月の素顔

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 ピチャ、ピチャと雫が岩から滴り落ちていた。  洞窟の奥から生暖かい風がふわりと僕の頬を撫でる。その風の中には獣肉を腐らせて小屋にでも閉じ込めたような異様な空気が混ざり合っていた。  全身の血肉が騒いだ。ここは危ない。これ以上先に進んではいけない。そう訴えているかのようだ。  だが、俺は生唾を飲むと松明を握りなおした。ここ以外に道はない。そのまま通り抜けて出口を探る。  俺はつい先ほど人を殺した。それも2人もだ。  1人は俺の許嫁、もう1人は許嫁の不倫相手。偶然現場を押さえた俺に相手が激高して、訳も分からない間に斬り合いになった。問題は、相手が俺より高い身分だったことだ。捕まれば恐らく、問答無用で死罪だろう。  だが、まだ望みはある。今は戦国の世。別の大名家まで逃れてしまえばこっちのものだ。追っ手は今頃、関所のあたりで僕を待ち構えているだろう。  だからこそ、俺はこの洞窟を選んだ。この鬼が住むと言われる場所なら、いくら仕事熱心な役人や復讐心に燃える遺族といえど踏み込みはしない。このまま通り抜けて関所を破ってやる。  自分は助かる。そう言い聞かせて、一歩、また一歩と洞窟の奥へと入っていく。すると、まただ。猛獣の唸り声のような音が耳に入った。今まで様々な動物の声を聞いたが、そのどれよりも大きく低い。まるでこの洞窟全体が生き物なのではないかとさえ思えるほどだ。  歩みを進めるごとに、肉の腐ったような臭いが強くなった。俺は布で鼻を覆いながら見上げた。なるべく壁際に身を隠し、松明も洞窟の奥から見えないように岩壁に擦り付けた。  ただならぬ気配を感じる。やはり、この洞窟にはなにかいるのだろうか。臭い、音、そして気配。  俺は小さく息を吸うと、刀に手を伸ばした。鬼のような生き物に剣術が通じるかはわからない。だが、丸腰よりはマシだろう。鼓動の高鳴りをなるべく抑え、呼吸をゆっくりと整える。  ピンと張りつめた空気のなか、俺は松明を岩のくぼみに突き立て、遂に刀を抜いた。  鬼は…化け物はどこだ。剣を構えたまま周囲を睨む。すると、洞窟の奥に黒い影が映った。それも大きい。俺の何倍もの大きさがある。  恐怖心が俺の全身を駆け抜けた。その脆弱な覚悟を一瞬で破壊し尽くし、無力さをまざまざと見せつけるほどの力。体中から冷や汗がどっと流れ出た。  なんだこれは。俺は水浴びでもしたのか。悪夢であってくれと心の中で何度も叫びながら、俺は構えなおすことで体勢を立て直した。  いや、構えなおした本当の理由は震える手足をごまかすためだ。すると影も同じように動いた。そうか、俺は松明に映った自分の影を見て驚いていたのか。  俺は刀を鞘に戻すと、くぼみに突きたてた松明を手に取った。  とりあえず、猛獣の類はいないようだ。荒く乱れた呼吸を整えながら一歩一歩進んでいくと、洞窟の奥に妙な枝が生えているのが見えた。  ここは自然にできた洞窟だ。光でも差し込んで生えてきたのだろうか。そうだ。どうせなら食べられるものがいいのだが…  ゆっくりと松明を近づけると、誤って地面に滑り落してしまった。目の前にあったそれは植物ではなく、白骨化した人間の手だった。 『……っ!!』  危うく悲鳴まで上げそうになったが、何とか堪え、俺は目を見開いたまま、その骨を眺めた。  まぎれもなく人間のものだ。地面から飛び出し救いを求めるように固まっている。松明をかざすとその周囲には幾つもの骨が地面からはみ出していた。  気味が悪いので、俺はすぐにその場から離れた。岩陰に寄りかかり、足元に松明をかざし、やっと大きく息を吸えた。ここは安全らしい。  しかし、考えてみれば妙な話だ。こんな誰も近づかないような洞窟で、誰が死体を地面に埋めたのだろう。もしや、本当に鬼がいるとでもいうのだろうか。  大きく深呼吸をすると、バサバサと何かが羽ばたく音が聞こえてきた。  俺は反射的に蹲ると、恐る恐る視線を上げた。どうやら、音の正体はコウモリだったようだ。  しかし、目を凝らすと、幾つもの目が俺を見下ろしている。まるでその姿は、岩壁に無数の目がついているかのようだ。俺は恐ろしく思い、薄気味悪く思い、その場を離れた。  コウモリの気配が消えたところで、俺は再び松明をかざした。落ち着け。落ち着くんだ。俺は必ず生き延びる。  冷静に、そう自分に言い聞かせると、やっと冷静さを少しずつ取り戻せた。  ここは洞窟だ。熊、猪、毒蛇、狼…俺を脅かすものはいくらでもいる。化け物などという得体のしれないものより、こういう動物の方がよっぽど厄介だ。厄介なんだ。  俺はなるべく念入りに周囲を調べた。とりあえずは大丈夫そうだ。俺は重い腰を下ろした。  こういう時は気を落ち着けるに限る。今のうちに休んでおいて疲れが取れたところで一気に洞窟を抜けよう。  辺りを見回していると、岩の隙間からは月が姿を見せていることに気が付いた。少し赤みのある月はとても風情があったが、なぜか俺の目には人の顔に見えた。  よく見ればあの顔…俺の許嫁とよく似ている。それも死に――  俺は首を振って自分の言葉をかき消した。考えるな。余計なことは考えるな。今はとにかくここから出ることだけを考えろ。  荒くなった呼吸を整えていると、洞窟の様々な音が聞こえてきた。風の通り抜ける音。コウモリの鳴き声。草木のざわめき。鈴の音。動物の足音。  鈴…? 鈴がこんなところにあるものか。  カラン、その可憐な音は確かに聞こえた。まだ遠い。しかし、確実に音は鳴っている。  カラン、風の音やコウモリの鳴き声に交じって再び。俺はそっと刀に手を伸ばした。そういえば、許嫁も鈴が好きだった。よく、こうして一緒にいるときに… カラン。  馬鹿なことを。死者が姿を見せるはずがない。旅人か。いや、それとも追っ手が迫っている方が恐ろしい。  俺はしっかりと刀を握りなおした。追っ手に捕まればきっと、苛烈な拷問を受ける。生まれてきたことを後悔するほどの苦痛を味合わされる。だから、だから、生きている人間を恐れろ。幽霊など、亡者など所詮無力ではないか!  ところか、俺の脳裏にあの2人の姿が浮かぶ。血塗れになってこと切れた男と女。もし、あの見慣れた顔が現れたら――  俺は恐怖のあまり立ち上がった。いや、立ち上がったというより岩壁にもたれかかったといった方がいい。四つん這いになりながら逃げだし、やがて岩に足を引っかけた。  俺は叫び声を上げる間もなく、体中をもみクシャにされていく。松明がない。刀が無い。俺はどこにいる。何が起こっている。俺はどこにいる!?  体がやっと止まった時、ズキリと鈍い痛みを覚えた。右目のすぐ上の部分と左肩だ。そっと手をつけると水のようなものがついた。血だろう。ただ、それ以上に頭がクラクラする。  何だ、この異様な刺激臭は!? 体中の力が抜け、急に辺りが寒く感じるようになった。手足が震えている。何が起こっているのかもわからないまま、俺の意識は遠のいた。  どれほど時間が経っただろう。冷たいものが額に付いたことで、俺は意識を取り戻した。  目の前には洞窟の岩壁が見える。周囲にあるものは焚火と、旅人の荷物と、鈴の音。  視線を上げると、包帯で顔を隠した者がいた。 「危ない所でしたね。あそこは臭水のたまり場…」  そうか。俺は何てことないものを恐れ、本当に恐ろしい場所へと迷い込んだということか。  俺はゆっくりと身を起こすと、目の前の人物を見た。  どうやら、その人物は女性のようだ。顔中に包帯を巻いているが火傷でもしたのだろうか。  女性が姿勢を正すと鈴が音を立てた。おや、よく見れば鈴に血がついている。そういえば、この大きな鈴は…  俺は生唾を飲むと、そっと懐に手を伸ばした。そこには刀がある。これは確か、転げ落ちたときに手元から離したはず。  右目のすぐ上の部分に手を伸ばすと、血はおろか傷跡すらきれいになくなっていた。確かに、俺は怪我をしたはず。あれは夢などではない。  こんなことがあるはずは…あるはずは…  おぼろげな記憶がはっきりしはじめたとき、女性の顔を覆っていた包帯が徐々にずれ降ちはじめた。  この時、俺は肝心なことを思い出した。今日は新月。
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