若君毒殺への企て

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若君毒殺への企て

仙台藩伊達六十二万石で実際に起こった事件を歌舞伎で誇張して再現した「先代萩」を筆者の解釈で御紹介するので歌舞伎の演目内容とは趣が異なる事をお許し願いたい。 640957c3-76d8-4345-bf83-8a5479689481 仙台藩国家老の仁木弾正は、姉で東北管領家へ嫁いだ姉の栄御前と仙台藩の乗っ取りを画策していた。東北管領は平安時代から天皇の命令に依って東北地方の大名を統括していた名門であるが、徳川幕府に為ってからは有名無実と為って居た。名誉職であったが財力は無かったので、名目だけの管轄下の仙台藩の殿様が急逝して後継ぎが子供であったので、乗っ取ってしまおうと管領の妻、栄御前が画策したのが此の事件の発端だった。 仙台藩は藩主の殿様が労咳で急逝してしまったので、世継ぎの若君鶴千代を亡き者にしてしまえば、殿様の腹違い弟の仁木弾正に世継ぎの芽が廻ってくるからだ。弾正の不穏な動きを警戒した城代家老は、妻の政岡を若君の警護役として御殿へ上げる事にした。その際に三男の千松を若君の遊び相手にする為に母親に同行させた。 御殿に上がった政岡は弾正の悪巧みを明敏な頭脳で素早く嗅ぎ取ると、若君の周辺から男性の近習を遠ざけて中臈と腰元だけの奥女中社会にしてしまった。政岡に悪事を悟られたか?と感じた弾正は、妹の八汐を局として送り込んだ。女性であれば政岡は断る訳にはゆかないが、八汐は弾正の妹と知っているので警戒警報を心の内に発令した。 御殿髪に結った局八汐は御殿医を自分の局に呼んだ。御殿に上がって気が着いたのであるが、鼠が沢山いる。此れでは若君さまの御膳にも不衛生であるので、鼠を殺す毒饅頭を創ってくれる様に、帯に手挟んだ黒塗りの扇子を拡げて御殿医に耳打ちするが、自分は薬剤は作るが毒薬は作らない、と御殿医は断った。 狡猾な八汐は、そうか、断るのか!お前の口からどんな噂が流布されるか判らないので、断るのであれば、今、此処でお前を刺殺するがその覚悟はあるのじゃな?と言って、金襴の懐剣袋に巻き付けてある、懐剣房紐をズンと振り解いて、怖ろしい懐剣をギラリッと抜いて恐喝した。此の時の八汐の顔は此の世の者とは思えない程の鬼女だった。 三日後に御殿医は毒饅頭を奥御殿に十個持参してきた。八汐は上機嫌で彼に酒や御馳走を振る舞って、日が暮れてから帰宅させた。城から出て暫く行った処で、御高祖頭巾に顔を隠した八汐が帯に手挟んだ黒鞘懐剣を引き抜き、後ろから近づいてブスリッと心臓を狙って刺し通して殺した。最初から、妾の言う通りにすれば死なずに済んだものの、馬鹿なやつめが。毒饅頭が手に入った。若君、政岡、待っておれ! 仁木弾正が御殿に八汐の様子を窺いにきた。八汐は手に入れた毒饅頭を兄に見せるとふたりは顔を近付けて笑った。次はどうやって若君に毒饅頭を食べさせるか?を話し合った。 その時、廊下を通り過ぎた奥女中がいた。待ちゃ!八汐が権式高い声を挙げて腰元を呼び止めて、廊下から部屋に入る様に言った。奥女中が八汐の部屋に入ると、八汐は廊下側に座って襖を閉め退路を絶った。 そちゃ、政岡付きの奥女中であるな? たった今、わらわと御家老さまの話を聞いたであろう?聞いておれば生かしてはおかぬぞよ。と言って懐剣袋に二重三重に巻き付けてある、紫房を握ってくるくると巻き戻してゆく。八汐の醜く歪んだ白塗りの厚化粧に皺が寄った。 八汐の形相に腰を抜かした奥女中が、いいえ、聞いては居りませぬ。何も聞いては居りませぬ。と頭を畳に擦り着ける。そうで在るならば、此の饅頭を食して見よ。食べるなら聞いていない証拠じゃからな。八汐は右手に抜き放った氷の刃の懐剣、左手に毒饅頭を持って奥女中の目の前に差し出した。 何も知らない彼女は喜んで饅頭をひと息に呑み込んでか、直ぐに大量の血を吐いて死んだ。八汐は毒饅頭の効果を確認して笑いながら、横たわる奥女中が帯に手挟んでいる懐剣を袋ごと抜きとって、紐をぱらぱらと解き、懐剣の鞘をクイッと払って、青白い懐剣を抜き、奥女中の袖で喉を抑えてスパッと掻き切った。どくどくと血が溢れ出たが袖で抑えているので、返り血は浴びないのだ。巧妙な妹の殺しの手口を見ている。兄の弾正も呆れて口が塞がらなかった。 82a73e3b-befa-475b-aa5e-d318cc2b1bf4 御殿医の妻、小槇は夫が背中から刺されて遺体で帰ってきたので、夫が言い残した言葉を思い出した。万一、儂が帰って来ないか、殺されたら、此の書状を持って奥御殿の政岡様の処に掛け込むが良い。さもないとお前も殺される。と言っていたのを思い出した。 小槇は書状を開いて速読した。局の八汐から、ネズミ退治用の毒饅頭を作れと命じられた。断れば殺す、と強要された。命を取られる訳には行かないので、云われる儘に毒饅頭を作って八汐様に差し出す。小槇はその書状を持って御殿女中の衣装を着て政岡に面会、一部始終を報告した。 鼠取りの為の毒饅頭を作った?御殿には鼠一匹いないのに?何の為に八汐は命じたのだろう。しかも作った御殿医は、八汐に毒饅頭を届けた帰りに、懐剣で背中を刺されて殺されている。一刺しで殺めるとはよほどの武家女だ。 小槇の報告が終った時に、慌ただしく奥女中の遺体が、八汐の腰元達の手に依って運ばれてきた。 腰元のひとりが口上を言った。此の奥女中は御廊下で八汐さまにぶつかっておきながら、謝りもせずに通り過ぎ様としたので、八汐さまが叱責されたのを逆恨みして、己の懐剣を抜いて斬り掛った。そのため八汐さまに懐剣で無礼討ちにされたのです。そう言って冷たい顔をして立ち去った。 政岡が奥女中の遺体に被せてある絹地の打掛を剥いで見ると、遺体の切り傷は喉首に一箇所だけだった。不思議だ、喉首を切る無礼討ち等は例が無かった。政岡は遺体の口元に顔を近付けて臭いを嗅いだ。猛毒の砒素の香りがする。この奥女中は毒殺され、しかも懐剣で突き刺されとどめを刺されたのだ。 小槇の夫の御殿医が作った毒饅頭を食べさせられたのだ。八汐は政岡の奥女中を使って毒饅頭の成果を試し、成功したので自ら懐剣で無礼討ちに見せ掛けて殺害した。 むむむ、何と云う卑劣な事を!毒饅頭は鼠を殺す為では無く、本当の狙いは若君さまの御命を縮め参らせる事だったのだ。政岡は、八汐一味の非情で残忍な仕打ちに背筋が凍った。
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