜もそう思っていて、心の中では『だよねー』と頷いていた。
恵梨佳と香美がいないだけでこんなにも社内が静かになるなんて、一体どれだけ彼女らが中心となって女子社員が騒いでいたのかが分かる。
だが騒いでいたのは女子に限らず、恵梨佳を労う若い男性社員もいただろう。
「ま、他の男性社員も反省したから静かなんでしょうけど」
まるでこちらの思考を読んだかのような言葉に、沙菜はまた制止の言葉を口にしようとして――溜息で止めた。
もしかしたら聞き耳を立てている社員がいるかもしれないが、別にいいだろう。本当のことだし。
「もう彼女たちは異動しちゃったんだから、終わった話ですよ」
「綾辻さんはそうやって甘やかすんですよ周りを」
小さく溜息をつく彼女だが、そこには小さな心配が含まれているのをもう知っている。だから沙菜は「そんなことないです」と笑って、デスクの下に置いてあるカバンを膝の上へ乗せた。
「私も皆さんに優しくしてもらっていますから」
そして取り出したのは小さな袋。
「はい。ハッピーバレンタイン」
「……え」
差し出したそれを見て固まった夕奈に沙菜は「えへへ」と苦笑して、受け取る手を待たずに彼女のデスクに置いた。
「いつもお世話になってるし、最近仲良くしてくれてるから、そのお礼です」
「え、いや、でも、私は前まで……」
おろおろしている姿は珍しい。だが夕奈の言いたいことも分かる。
ずっと恵梨佳の仕事を肩代わりしていたのを知りつつも何も言わずに見て見ぬふりをしていたのだから。けれど彼女は最後は助けてくれたし、謝ってくれた。
沙菜にはそれで十分である。
「それはそれ、これはこれです。ほら、友チョコって以前流行りませんでした? それと、これからもお仕事頑張りましょう! という気持ち……ではダメですかね?」
クールな夕奈には気分を害するものだっただろうかと不安になっていると、デスクに置いた袋を彼女は両手で大切そうに持ち上げ、「いえ」と首を振った。
「ありがとう、ございます」
若干赤い頬。まさかそんな表情が見られるとは思わず、沙菜もなんだか照れてしまって「つまらないもので申し訳ないですっ」と口走ってしまえば、「そんな別に」と、互いに赤面して返し合う。
「でも、その、私、何も用意してないんで」
「あっ、それはお気になさらずっ。私がただ渡したいだけでしたのでっ」
慌てて両手を振れば、夕奈も自分のカバンを膝の上に置いて大切そうに袋をしまう。そしてそれの代わりというように手帳を取り出した。
広げたそれに首を傾げれば、夕奈はこちらに視線を向けることなく言った。
「どこかで一緒にご飯を食べませんか?」
その、えっと、と恥ずかしそうに続ける。
「少し、いいところで。私が調べて予約を取るので、仕事終わりに、女子会、みたいな」
そう言ってから「二人では女子会って言わないんですかね」と真面目に考え始めた夕奈に、沙菜は嬉しくて破顔状態のまま頷いた。
「女子会でも何でもっ! 木部さんと一緒に外でご飯食べたいです!」
「そしたら探しておきますね」
何日辺りがいいかと聞かれ、自分の手帳を取り出したところで「あ、今度でいいです」と言われる。
突然のその温度差に「へ?」と顔を上げると、夕奈が遠回りに説明してくれた。
「ホワイトデーとは被らないようにしましょう。きっと混むので」
「えっと、うん? そうですね?」
「その前……いえ、その後がいいですね。ホワイトデーも終わった後にゆっくり女子会をしましょう。ホワイトデーの前だと、まるで私と綾辻さんでホワイトデーを先取りしたような感じになるじゃないですか」
「…………」
何となく何が言いたいのか理解してきた沙菜は、夕奈の表情を見てから斜め前の席の辺りに視線を向ける。
そこには部下に書類を渡して説明をする課長の姿があった―――が、そのオーラが不機嫌マックスなのが分かった。
キラキラと輝く笑顔で部下に指示をするその顔が怖く見えるのは沙菜と課長の関係を知っている人だけだろうか。それともこれは皆に見えるオーラなのだろうか。
どちらか分からないが、沙菜は夕奈に小さく手のひらを立てて「ごめんなさい」と口パクで謝れば、「ご愁傷様です」と笑われた。
「仕事中になにやってんだお前らは」
次に聞こえた声にピンと背筋を引き延ばした沙菜は、課長から視線を外し、後ろを振り返った。
そこにいる彼に「お疲れ様です」となんてことなく言ったのはもちろん夕奈だ。
「お疲れ様ですじゃないだろ。なに堂々と仕事さぼってんだ」
「す、すみません守矢さん」
苦笑して謝れば、夕奈が手帳を閉じて伸びをしながら言った。
「いいじゃないですか。もうすぐでお昼休憩ですし。今日はそんな予定も詰まってないですしね」
「それでも仕事中はちゃんと仕事しろまったく。後沢と枝野がいなくなって静かになったと思ったのに、今度はお前らが騒ぎだしてたらしょうがないだろうが」
腕組をして溜息をつく守矢に、沙菜は彼も似たようなことを考えていたんだと少し笑いそうになる。
「ごめんなさい。ちょっとタイミングが合ってしまったもので……あ、守矢さんの分もありますので良かったら――」
瞬間、コツンと大きな足音が聞こえた。
普通なら誰の足音か分からないだろうし、足音なんてあちこちから聞こえるものだ。それなのにどうしてその足音だけが大きく聞こえたのだろう。
「えーっと、うーんと」
「あー、お昼の時間ですよー」
どこか間延びした声で夕奈が言って立ち上がった。
「お腹減ったからご飯食べてきまーす」
逃げるように去っていくのが分かるのは以前より会話をするようになったからか。それとも自分が変わったからか。
どちらにしても、心の中で『卑怯者!』と叫べるようになったなんて、きっと前の自分なら信じないだろう。
「……俺も昼飯たべてくるな」
「そ、そうですね。詰め合わせは帰る前に渡しますね」
「まぁ別にいつでもいいから、気にするな」
その言葉は同情か何かだろうか。
「はい、すみません」
笑顔で謝っている自分は一体なんなのだろう。
背中にダラダラと流れる汗を止める方法を誰か教えて欲しい。
守矢が「じゃあお先に」と席を離れるのと同時に「綾辻さん」と声が掛る。
その声はいつもと変わらない、いや、それ以上に明るい声にも関わらず、恐怖に満ちていた。
「あの、どうされました?」
守矢の方を向いていた沙菜は声がした方に向き直る。するとそこには以前は部下だった筈の彼が現在は課長という上司の姿で立っていた。
眩しいほどの笑顔を携えて。
「休憩時間にすみません。ちょっと先にお話ししたいことがありまして、お時間いいですか?」
「はい」
そんな笑顔にこちらも笑顔で答えるしかない。
「では、隣の部屋へ行きましょう」
あ、特に必要なものはありませんよ。
そう付け足されたけれど、沙菜はポケットに余りのチョコを一つ素早く入れてついて行く。
これはお守りに似たようなものだけれど、どうせきっと自分を守ってはくれはしないだろう。
沙菜はやってしまったと思いつつも、どこか嬉しい気持ちがあることを客観的に感じながら課長の後について行った。
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