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御殿の場 八汐と政岡一派の対決
この修羅場は時間にしてどれ位だったか判らないが、千松の亡骸と流れ出た多量の血が、若君の身代わりになり、千松が八汐の手にかかって、甚振られ、なぶり殺しで絶命したことを物語った。八汐は、腰元に命じ掛下の上に打掛を羽織り、千松が蹴散らしたお菓子をひとつずつ拾い集め、菓子台の上に乗せ、惨劇の場、御殿大広間から立ち去ろうとした。
「待ちゃ、八汐」、栄御前は八汐に声をかけ止めた。此の場に及んでも表情を変えない政岡は、我が子と若君を摩り替えていたと考えた。八汐は、その場に残った。
我が子が目の前で此の様に甚振られ惨殺、なぶり殺しされて平気な親がいる訳が無い。絶対に助けに入るだろう。それをしないのは、八汐に殺されたのは政岡の子供の千松では無く、若君鶴千代君であったのだと考えた。
でかしたぞ八汐、そなたは若君毒殺の企てが露見するのを防いだばかりでは無く、本物の若君を仕留めたのじゃ、と大声で喚いた。そして栄御前は政岡に御家乗っ取り派の連判状を、政岡に見せてから立ち去ろうとした。その声を聞いた政岡が、鶴千代を抱き締めながらすっくと立ち上り、声を張り上げ、栄御前と八汐に言い放った。
お待ち下され、栄御前さま!今、何と仰いましたか?「若君毒殺の企て」と仰いましたね。更にその連判状には仙台藩乗っ取り計画と書いてありました。更に
政岡は懐から一枚の書状を取り出して拡げて大声で読んだ。
小槇改め、松島の夫であった御殿医が、もし自分が帰らない時は此の文を奥御殿の政岡さまに、至急お届けする様に致せ。八汐に脅されて仕方なく鼠取り用の毒饅頭を作って差し出した。もしかしたら若君毒殺に使われるかも知れない。と、結んであった。
此の文が本当であれば、あなた達は若君さまに毒饅頭を食べさせ様としたのですね。栄御前さま、千松はわたくしの実の子供です。忠義の為に毒饅頭と知って居て我が子千松は食べたのです。
我が子を見殺しにしたのは、御前さまがわたくしの出方をずっと見続けていたので、心を鬼にして八汐殿の為すが儘にして耐えていたのです。どんなに苦しかったか、此の胸が張り裂ける思いで、我が子が、八汐殿の懐剣で、甚振られ嬲り殺しにされるさまを見ていたのです。が、それももう終りました。
栄御前さま、八汐殿、此れだけ証拠が出揃えば、もう言い逃れは出来ませぬぞ!黒地に金糸の打掛を脱ぎ捨てた政岡が、青い懐剣房紐をくるくると解きながら、若君を護って大広間の片隅に寄った。続いて中臈の沖の井と、松島に改名した小槇も、懐剣房紐を素早く解きながら、政岡と若君を背中に庇って立った。
それ、者ども、御家に不忠を為す悪人共を、残らず成敗致せ!と政岡が下知をすると襖がガラッと開いて、紫矢絣の裾引き衣装に黒繻子の帯を胸高に、立て矢の字に締めて、黒塗りの懐剣を誇らしく帯に直挿しで手挟んだ、腰元二十名が大広間に乱入して、栄御前と八汐を取り囲んだ。
なに、何時の間に?腰元達の全員が政岡側に付いたので、八汐は狼狽して顔色を変えた。
栄御前は何が起きたのか?呆然と立ち竦んで居る。打掛を脱いだ松島が前に出て言った。
私は八汐殿に脅迫されて、毒饅頭を作った挙げ句に殺された医師の妻、小槇です。
主人が八汐殿の懐剣で殺されたので、あなた達の陰謀を伝えるために、御殿へ、急ぎ政岡さまに御注進したのです。
私は八汐殿の配下の腰元達に、夫の遺書を見せて、説得して廻ったのです。最初腰元の皆様は、わたくしの云う事を半信半疑でありました。でも今、此の場で起こった
千松さまの哀れな御最後を私達は襖の陰から、一部始終を、しかと拝見致しました。
千松さまは若君さまではなく、正真正銘、政岡さまのお子です。そのお子様が見事にお毒見役を果たされたのです。千松様が御立派な忠義の働きをして死ぬ事を、政岡様は予想はされていたのでしょうけれども、自分達の犯罪を隠そうとして、幼い子供を惨殺する非道は決して許される事ではありませぬ。
政岡さまは断腸の思いで、可愛い我が子が、八汐殿の懐剣で喉首を刺され、抉られても、とどめを刺されても、見事に栄御前さまを欺き通されたのです。政岡さま親子こそ忠義の鏡です。あなた達の悪業は天が知る事に為り、腰元の皆さまは、政岡さまのとった振る舞いに、涙を流し感動して全員がお味方に着く事に為ったのです。潔く観念して討たれてお仕舞い為され!
松島が云い終ると、紫矢絣姿の腰元達が構える薙刀が栄御前と八汐を取り囲んだ。極悪非道の悪女、八汐も、血相を変えて懐剣を逆手に構えて身構える。栄御前も事態が窮地に陥った事を悟って、蒔絵柄の懐剣の鞘を払って八汐と背中合わせに為った。
政岡派に寝返った腰元達の構える薙刀は襖の中へ、政岡は沖の井と松島を従え、襖の中へ入り、打掛姿の三人が八汐と栄御前に正対するが、政岡は後ろに退った。そして、沖の井と、八汐、松島と、栄御前の、二組の一騎打ちが開始された。
沖の井が、八汐さま、御覚悟お召され!と言って懐剣を振り上げて間合いを詰めて行く。
八汐は千松の血に染まった白綸子の衣装の袖を翻して、何を小癪な、お前如きが笑止千万じゃ、存分に掛って期やれ!八汐も懐剣を振り上げて、沖の井の、隙を窺う
陰謀の首謀者仁木弾正の姉、栄御前は頭と器量は良かったが、武芸の心得は全く無かった。
武家娘育ちで御殿医の妻の小槇は、政岡が籠城している奥御殿に掛け込んでから、中臈松島に名前を変えて、夫の仇を討つべき、千歳一隅の機会を待っていた。
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