5人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
海から突然つき出した山に、ぼくはカメラをむけた。
急角度の斜面、茂る緑、ところどころでむき出しになったグレーの岩肌。
どれも印象的で、とても美しい。もう一度見たいって気持ち、よくわかるよ。
「おい、にいちゃん」
何枚か撮り終えたところで、後ろからしゃがれた声をかけられた。
目に険をふくませた老人がいた。少しこわい。
ぼくは半身でふり返り会釈をし、なにも言葉を返さずにスマホを打つ。
「なんだよ、おまえ。年長者が話しかけてやってるのに知らんぷりか。まったく、最近の若いやつは」
たしかにぼくの態度は失礼かもしれない。でも、許してください。
おじいさんの日に焼けた顔が近づいた。
「コンピュータってやつか。そんなもんいじってばかりだから、ろくに人と話すこともできねえんだ。なんでもそうやって機械に頼りやがって。自分の体に覚えこませろ」
ぼくは笑みをそえて、また短く頭をさげた。
「ふん。意気地なしが。笑ってごまかそうとするのは日本人の悪いくせだ」
ここからおじいさんの独り語りが始まった。
「わしはな、戦争が終わってすぐに生まれたんだ。日本中が焼けて食い物もなかった。そんな国が先進国になれたのは、わしらが身を粉にして、汗水たらして働いてやったおかげだ。おまえら腰抜けとは根性が違う。最近の若いやつは口先ばかり達者で。おまえはその口すらきけねえんだから、使いもんにならん」
それ、日本のことを勉強したときに聞いたことがあります。高度経済成長ってやつですよね。
と、話をあわせようかと思ったけど、メッセージを打つ手をとめるわけにはいかない。
撮った写真を添付して、急いでメールを送る。早速、返信があった。
やっぱりぼくの連絡を待ってたんだ。なになに。
懐かしい景色です。ありがとう。わたしの若いころを思い出します、か。
この透明な海とそそり立つ山は、年月が経っても変わらないんだな。
おばあちゃんはこの港町で生まれて育ったんだよね。おじいちゃんもいっしょ。幼なじみって言葉は、むかしの日本にあったのかな。
今、ぼくが立っているところは、もう港としての役目は終えている。でも、きれいに整備されて公園になってるよ。
ぼくが生まれるずっと前、ここに世界から船が集まっていただなんて信じられないや。
「聞いて驚くな。わしはここでな、世界の船乗りを相手に働いとったんだ。そこいらへんのおいぼれとは世間を見る目が違うんだ。だからわかる。年寄りの話を聞かないおまえみたいなやつは、社会では通用せん。うちの嫁と同じだ。わしを邪魔もの扱いしよって」
ご老体の言葉を耳に入れながら、おばあちゃんからのメッセージの続きを読む。
あの人は亡くなる前に、生まれ故郷の空気を吸いたいと言っていました。
おじいちゃんの代わりに、ぼくが深呼吸しておくよ。
海の香りと山からの青い風。この清々しさを、ぼくは忘れないだろう。
「世界は広いぞ。おまえみたいな世間知らずの若造は、グロッバールな社会を生き抜くことはできんな」
あ、そうだ。いいこと思いついた。おばあちゃんにもっと懐かしい気分になってもらう方法。
ヘルパーのイザベラさんがおばあちゃんのパソコン操作を手伝えるのは三〇分ていど。急がなきゃ。
このおじいさんに頼むか。
「すみませんが、シャッターを押してもらえませんか」
あれ、急に表情が硬くなったぞ。
「あの山を背景に、ぼくの写真を撮ってほしいんですが」
その写真を送れば、地球の裏側にいるおばあちゃんに、タイムスリップの感覚を味わってもらえると思う。
なんせ、ぼくと若いころのおじいちゃんはそっくりなんだから。
古い白黒の写真を見てびっくりしたもん。たしかこういう生き写しみたいなのを、日本語でうりふたつっていうんだよね。
カメラをさし出すぼくに、おじいさんはノー、ノー、と節くれだった指を広げて大きくふる。
「このボタンをタッチするだけですから。お願いします」
「ノー、イングレッシュ、ノー」
消えそうな声とあいまいな笑みを置いて、おじいさんは逃げていった。
結婚をしてすぐの一大決心。おじいちゃんとおばあちゃんはこの港から日本を飛び出した。その孫であるぼくは、日本から遠く離れた地で生まれて成長した。
あのおじいさん、世界の船乗りと仕事をしてたって言ってたから、カタコトの日本語より、英語のほうがわかりやすいと思ったんだけどなあ。
最初のコメントを投稿しよう!