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賢二は手摺りに寄りかかって視界いっぱいに広がるテムズ川を見た。左奥には大きなビッグベンが見える。聳え立つその巨大さはかつて大英帝国だった頃の盛りを象徴しているように見える。その時刻はまもなく十四時を迎えようとしている。もう一時間近くが立とうしている。
今、授業でやっているのは全くオリジナルの寸劇で賢二は妻子を相次いで亡くして絶望し、仕舞いには投身自殺を遂げる男を演じる。できる限りの感情を思い出して演じているのに講師のジョーンズは全くの駄目だと言う。賢二の演技には絶望がないと言う。咽び泣き、絶叫したり演技を変えたりしているがそれも悉く駄目出しをされた。
ぎりりと歯軋りする、痛みに比例にするように悔しさが滲み出てくる。……限られた人間、その経験を積んだことのある人間にしか出来ないなんてあり得ない。では自分に無いものとはなんだ? 何がいけない? 学校に入れたのはまぐれだとも言うのか? いや! そんなことは断じてない。ロンドンに来る前に劇団に所属しなかったからいざ本場に来た時になって行き詰まったのか? それも違う! 劇団に入らなくても、独りでも芝居はできる。それを賢二は最終オーディションで演じた独り芝居で実感した。立てた椅子だけ用意して、敵となり捕虜となってしまった親友を尋問し、拷問しなければならなくなった悲しい軍人を演じた。あの時は確かに出来ていた。前田賢二は消えていた。しかし今、あの練習室で駄目出しを受けると言うことはあそこには前田賢二が存在してしまっているということだ。
「あー、くそ。分からねぇ……」
口に出してびっくりした。ロンドンに来て日本語を出したのは初めてだ。やはり母国語は良い。話している間だけでも故郷に帰れる。そうだ。と賢二はテムズ川を眺めた。叫んでみようか。日本語で叫んだところで分かる人間はそういないし良い気分転換にもなるに違いない。賢二の口元が緩む。ロンドンの私生活中、初めての笑みだ。
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